定年後の世界遺産の旅

何時行くか?行ける時に行く、入れるときに行く
それが、政情不安な世界への旅です。

世界遺産 中近東イスラム・世界史を訪ねる旅  シリア・ヨルダン・イランへ

このサイトでは、これまでに訪れた世界遺産の旅を紹介してきています。
原則として旅は全て、自由個人旅行或いは、夫婦二人だけの手配旅行で行った国・場所・世界遺産の旅だけを紹介してきました。
何故ならば、団体PACツァーで行った国々は、ただ写真だけが残っていて、その遺跡の名前は解っていても、遺跡のある都市の名前・ 位置さえ定かではなく、ただ単に金を払って連れて行ってもらった、「物見遊山」の旅だったからです。
インターネット上には、多くの旅行記が掲載されています。
特にシニアのお金持ち層が掲載している「世界遺産旅行記」は、 まるで観光ガイドブックのようで、これから旅を目指す若い・個人旅行者には全く役に立たず、却って害になるような情報 ばかりです。

今回掲載する、シリア・ヨルダン・イランは、団体PACツァーに参加した時のものです。年代は1994年・96と随分昔ですで、 細かい値段・飛行ルートなどの情報は掲載しません。
あえて今回、今までの自己規範を破って、添乗員同行の団体PAC旅行記を掲載した理由は
  ・今、紛争中のシリアと云う国を、ほとんどの日本人が知らず、場所さえ定かではないこと
  ・世界遺産を訪ねる旅人は、この地中海に面した、世界史発祥の地を理解する必要があること
  ・私が歳をとって、何か記録を残さなくては考えたこと。  からです

シリアと云う国
ヨルダンと云う国 ペトラ遺跡への行き方
イランと云う国 世界一美しい街 イスファーハン
アラブ・イスラムの国へ旅行は危険か?

シリアと云う国

シリアと云う現在の国の語源は「アッシリア」です。
「アッシリア」は古代世界史に登場する、チグリス川とユーフラテス川の上流域を中心に栄え国です。
世界史に登場する、スカートを履いたようなアッシリア人の像とか、楔型文字粘土板が、お土産物屋で売られています。が、 現シリアにある遺跡は殆どが、ローマ帝国時代以降の遺跡です。
古代史に残るアッシリア・バビロニアの遺跡は、イラクへ行かないと見られません。

ホムス  クラックディッシュバリエ
シリア国内には、12世紀の十字軍の城が沢山残っています。
各地に残る十字軍の城のなかで、最も美しく・保存状態が良いのが、ホムスのクラックディッシュバリエ です。
城からは、遠く雪のレバノン山脈と、シリアの農業を支える、地中海まで続く緑の穀倉地帯がみえます。

ハマ  大水車
ギネスブックに登場する、現役では世界最大の水車です。
主に、水路の水位調節用に使われています。訪れた日は水量も少なく、廻ってはいませんでした。
この近くに、紀元前2000年頃のセム系人遺跡があり、ここからメソポタミアの楔形文字粘土板が発掘された エブラ遺跡があります。

アレッポ  シリア第二の大都市
トルコ国境に近いシリア第二の大都市、2012年内戦さなか、日本人女性ジャーナリストが殺害された ことで、日本人の間でも認識された町です。
この町の見所は、アレッポ博物館です。
古代アッシリア・メソポタミアの展示はそう多くはないのですが、ギリシャ・ローマ時代の部屋は、まるで パキスタンのタキシラを見ているようで、アレキサンダーの時代を実感できます。

タドムル  パルミラ パール神殿
パルミラとは、椰子の意味で紀元前1世紀から後2世紀のローマ時代の遺跡です。
地図でも解るようにシリアを東西に結ぶ幹線道路の真ん中に位置し、シルクロード交易のオアシス 都市として栄えた遺跡です。 背後にみえる丘の上の砦は、アラブ時代のもの。
私の中では、お薦め世界遺産ベストテンにランクする美しい遺跡で、最低二泊して朝・夕の陽の織りなす 風景を堪能したいものです。

ボスラ  世界一美しい円形劇場
ヨルダン国境に近いボスラに、ほぼ完全な形で残されている世界一美しい円形劇場とばれる、コーマ時代 の遺跡があります。 アラブ時代に、外壁を設けて城として利用していた為、現在まで残りました。
ツァー仲間の声楽家が舞台の中央で、アカペラで一曲歌ったのが、今でも鮮明な記憶として残っています。

