湘南・鎌倉から BLOG4

日々感じる事・出来事、そして年齢を重ねていく 団塊オジサンの独り言を綴っています


4/27 退職9年にして、やっと年金が満額になったけど、少し計算違いか?


昭和23年2月生まれの私は64才の誕生日を迎え、この4月ようやく国民年金のほぼ満額を受け取れる資格・身分 になりました。
60才からこれまでは、厚生年金基金と国民年金の比例部分は満額受け取っていましたが、ほんの僅かな金額で 当然これまでの9年間は持ち出し生活です。
しかし、64才からは定額部分と、カミサンが満額受け取れるまでの4年間限定ですが、配偶者加算分が増え、 かなり、手元資産の減少スピードにブレーキがかかると期待していました。

現役で働いている方はご存知ないでしょうが、偶数月の15日の朝の銀行・郵便局のATMには長蛇の列が出来ます。 なんで、こんなに並んでいるのか、私も最近まで知りませんでした。偶数月の15日は、国民年金の支給日なのです。 ですから、多くのシニア・お年寄りがそのお金を引き出す為に、9時のシャッターが開くのを待っているのです。
私たちは、まだ当日下すほどの状態でもありませんが、 2月誕生日の後の初めての満額なので、自宅からインターネットバンク経由で4月支給金額を確認して見ました。

以前から計算していた金額とかなり違って、少ないのにアセリました。 これが本当の支給額なら、大幅な老後資金計画の変更とまでは行かなくとも、再度エクセルの数値をいじらなくてはなりません。 今まで年金事業団から受け取った資料の数字から計算しても、この銀行口座振り込み金額には納得出来ないのです。 私が担当している「大船NPOセンター主催Web講座」 の受講者に社会保険労務士の方がいらっしゃるので、その方に聞いてみようかと思いましたが、財布の中身の話になるので、敬遠して 藤沢の年金事務所にに行ってきました。

数年前と違って、社会保険事務所はガラガラでした。
退職直後は、消えた年金問題とか、団塊世代の一斉退職とかがあり、社会保険事務所の窓口の時間待ち2時間は当たり前 だったのですが、今回8時受付、8時半相談開始と事前に解っていましたので、久しぶりに7時台の満員の東海道線に乗って 藤沢まで行くと、受付番号は一番でした。

結果・結論:
年金事業団は打ち出す資料・数字は、本人の誕生月を考慮しておらず、年額で出てきます。
6月生まれですと、最初の年はその金額の半分と云うことです。これを知らずに老後資金計画を立てると、初年度に限り 資金計画に齟齬がでます。
通常、年金は偶数月に2か月分振り込まれます。今回の場合、4月に銀行に振り込まれたのは、今まで受け取っていた 比例部分の二ヶ月分と、 2月誕生日ですから、64歳以降の「定額部分+配偶者加算」の3月分(一ヵ月分)だったのです。
これでは、自宅で今までの見込み資料を並べて数字を組み合わせしていても、合致するはずは有りません。

本当に、満額と云えるのは6月15日の入金からになるのです。
但し、退職直後の見込み金額より少なくなります。物価スライド方式の為、若干、年額にして数万少なくなります。これくらいは 仕方ないのですが・・・・・
では、物価が上がった時、急激なインフレが起きた時、年金はスライドして上がるのでしょうか?それが心配です。

私は、アルゼンチン・ロシアでこの超インフレに苦しむ年金生活者を実際に見て来ているのです。日本が そうならないと信じていますが、後は祈るだけ。


5/13 50代が考える定年退職後の海外生活のイメージとは?


最近、ご意見・問い合わせフォームからの相談 メールが増えています。
特徴としては、私と同じ世代(団塊世代)からのメールは減ってきており、増えているのは定年までは10年 以上あるであろう50代の女性(推測シングル)です。

定年まで5~10年前、今までは夢や願望だったものが、現実問題として自分の 使えるお金と相談しなくてはならない時期になってくるのです。
そして、夢は。

・年間を通して暖かい国
・自然あふれる美しい海
・生活物価、不動産価格の安い
・安全で衛生的な
・友好的地元な人々とのふれあいのがある
「退職後は日本を離れて、年金の範囲内で、年間を通じてTシャツだけで暮らせる気候の良い場所に住み、 時々、日本へ帰る、そんな生活をしたい。」何処が良いでしょうか?と云うのが、一般的な質問です。

