投稿者 鎌倉在 T・S 主婦 74才

夫を在宅で看取った妻の手記

私は2014年4月に主人を本人の希望通りに自宅で看取りました。
2012年4月に慢性間質肺炎と診断されてからの二年間の闘病生活は大変でした。

それは後で書くとしてその前の主人の病歴ですが。
 1977年 胃潰瘍で胃の2/3摘出手術
 1981年 糖尿病発症
 1991年 心臓バイパス手術
 2002年 心臓ステント手術

主人は以上の病気としっかり向き合い、きちんと通院し、主治医の指示を守り、 趣味のパソコン、写真、オーディオを楽しみ、旅行へも行ったりと過ごして来ました。

私がする事と云えばカロリー計算をしての食事作りぐらいでした。
風邪をひき耳鼻科で診てもらっていて、二か月も咳が止まらないので、今まで通院 している新宿の国際医療研究センターの呼吸器外来を受診して間質性肺炎と分かったのです。 この病気は様々な原因から肺胞壁に炎症や損傷を起こし、肺が厚く硬くなり(線維化) ガス交換が出来なくなる病気です。

原因を調べる為に胸腔鏡下肺生検をすることになりました。
この検査は胸部に三か所小さな穴を開けて1cm程度の病変部を外科的に切除、採取し検査するのです。 結果が出るのに一か月かかり慢性過敏性肺臓炎と分かりました。
この病気は元の状態に戻すことは出来ないが、進行を少しでも遅らせるため、炎症を抑えるための ステロイド剤による治療をすることになり、2012年11月14日に入院しステロイド治療開始しました。

それと同時に医師に言われたのは、家に問題が有るかもしれないから家をきれいにするようにとの事で 家全体の壁、土壁、畳の取り替え等のリフォームを退院までにするように・・・・と。 工務店さんにお願いして一ケ月でやってもらい、今まで使っていた羽毛布団やダウンジャケットを捨て 在宅酸素医療の為、自宅での酸素供給装置や外出用の酸素ボンベを用意し、やっと12月28日に退院する ことが出来ました。しかし、それからが戦いでした。

ステロイドの副作用でいらいら、むくみ、不眠と夜になっても眠くないと言って寝てくれないのには 困りました。
寝るように言うと怒り出します。頭もボーとしていたと思いますが、一日中今までの趣味のパソコン、 オーディオ、機械いじり等をづーとやっていました。
一月中旬くらいから夜12時過ぎですが布団に入って短時間でも寝てくれるようになり、少し安心しました。 三月ころからは二階の自分の部屋には苦しくて行けなくなり、トイレに行くのも辛そう。 4月10日の通院で、肺の状態が悪くなっているので入院治療が必要と云われて4月12日に入院する。
今度の治療はステロイド薬を大量に点滴するステロイドパルス療法との事。

少しでも良くなることを願うばかり。
主人も自分の体の状態を”今回の症状は前回の症状と違うことは自分でも分かる”とメールしてきて 気弱な様子で私も悲しくなる。
少しでも傍に居てあげたいので、病院の昼食時間に合わせて行き一緒にお昼を食べて夕食時間まで居る ようにしました。

 6月4日退院。
 6月19日退院後初めての外来受診でしたが、筋力が落ちて歩くのはヨタヨタでした。
 6月24日76才の誕生日を迎える事が出来てうれしかったです。
自動車免許証の更新で高齢者講習を受けると言う。
私としては、酸素を付けての外出は苦しいし、もう運転することはないので必要ないと思うのだが、 主人の気持ちを考えると”受けるのはやめよう”とは言えず、車に乗せて受けに行きました。
月一の外来受診も少し歩くと苦しくなるので大変になって来た。
家の酸素供給装置を容量の大きいものにかえてもらう。

11月6日、腰の痛みが強く、近くの整形外科を受診する。座薬をもらう。
3日後には痛みも楽になり音楽を聴いたり、テレビを見たりし、久しぶりにお風呂に入り、頭も洗いさっぱりする。 苦しくなるので、お風呂は短時間で済ませる。
食事の量も少なくなっている。