ダマスカス 
聖書の街とウマイヤードモスク


ダマスカスは、新約聖書に登場する都市です。狭い道が入り組み、迷路のようで、キリスト誕生の頃と何ら変わって いないと、云われています。
ウマイヤードモスクは、メッカ・メディナ・エルサレムの次に位置するイスラムの四大聖地です。 モスク の中には、サロメの劇で有名なヨハネの首が祭られています。
シリアは観光客の服装には寛大ですが、ここウマイヤードモスクだけは、女性は髪を覆うスカーフの他に、全身 を隠すヒジャブの着用が必要でした。、

ヨルダンと云う国

ヨルダンへはシリアより陸路入りました。
1996年当時、シリアは現大統領の父親のフセイン時代、どちらかと云うソ連よりのアラブ社会主義・独裁政権 で、町中いたる所に、フセイン肖像写真が飾られていたましたが、ヨルダンに入ると雰囲気は一変します。
ヨルダンはバックパッカーの間で、中近東アラブ社会で一番旅しやすい国と云われています。理由は、ヨルダン王室・政府 がアメリカ寄り、西欧よりの政策をとっているからです。(隣にパレスチナ・イスラエルをかかえている事情もあるのですが)
ホテル・レストランの設備、応対も私たちのスタンダードに近く楽ですが、物価も比例して、シリアの1.5~2倍となります。

ハシミテ王国  首都アンマン
アンマンは七つの丘に囲まれた町です。
これらの丘の上に古代ローマ時代の遺跡が多く残ってます、が、中東に慣れ親しんだ旅人には、取り立てて見る ような遺跡はないです。
アンマンは、遺跡観光・移動で疲れた体を休め、慣れ親しんだ欧米・日本文化に身を浸す休憩地です。

死海  塩分濃度33%
ヨルダンから海抜マイナス400mの死海へは、立派なハイウェーを下って行きます。勿論、英語の通じるハイウェー・路線バス が走っており、至る所に大きな休憩所・お土産物屋さんがあります。 死海の周りにも、海の家的なレストラン・着替え所が沢山あります。
私たちが行ったのは1月ですが、気温は23℃と暖かく、塩分濃度33%の死海は本当に浮かんだまま本が読めます。しかし 眼に入ると強烈な痛みがくるのでご注意を。

ネポ山  モーゼ終焉の地
エジプトの奴隷境遇にあったユダヤの民を連れ帰ったモーゼは、この山に登り、眼下に広がる緑の ヨルダン渓谷を指さして、「あれが約束の地カナン」と云ったのがここです。
眼下にはヨルダン川西岸が見え、歴史と現代の政治問題を実感します。
ここは、キリスト教徒にとっても聖地となっており、多くの日本・韓国のキリスト教徒団体がミサを行っていました。

ワディラム
世界一美しい海と評判の紅海、アカバに近い、砂漠地帯
映画”アラビアのロレンス”の舞台です。
昔は大英帝国・トルコ帝国。そして現代のアラブ諸国と今も続く紛争の地です。
赤い砂漠が夕日に映えて益々赤くなって行く様は、感動的です。

ジュラッシュ
アンマンの北、50Km、古代ローマ人がアラブに造ったローマ都市のなかで最も華麗、かつ広大な遺跡です。
規模と云い保存状態と云い、2000年前と変わらぬ姿は、奇跡です。
特に凱旋門から入っての大広間フォーラムには、見事な円柱の列が残っています。 トルコのエフェスと比べても、遜色のない規模・保存状態です。

ペトラ
シクと呼ばれる狭い岩の裂け目の道を30分歩くと、突然視界が開け、”エル・ハズネ”と呼ばれる神殿風正面を持つ霊廟が 現れます。
映画”インディンショーズ/最後の聖戦”の舞台です。しかし、正面だけは立派なのですが、内側は奥行きがなく、 張りぼてのような建物です。
それでも圧巻・はるかヨルダン南部まで見に行く価値は十分です。
60代のリタイヤシニア層でも、基本的な英語力さえあれば、この世界の大遺跡に簡単にいけます。
拠点となる都市は、「ワディ・ムーサ」へは、アンマンから幾らでもバス・ツァーが出ています。