質問してくる方には少し酷くかも知れませんが、退職後に理想の場所で生活している自分自身のイメージは、
・今現在の年齢50代そのままではありませんか?
・肌も若く、3日連続の深夜残業でも何とか持ちこたえる
・周りには、家族・友人がおり
・必要なものは、お金さえあれば直ぐに手に入る
そんな今の自分自身を、老後の海外の生活イメージジグゾーのピースのひとつとして、当て嵌めていませんか?
私たちは還暦を過ぎ、現実に体力が衰えてきているのを実感もし、海外で生活する不便さ、手元のお金が 確実に減っていくある種の恐怖を知ってきましたから、50代のリタイヤ前の世代に、海外ロングテイ、海外 年金生活ってそんなに甘くないんだよ、と云えるのですが。
しかし一度膨らんだ夢は、私たち世代のアドバイス程度では、そんなに簡単には萎みません。 インターネット全盛時代、そんなことは解っているハズです。
後は、実際に経験するしかないのです。

私はこれらの質問・相談メールに対して、必ずお伝えすることがあります。

1,旅行会社に頼らずに自分自身で、エァーもホテルも観光も手配し、移動せずに、その町を 歩き、買い物し、生活しているイメージを想像して見る、これを最低3回経験し、その後初めて 住いについて考える。

2,定年後の海外年金生活の予算のなかに、日本に残してきた家、生活の経費を忘れずに 計上して下さい。
・固定資産税、市民税などの税金
・光熱費、NHK、電気、ガス、水道、電話などの基本料金
・インターネット、スポーツ、趣味のクラブの会費など
現地生活費のかなりの部分に食い込んでいくのが解ると思います。

そして3番目、最も重要なのは
今、稼げるときにしっかりと稼いで、貯めて下さい。老後の海外生活の色々な問題・悩みの70% は、資金力で解決できます。そして解決出来ない後の30%は
愛と人間同士の繋がり、そして健康

と伝えています。


5/22 66才の死 知人のお通夜に行ってきました。

朝から小雨の降る日、TVでは一日中東京スカイツリー開業のニュースです、記念すべき 日となるのか?。

今日のお通夜の知人は、日本を代表する建造物の殆どに係り合いを 持つ、大手エンジニアリング会社傘下の施工協力会社リーダーでした。
もちろん、東京スカイツリーにも係っていたようです。
今年のお正月、この知人の会社でお会いしています。社長を退いて会長になったと、聞いて いましたが、66才で現役を引くとは、思ってもみないほどエネルギッシュな人が、どうして?

お会いして、大腸がんの末期と聞かされました。
大腸がん検診、カメラが今ほど普及していない頃から、進んで大腸がん検診を受けて、社員にも 推奨していたご本人なのに。
お正月にお会いした時には、週3回は会社に来るようにしている、と言ってました。「誰か迎えの 車でも」、と聞くと電車できている、かなりしんどいが、体力の維持と通勤客や、駅の雑踏の中を 歩くことで、生きていることを実感し、生き抜くことを決意する、と云ってました。

「君は55才で辞めてよかったな」
「俺にはそんなことは考えられなかった。」
「老後は苦労かけた妻と、色々な国へ行こうと考えていた」
「まだまだ時間はあるとおもっていた」
「今は、モルヒネが欠かせない体になってしまった」

私は、数年前アルゼンチンの親しい友人を失くしています、69才、この方も大腸がんでした。大腸がんの進行の 早さをしっているので、下手な慰め言葉は不要です。
出来る限り長く、家族と共に過ごしてもらいたい、少なくとも、あの混む小田急で通勤出来るのだから、まだまだ 大丈夫と思って、別れたのがの最後でした。
あれから、たったの半年、儚いものです。人間の寿命が延び、日本人男性の平均寿命が世界トップと云っても、還暦 を過ぎた人間には、何時死が訪れても不思議ではないのです。ご冥福をお祈りいたします。
私も、前回の前立腺検査騒動でつくづく感じました。

そうそう、大学病院の病理に送った私のファジーな、グレーな前立腺生体針の細胞の結果を先週聞いてきました。
お騒がせしました!!、何ともないそうです
ある程度の覚悟はしていたのに、拍子抜け、何かつまんないね。