2013年12月18日の外来受診で先生に”主人が自分が悪くなっても救急車を呼ばないで、と言うので、私はどうしたら 良いのか不安です。”と話しました。
すると先生は近くで在宅診療医を探しては・・と言い”診療情報提供書”を書いて下さり私の所へも 通えるまで来てもよいですよ、と言って下さり、主人の気持ちを思うととても嬉しかったです。

早速調べて、かまくらファミリークリニックに電話し事情を話し、栗原先生が引き受けて下さり、今まで通り 国際医療研究センターに通院しながら、月二回の訪問診療を受けることになり、24時間電話も受けてくれる とのことで、本当に安心しました。

2014年1月1日新年を孫たちと一緒に迎える事が出来たことは嬉しかった。
最後のお正月になると思う。
苦しいからと酸素流量を多くすると炭酸ガスがでて体調が悪くなるとの事、咳がでて苦しそう。 薬の影響もあり白内障が進んでいるので入院して手術することになる。体調が悪くなっているが本人は本やテレビが はっきり見たいので頑張ると言う。

1月20日に入院し両目の手術をし成功、1月24日に退院。
栗原先生からの指示でケアマネさんに来てもらい、相談し介護認定の申請書を提出する。 介護認定2との通知が来たのは3月8日。 この頃は酸素流量も多くなり少し動いても苦しい様子、食事も少ししか食べない。咳が出て苦しい。 とうとう主人から”もう新宿まで通院出来ない”と言ったので、国際医療研究センターの先生の所へ行き事情を 話し、主人からのお礼の手紙を渡す。

通院を諦めることになり本当に辛い気持ちだったと思う。 日に日に厳しくなってきている。
お風呂に入れるのも無理になってきて、4月16日訪問看護師さんをお願いする。それと介護ベツトを手配してもらう。 ベッドになり私も世話をするのが楽になる。
鎌倉医師会訪問介護ステーションから看護師さんが来て下さり、寝たまま洗髪して下さり髭も剃ってくれて さつぱりし気持ちよくなる。
傍に居てあげないと不安がる。
ウトウトしている時間が多くなり食べなくなってきて元気がなくなっている。

4月22日は私たちの49回目の結婚記念日でした。
最後になると思う。
4月23日血圧が低くなっているので心配。
4月26日23時頃、主人の様子が不安になり、看護ステーションに電話して来てもらう。
最後が近づいている様子。
何か処置するわけではないが2時間いて下さり本当に感謝しています。
4月27日夜、せん妄、意識混濁があり、栗原先生に電話して来てもらう。
”お子さんを呼んで下さい”と

4月28日2時51分、子供たち孫たちに見守られて眠るように亡くなりました。76才でした。
私としては主人の気持ちを大事に過ごしてきて、本当に良かったと思っています。
主人は苦しいのに、私に対して”疲れているよね”とか”後、一人になっちゃうよね”とか言っていました。 心配してくれているんだと感じ、もうそれだけで十分でした。お疲れ様でした。 私も主人も、他の人の助けを借りず二人で頑張ろうとやってきましたが、我慢せずにもっと早くにプロの 手を借りていたら・・・と思います。

訪問診療の先生、ケアマネさん、訪問看護師さんは患者の情報を共有し最善の方法を考えてくれました。 優しく親身に接して下さった事を有難く感謝しています。


編集後記
私の所属する鎌倉のスポーツクラブで、小林麻央さんの逝き方が話題になった時、メンバーの一人が 「私の友人でご主人を在宅介護で看取った方がいる」と聞き、同じ世代の方々の多くの皆様に、その 経験談を共有したい、とお願いしました所、趣旨に賛同され、このような手記をいただきました。
この手記の裏には、書き尽くせないご主人への愛情と、ご苦労があったでしょう。
ご冥福をお祈りし、私たちのこれからに役立てたいと、願っています。
2017・7・31 管理人

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