当サイトの掲示板にヨルダンにお住まい「アルマッサーダ 通江」さんから投稿がありました。 なかなか、日本のネットでは探せない、ヨルダンの旅行会社英語版のサイトです。
ヨルダンの現地旅行会社、ベドウィンライフツアー

イランと云う国

イランへ行ったのは1994年です。
東京、特に上野公園周辺に出稼ぎのイランの人々が溢れていた時期です。 当時の意識としては、イランへの旅は当然、団体PAC旅行しか考えられませんでした。
40代の働き盛り、世の中バブル経済は崩壊して数年経ってはいたものの、仕事も順調で休める時期は、正月・GW・お盆に限定 され、94年末「イランハイライト8日間」40万円の団体PACツァーは安いと(今ではとんでもない高額だと思いますが)、勘違いして 、起業当時からお付き合いがあり、 この頃成長過程にあった「ユーラシア旅行社」で行った時の記録です。

成田からテヘランへのフライトはイラン航空北京経由便です。このフライトはテヘランへ行く旅行客よりも 北京で降りる乗客のほうが圧倒的に多いのです。
そして、イラン航空が北京の空港を飛び立つや機内アナウンスが流れます。 内容は、右の画像、外国人用ホテル入口にある警告看板と同じで、

外国人女性であろうとも、イラン国内ではイランのイスラム規律を守ってもらいます。
1,人前で化粧してはならぬ
2,人前で髪の毛と首を見せてはならぬ
3,ロング・ダークドレスで体を覆い、体型を見せてはならぬ
この時のイランPACツァーは添乗員を含めて16名、うち女性は10名でした。
女性たちはこのような状況は、行く前から解ってはおり、半分面白がっていたのですが、 毎日三食のホテルでの食事の最中でもスカーフは外せず、街中を歩いていると、お節介なオジサンが やって来て前髪が見えていると、注意する有様で、最後はかなりナーバスになっていました。
帰国の日、飛行機がテヘランの滑走路を離れると同時に、女性たちはスカーフを外し、”降ろせるもの降ろしてみろ”と叫び 喝采を浴びていました。
テヘラン


テヘランは5000m級のエルグース山脈に囲まれた高原都市で、 12月のテヘランの朝の気温は3℃で、町から見える山々は、雪化粧でした。
当時、アメリカとの外交関係が最悪の時期で、街中には”Go Down USA”のプロパガンダが至る所に 掲げられていました。

テヘランの最大・必須の見所はテヘラン考古学博物館です。
ペルセポリスの宝物庫を飾っていたダリウス王のレリーフ等が有名ですが、ここでの最大の見ものは、世界史の教科書に 登場するバビロニアのハムラビ法典です。
但し、残念ながらレプリカです。本物は大英博物館です。ここでガイドから、如何に欧米・キリスト教文化が削除・略奪を行っているか を聞かされます。
確かに、長い間白人・キリスト教社会に身をおいて、黄色アジア人として過ごした経験のある私は、同感・賛成するものがありました。

イスファハン


これまで、世界各地を旅して、何処が一番良かったかと聞かれます。
当然、旅人のスタイル・経験・天候などに左右されますが、敢て三カ所まで許されるなら次の三つです。
・ボリビアのラパス
・ブータンのパロ
・イランのイスファハン
 です。

イスファハンは15世紀サファビー朝の首都、世界の半分と呼ばれ、栄えたシーア派のモスクの街です。
美しいイマーム広場を中心に、美しい 橋が何本もかかる清流 街です。 イスラム教を中心とし、普通に穏やかに暮らす人々の街です。
しかし、最近イスファハンは他の意味で世界に知られています。イランの原爆開発の中心地としてですが、当時 全く話題にもなっていませんでした。



シラーズ  ペルセポリス
ペルセポリスはシラーズの街から60kmにある、紀元前700年ごろから栄えたアケメネス朝ペルシア帝国の中心地で、 紀元前331にアレクサンドロス大王によって破壊されて、現在に至っています。