5/28 今週二度目のお通夜 平均寿命は保障期間に非ず。


知人のお通夜から二日後の夜、実家の兄から義兄(姉さんの夫)の訃報が飛び込んで きました。初めての心筋梗塞の発作で、その日のうちに亡くなりました。
71才です。
日頃から、血圧・コルステロールなどを気にしていたものの、特別、医療機関での検査 は受けてはいなかったようですが、極力過度な運動は避け、ウォーキングなどを 始めた矢先の出来事でした。

月曜日からのホノルル滞在をひかえてはいるものの、姉の心情を思うと一言でも 声をかけ、顔を出さなくては、既に両親がいない兄弟としては、面目もたたないので 翌日、故郷信州に行くことしました。

土曜日午前にあったweb講座の授業を少し早めに終え、準備の為に帰宅すると、カミサンが 慌てていました。

「大変、ゴメン、喪服はクリーニングに出しちゃってないの」・ 「ネクタイもワイシャツも洗濯屋」・ 「背広は濃いグレーのをだしておいたからそれを着て」

確かに、週に二度もお通夜・葬式があるとは想定していませんでした。それも 義理ではなく、かなり近い知人、親戚の訃報が。

最近、現役時代に造った背広・ネクタイの処分を検討して矢先でした。
カミサンは、今 流行りの整理・処分の達人「コンマリさん」以前から、過去二年間袖を通していない ものは捨てる主義の持ち主なのですが、私の背広とネクタイだけは、何とかお目こぼしを いただいていたのです。
確かに、今回はこの背広のおかげて何とかなりました。

故郷へは何年ぶりでしょうか?、直近で帰ったのが母の葬式ですから、葬式だけが帰る理由 となってしまっています。
高校まで過ごした長野市は、オリンピックを機会に都市計画が進み、昔学校や家のちかくを流れていた 小川は全て暗渠と化し、夕方遅くまで遊んでいた神社は、大型スーパーの一部に代わり、 新幹線開通以降の駅周辺は、昔のような善光寺の門前町の趣きはなくなり、ごくごく一般的な 日本の地方都市と何ら変わらぬ、全国的企業の看板だけが目立つ町に変貌していました。

NTTに勤めていた義兄は退職して11年、通夜の祭壇は、親戚一同や、甥っ子・姪っ子の勤める 会社からのお供花だけで、元の会社からは当然ながらありませんでした。
田舎と東京の通夜の習慣が違うのか、通夜に訪れる弔問客は、親戚を除くと残された姉の友人が10数人 、御焼香は10分ほどで終わりました。

その後、親族とお寺さんを交えたお斎(おとき)の宴の席で、姉とじっくり話す事か出来ました。
 夢の中にいるようで、遺体を前にしての通夜であることが信じられない、
 明日朝、起きた時に、 これが夢であって欲しい。

涙はいっさいなく、そう語っていました。

義兄は、生前整理とか、エンディングノートとか、遺言状とかについて触れる事を非常に嫌っていたようです。 全てはそのまま、普通の日の連続、何時かは死ぬことは解っていても、自分の年齢が日本人の平均寿命あたりに 来た時に、初めて考えるのが一般的かもしれません。

長野県の北部は、昔から浄土真宗が盛んで、私の家も、亡くなった義兄の本家も同じです。浄土真宗では通夜・葬式 ではお経の後に、必ずお坊さんの説話・説教があります。
その機会に、有名な「白骨の御文(おふみ)」が紹介されます。
現代文に訳すと(中略)

さて、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ儚いものは、 人間の生まれてから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。
それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。
〔人の死とは、〕私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。
(略) そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、 ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い切れない。 人生の終わりは、年齢に関わりなくやってくる。
あなかしこ、あなかしこ。

確かに、平均寿命とは、保障された期間でも、残された年月でもないのを、今回実感しました。 で・・・・私は、今日これから、ホノルルに旅立ちます。


6/1 一日の終わりはワイキキの浜辺でフラと夕日を見てます。


ハワイは地理上ではかなり南に位置しており、年間を通して同じ気温・気候と考えて いる日本人は多いと思います。
確かにそのとおりなのですが、日照時間、つまり 日の出・日の入り、太陽の方角は季節によって、かなり変わってきます。
毎年、年に二回ほどハワイにくるのですが、いつも1月から2月と、11月から12月の間、つまり ハワイの冬の季節、東京発のチケットと、ワイキキのホテルの最安値が重なる 時期です。
冬の季節、ワイキキから見るサンセットは、カラカウア通りから見て、 ほぼ正面の海に沈んでいきますが、夏至が近いこの6月の季節、太陽は 海には沈まず、ヒルトン方向の山に沈みます。時間的には7時15分頃。

この頃、カラカウア通りに面したフラステージで、フラショーが始まります。 観光客がもっとも集まるのが、アラモアナセンターとここなのですが、日本の フラの先生の話しでは、このワイキキの浜辺のほうが、数段格式が高く、 なかなか、日本の生徒さんを登場させてもらえないそうです。
そうなんです、ワイキキ・ホノルルのこのような公共の場所で踊っているのは、 ほとんどがアマチュアの皆さんなのです。(勿論プロの方もでていますが)。 今日も日本から3組のフラ教室の生徒さんが参加されて、踊りました。さすが、 この晴れの舞台に登場するのですから、ある以上のレベルとお見受けしました。

フラが終わる頃、毎週金曜日7時45分からは、恒例のヒルトンの花火があります。 ワイキキからだと、シェラトンの陰になり見えませんので、アウトリガーの 先の浜辺まで行くと、絶好の花火見物スポットになります。
こうして、私たちの夕方からの日課は終了し、後は今日の予算の範囲内で夕食 です。昼食はベトナムカレー二人でチップ・税込で30ドルもしましたので、 夕食はかなり 抑えて部屋のキッチンで済ませるものをと、スーパーに買い出し行きます。

明日の予定は未定、朝、起きてカピオラニ公園で一日遅れの無料電子版新聞 を読みながら決めようと思います。
今回の滞在も後三日、のんびり行きます。


6/9 アンバサダーホテル キッチンの使い方・持って行ったら便利なもの


私たちのハワイ滞在のホテルは、お馴染みのアンバサダーです。ホテルの星の数は サイトによっても違いますが、二つ半と云った所でしょう。
豪華なロビーも、ショッピングモールもなく、場所も繁華街からは離れた、カラカウア通り の西端で、ビーチには少し距離があります。
初めてのハワイとか、一生に何度かのハワイと云う方には向かないホテルですが、 私たちのような世代で、リーズナブルに、年に何度もハワイ滞在する向きの人々には、 絶対的に支持・人気のある中級ホテルです。

理由の一つが、お部屋が広くて、清潔であることと、フルキッチンが揃っていることです。
・冷蔵庫
・電子レンジ
・トースター
・電気湯沸かし器
・4つ口コンロ
・二人分の食器
・鍋・フライパン・また板等
・布きん・テッシュBOX

一応、スーパーから食材を買ってきて、直ぐに料理出来そうに見えますが、実際には、 足りないものが沢山有ります。 私たちの何回かの経験から、持っていった方が好いもの、持って行くものをご紹介します。

・調味料/塩・胡椒、サラダオイル、ドレッシングの小分け
勿論、ホノルルのスーパーへ行けば売っていますが、全てサイズが大きくて 1週間や10日の滞在にはもったいないです。
アメリカと云えばステーキですが、塩・胡椒、サラダオイルがなくては 料理も出来ません。
・サランラップの小
これも同じ理由です。アメリカの食材は量が多いので、二人で何日かに分けて 食べる為には、サランラップが必要なのですが、売っているのは途轍もなく大きな サイズだけです。
・食器洗剤の小とスポンジ
おそらく、食器をそのままにしておけば、お部屋クリーンアップのオバサンが洗って くれるかも知れませんが、日本人夫婦としては、そのままに出来るハズもなく、自分で 洗っていますが、食器洗剤は置いてありません。
・箸と小スプーン
日本人が多い割には、箸がないのと、何故かスプーンは大きなものしか置いてなく、 コーヒー・ヨーグルト・デザートには向いていなので、持って行きます。
・茶碗/どんぶり
日本人向けのコンドなら揃っているかも知れませんが、アンバサダーのキッチンには置いてありません。 ここはは元々アパートだったのを改装してホテルにした、アメリカ人用 の滞在型ホテルだったのですから、当たり前かもしれません。