アジア・シルクロード・世界史好き・遺跡好きの人間にとって、 パキスタンのタキシラ・ガンダーラと並ぶ、聖地のような場所です。
シリア・ヨルダンのローマ遺跡とは、そもそも時代が違います。 全ての建造物が、キリストがパレスチナで説教をし、ダマスカスの裏町を歩く、遥か300年~1000年も前の話で、紀元前331にギリシャのアレクサンダーが 火を放ったままの姿が、残っているのです。
ペルセポリスとは、後のギリシャ人が付けた名前で、「ペルシャの都市」という何の変哲もない意味です。
パサルガダエ
ペルセポリスより車で1時間にあるアケメネス朝の最初の都
荒野の真ん中に、始祖キュロス王の墓がありました。
背後に白い峰々のザクロス山脈が見え、山の向こう側がイラクです。



イランのお土産はカスピ海産キャビア
1994年、イランと日本の経済格差は著しく、50ドルを両替したら、帯封の札束が2つになり大金持ちの気分でした。
お土産は、名産のキャビアなのですが、公式的には外国人観光客の海外持ち出しはできないのです国内で食べる分として、幾らでも売っていました。
最高級のグレーキャビア50gが8ドルです。
空港の税関で形式的な手荷物検査はありますが、ボディチェツクもレントゲン検査もないので(1994年当時の話、今はどうか知りません。)ポケットに入れて すんなり通関できました。
テヘランを飛び立った後に、驚いたのは機内アナウンスでした。
「イラン国際航空はお客様のサービスとして、お手持ちのキャビアを冷蔵庫にお預かりします。」と云うのです。
これは、イラン政府の陰謀ではないのか?、集めて没収するのでは?勘ぐり、キャビンスタッフに質問したら、ちゃんと預かり証を発行すると云うので 信用した次第です。

帰国して食べた、キャビアぶっかけ丼の美味しかったこと。

アラブ・イスラムの国への旅行は危険か?

頻繁に、ディープアジアや、アラブ・イスラム諸国へ旅する私たちは、 ヨーロツパ・イタリアが好きな中高年オバサンや、アメリカ・ニューヨークが大好きなオジサン達から、アラブ・イスラムの国って 大丈夫なの?、危険ではないの、治安は?は大丈夫と、よく聞かれます。

「危ない」って何が危ないって思うの?と反対に質問したくなります。
「治安とかさ」 それは日本から比べれば、どこの国でも、夜間一人で繁華街の裏通りを歩けば、かなりの確率で危険に遭遇 します。その確率の高さで云えば、ハワイ・ホノルルの中華街の運河沿い側だってかなり高いし、イタリア・ローマなら昼最中、相手から話しかけて くるイタリア人は、99%物売り・スリ・詐欺・かっぱらいの類です。

世界各地の大観光地には、うぶな観光客をひっかけようと手ぐすね引いて待っている手合いはゴマンといます
日本と同じ感覚で油断すると、置き引きは当たり前なのです。アラブ・インドではこれらが、他国に比べてしつこいだけです。
「治安の悪さ」とは、生命を脅かされる危険とか、物品を強引に強奪される危険度です。
中米パナマでは、昼さなかの繁華街の大通りで、ポケットに手を入れられましたし、歩いていても常に後ろを注意していました。パリ・モンマルトルの裏道では、前を歩いていた 観光客がカバンをひったくられのを見ました。ペルー・リマでは、デモに遭遇して催涙ガスの洗礼を浴びたこともあります。
これらは、確かに「治安の悪さ」です。

アラブ・イスラムの国は、政治的状況による治安を除けば(内戦状態の国へ観光旅行するバカはいません)、他の西欧諸国に比べると 良いと断言できます。理由はイスラム法の原点である「目には目を、歯には歯を」と云う厳しい 法律があるからです。

「女性は大丈夫なの」
確かに、日本人女性を見つめるアラブ人・インド人の眼付は、時には危険を感じる女性がいるかも知れません。
それは、イスラムやヒンドゥーの宗教的戒律からくるもので、一般女性の肌を露わにした姿に驚いているだけで、妄想はあっても 行動には至りません。イスラム社会は女性に優しい世界なのです。一夫多妻も、イランの女性専用バスも、女性を 大切にし、守る為にあるのです。

日本人女性旅人にお願い
純真・初心なアラブ人・アジア人青年の心に変な誤解を与える行動は絶対しないで下さい。
アジアの貧しい国の運転手だって、男には変わりないのです。
是非一度 2012・3 ミャンマー 現地で解ったバガン日本人女性殺害事件を読んでから旅に出て下さい。

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