果たして、ここまでしてホノルルのホテルで料理をすべきか?
実際、私たちは朝食・昼食は外で済ませ、夕食の2回に一回ぐらいしかキッチンを使っての夕食作り はしません。
スーパーに行けば、日本と同じようにデリバリーが色々揃っています。特にアラモアナ センターの白木屋は、日本のデパ地下と同じ品ぞろえで、特に「ままや」は、ご飯もおかずも全て 量り売り、1ポンド(≒450g)8.9ドルですから、良く利用します。

一般的に、アメリカ・ハワイのちゃんとしたレストラン(メニューがあって、ボーイが注文を取るような)に夫婦二人で簡単な食事しますと、 メニューの値段プラス+消費税4.72%+チップで40ドル前後は掛かると思って間違いないでしょう。
慣れない英語メニューと聞き取れないアメリカ発音に苦労するぐらいなら、お部屋のキッチンでデリバリーを電子レンジでチンし、 TVを見ながら食べて、食後は普段日本で食べれない果物や、カロリーを想像すると食べれないようなアメリカ型のスイーツを食べる ほうがどれだけ気楽か。

私たちが考えるホテルのフルキッチンとは、その程度です。


6/12 衝撃の航空券価格 成田・ハワイ往復9,000円の謎


今回のハワイ滞在総費用の記事を掲載するにあたって、私たちが取得したチャイナエァラインの価格と 現在6月末の価格の比較をしようと、お馴染みの総合格安航空券検索サイト「トラベル子」を見て、びっくり しました。
何と、9,000円のチケットが出回っているではないですか!!


上記画面はチケット単体価格です。ここに+手数料3,000円+燃油サーチャージ33,000円が追加されて、合計45,000円 ですが、確かに常識外の値段です。
実際のサイトはこちらただし、有効は6月末までですが。

航空会社未定とありますが、燃油サーチャージ33,000円から推定すると、米系航空会社なのか?、ともかく6月いっぱいのギリギリの期間に 出てくるところを見ると、何処かの航空券ホールセラーからの直前処分・ダンピングかと思われます。
かと言って マイレージが100%とありますから、ちゃんとした航空券で何も心配もなく、飛べるハズですが、しかし、安いからどうです、と云っても 帰って来たばかり再びハワイと云う訳にも行きません。

私たちのように、リタイヤ組は every day holidyなので、こうやって日本発の航空券の安い時期を 狙って旅行に行くのは、常識であり、常にインターネットで価格を見て、勉強する必要があります。
しかし、ここで落とし穴があります。せっかく安い航空券を手に入れたとして、次の大費用であるホテルの予約です。
ハワイの場合、日本の休みよりもアメリカの休日・祭日を念頭に置かねばなりません。アメリカの祭日は、ハッピーマンデー形式が 多く、三連休になり当然ホテルの設定価格に反映されます。せっかくの自由な身であるのですから、航空券の安い時期と アメリカの休日・祭日 が重ならない時期を選ぶのが必要です。

それにしても、航空券・ホテルの価格はどうやって決まるのでしょうか?
何方か、旅行業界内部に詳しい方、教えて下さい。口外はしませんから。


6/23 ハナウマベイ・ネイチャートレイルと高級住宅街 ハワイカイ

ココクレイター&ハナウマベイネイチャートレイル 動画 3分40秒


2012・1月、初めてハナウマベイの裏側、ココヘッド・クレーターに登った時に、美しいハナウマベイ を囲む丘の上を歩く人の姿を見ました。
この厳しい登山道・鉄路から登るココヘッドではなく、緩やかそうなハイキング道路のあの丘の上へも 行けるのだと、その時思い、次回行って見ようと考えました。

2012・5月、先ずはgoogle地図を航空写真にして、ハナウマベイの周辺を表示して見ました。
地上を歩いていても、ココヘツドの頂上に立っても良く解らなかったクレーターの姿が、キッチリ と見とれます。
航空写真でみても確かに、ココヘッドへのルートは厳しそうなのが解ります。
一方、ハナウマベイを囲むクレーターの残骸の丘の上を拡大してみると、かすかに白く道路が確認 出来ます。これが1月、ココヘツド山頂から見た、人が歩いていた道路でしょう。 ココヘッド登山記事


ハナウマベイ・ネーチャートレイルの入口は、22番・23番バスのハナウマベイ入口バス停脇です。
英語の看板が2つ立っており、ゲート入口には鍵がかかっています。

左の看板は「NO TRESPASSING VIOLATORS ARE SUBJECT TO 500$ FINE」(侵入禁止、違反者は500ドルの罰金) と書かれています。
右の看板は「KEEP OUT Authorized Personnel Only」(立ち入り禁止、許可された人のみ)と書かれて おり、少しビビリましたが、バス停付近にいたハナウマベイの係員に訊ねたところ、OKというので、ゲート脇の藪のなかの踏み固めた 道から入りました。

前方には、子供連れの親子が下って来ており、どうやら問題はなさそうです。トレイルは緩やかな舗装道路が続いており、ココヘッド と違って歩き易いのですが、海からの風が強く、木々は全て陸側に大きく曲がっています。

頂上には2か所、鉄柵で囲まれた観測所らしき建物があり、google地図に表示されている「Hanauma Bay Nature Preserve Park」らしき 姿はありませんが、ここからは眼下に、ハナウマベイの美しき全景が見渡せました。


高級住宅街 ハワイカイ 
ここから、眼下に太平洋からの入り江が入り組んだハワイカイの街並みが見渡せます。 ハワイカイは、カハラに次ぐ高級住宅街としてカイルアとともに知られています。近年、離婚 した芸能人がやたらと、ハワイに住んでいますが、「松原千秋」も「花田美恵子」もここ、ハワイカイに 住んでいるとのことです。
離婚後の慰謝料と養育費で生活出来る程度の高級住宅街だと云うことです。

それにしても、どんなビザを持って暮らしているのでしょうか?聞いてみたいものです。


妻が「主人在宅ストレス症候群」にならないようにする為に


昨夜のTV番組のなかで、家庭の主婦が、夫との生活から受けるストレスについてやっていました。
夫の両親との同居する妻の平均寿命は、別居して生活している人と比べると、短いとの統計もあるようです。

最近、主人在宅ストレス症候群と云う言葉を多く耳にするようになました。
これは、夫が一日中在宅するようになることで、妻が病気に掛かってしまう病気の一種だそうです。
 因子
仕事一筋・無趣味だった夫が定年退職するなどして仕事がなくなり、その結果一日中在宅するようになって、 妻を束縛すると、大変なストレスを感じるようになることが多くなるといわれています。
特に団塊の世代が定年退職した2007年以降に、増えています。
長年、平日日中は主婦一人あるいは気心の知れた近所の来客との雑談といった生活が普通であったのですが、 夫の定年退職後は昼夜を分かたず束縛されて多くの中高年以降に増える病気の原因の誘因にもなるようです。
 症状
胃潰瘍、高血圧などの身体症状のみならず、過敏性腸症候群や過換気症候群などの心身症、 うつ状態やパニック障害など心理的色彩の濃いものまで様々な症状を示すようです。
主人在宅ストレス症候群の解説はwikipediaを参照しています

さて、我が家はどうか?
私たちは元から子供のいない共働き夫婦であった事、そして二人とも専門職で日勤・夜勤・休日出勤などが 当たり前で何時もすれ違い生活をしていたので、二人で過ごす時間を元々大切にすることとか、二人共通の思い出・記憶 を造ることに努力してきました。
退職後は、ゆっくりと二人で過ごす時間も増えたのですが、時間が経つに従い、二人とも一日在宅する事が増え、 時には煩わしく感じる事があります。
幾ら、長年連れ添って来た、お互いの長所・短所を知っている夫婦であっても、自分の時間・空間が必要な時はあます。 少し広めの3LDKの共同住宅ですから、各々の個室はあるものの、やはり一日中閉じこもってばかりはいられません。

そこで、退職後二人の間である一定のルールを決めました。

一週間のうち六日は二人とも一日中在宅する日は無くす。
 二人の予定はカレンダーに明記しする
 二人の予定は、午前・午後・曜日をずらす
お昼は出来るだけ、外で食べる、
 自宅で食べる時は、自分で造ることにしています。
自分で出来る事は自分でする。(炊事・洗濯はカミサンの分野)
お互いの友人関係に踏み込まない
使いみちを問わないお互いの小遣い口座を設ける
お互いの部屋のドアーは開けておくが、入る時はノックして入る
こんなことでしょうか
今の所、問題なく行ってます。カミサンが主人在宅ストレス症候群で、病気に なる事は100%ないでしょう。しかし・・・私がなる確率はかなり高いのでは?


7/10 定年後に始めるボランティア活動、そしてその狭間のなかで


定年後の有り余る自由な時間のなかで、自分の持っている経験・スキル・時間を幾らかでも、地元社会に 役立てるようなボランティアをしたい、と考えるのは極く当たり前の考えで、実際に何をやったら良いのか、 自分のやりたいようなボランティアを探せるのか、と考えるのは危惧に終わります。
今や、行政を問わず、色々な市民活動団体・福祉団体が多くのメディアを使って参加を呼び掛けています。

ボランティアとは
古典的な定義では自発(自主)性、無償(無給)性、利他(社会、公共、公益)性に基づく活動とされています。
平たく言えば、ボランティア活動とは、自ら進んで願い出て、自分の持っている才能・技術・時間・体力を 無償で、社会の公益に役立つ仕事をする事となります。

英語のボランティアと云う言葉に相当する スペイン語は善意と訳されます。私はこの善意と云う訳が一番、この仕事を端的に 表していると考えてきました。

退職後移り住んだ土地で、私が現業時代に培ったコンピュータープログラム、グラフィック系の能力、趣味で 極めた動画系の経験を、無償の善意で 地元の必要とされる組織に提供して、今日に至っています。
こうする事で、その組織にも、私自身の定年後の長い時間にも、お互いに役立つと思っていました。
しかし、最近色々な事を考えさせられています。
あまりにも、その組織に自分のスキル・能力が当て嵌まり過ぎて、必要不可欠な役割な存在になり過ぎてしまった ことです。平たく言えば、当てにされ過ぎてしまっていることです。
私のこころの片隅ではこれは、無償の善意 であるのだから、過度な要求をしないで欲しい、そこまでやるのなら、正式な責任のある有償の人を雇用して欲しい、 少なくとも、かかった材料費は請求しなくても、先に申し出て欲しい、 と考える事が度々発生してきているのです。

しかし、私は間違っていたのかもしれません。
これは、仕事ではないのだから嫌になったら「ヤーメタ」と放り出し、ちゃぶ台をひっくり 返せば良いと思っていたのでが、現実問題、私がひっくり返した翌日から、支障を来すのは、解り切っています。

定年後にボランティアを志す皆さんへ
無償の善意によるボランティアと云えども、一度参加し、その組織に一定の役割を担うようになると、簡単に辞められなく なる事を心して下さい。
社会性のあるボランティアは、”遊びの延長”でもなく、”暇つぶし”でもないのです。


7/20 僕の英語が上達しない理由は?


英語学習・英会話スクールにお金を払って通うようになってから、何年になるでしょう。
現役時代、退職後の海外ロングステイの準備の一環として、駅前留学に通うようこと 3年。退職後、神奈川県国際交流協会の英語教室に通うこと7年、通算10年も、週に一度は 英語に触れ、話す環境に身を置いてきたのに。

毎週水曜日午前は、英語教室です。
本郷台アースプラザで行われていた教室が指定管理を外れて、廃講になったのを受けて、その時の受講生 仲間で、自主講座を運営・継続してきました。
先生はネイティブの40代男性アメリカ人、彼とはもう7年の付き合いです。彼の夢はアジアの何処かの国で ゲストハウスのオーナーになると云う事で、私と馬が合い、彼の英語教室の進め方に共感しています。

・声をださず、口にしない英単語は、絶対に自分のものとならない。
・英語はコミュニケーションの道具、文法の誤りを恐れるな。
・継続は力なり
・ともかく、週に一度、この教室にきてみんなの前で5分間、自由に喋れ。

解っています。週に一度は英語辞書を開き、英語で考え、新しい単語・表現を覚える努力をしています。しかし、悲しいかな 直ぐに忘れてしまうのです。
私の英語が上達しない、大きな理由は・・・・

英語を必要としていないから?
シニア女性の英会話教室に通う理由の大半は「海外旅行で地元の人と話したい・友達になりたい」ですが、短期の団体パック 旅行で英語を話すの機会は先ずありませんし、お友達になりたいは、妄想です。
シニア女性が高い月謝を払って教室に通うのは、「中高年になっても、英語を学ぶ自分の姿が好き」 と云う自己満足だけです。

私の場合、ハワイは別として(ホノルルでの滞在に英語力はいりません)、アジアでは現地発のインターナショナル・エクスカーション に入る機会が多いです。
これらツァーに参加してくる国籍は種々あり、圧倒的に英語を母国語としない人が多いのですが、やはり 共通言語は、英語となります。
車内・観光・昼食・ホテルとづっと一緒なので、コミュニケーションツールとしての英語能力は必須です。
ここで必要な英語は、ポライトな 文法に則った・正式な英語ではなく、確実に相手に意味が伝わる、シンプル・イージーなGlobishなのです。

Globishは最近の日本企業の社内公用英語として注目を集めていますが、私たち旅行者の間では「バックパッカー・イングリッシュ」 として、昔から使われてきました。 Globishとは

「バックパッカー・イングリッシュ」は単数・複数の違い、時制(現在・過去・未来)、人称の多少の間違いがあっても(極端に云えば、heでもhisでもhimでも良いではないか?) 正確にこちらの意思を伝える、手段・道具としての英語です。
この下地がある為、今でも、一生懸命に新しい言い回しや、単語を覚えても、実際に口にだして喋る時は、ついつい、伝わる・伝える英単語・表現になってしまうのです。

私の英語の先生は、「それで良いのだ、7年前よりづっと上手になっている」と云ってくれます。
確かに、海外旅行においてのトラブル処理とか、短い間の付き合い英会話は何とかなりますが、これらはどちらかと云うと、私側からの、要求・説明が 多く、聞き手としては、シンプル・イージイ英単語だけでは、いつまでたっても英語力は向上しないのです。

アメリカ本土で、旅行とは関係ない一般の人との会話が成立するようになりたい、と願っていますが・・・・・そんな機会はほとんどないので、 これで良いのかな。
取り敢えず、暫くは週一回の英語環境は維持する予定です。


7/30 定年・退職後の国内旅プラン プチ夏休み 妙高高原赤倉温泉郷



55才で退職して9年目、元同僚らかの時々のメールにはよく、「今、日本にいますか?」と書かれています。
退職直後の1年目は、確かにその通り殆んど日本にいる時間と、海外にいる時間が同じくらいでしたが、流石に退職 9年目ともなると、そんなに出かけなくなります。
ここ数年、海外のミドルステイ・ロングステイもどきは年に4~5回になり、その分国内旅行が増えてきました。
海外のプランの計画・実行は私の役割ですが、国内旅行の決定・手配は我が家のカミサンの仕事です。日帰りは旅行 のうちに入れず、二泊以上の国内旅行を年に3~4回、一回の予算は全て込みで二人で10万円と決めています。
小金持ちの退職・中高年者をターゲットとした旅行会社の戦略で、デフレ傾向にある旅の値段ですが、しかし、これは 全て、団体観光パックの値段です。私たち夫婦は、旅は多少の時間的なムダや、割高になったとしても、あくまでも、自分たち のペースで動く個人旅行に固執してきています。
そこで、限られた予算内に収める為に、旅行会社の「足+宿」セットを利用しています。毎年恒例となっている秋の京都とか、 その他、宿のランクさえ気にしなければ2泊3日二人で10万の予算で日本全国行けるのが、退職後の環境です。

2泊3日 新幹線+温泉旅館(朝夕食付)一人二万円!の理由
国内旅行担当のカミサンはある日、夕刊の広告記事を指さして、「これ行かない」と云うので 見ると、あの「安かろう・悪かろう」のH旅行社の激安PACです。数年前から、冬場のスキーリゾートの宿を夏場の閑散期に、激安で 退職・中高年者に売って、ある程度社会に受け入られている、セット商品です。
今までは、信州の白馬が中心でした。
これに参加した、写真クラブのメンバーが云うには、写真をじっくりと撮ると云う目的があるから、このセットで良いけれども、 ただ、たんに安いだけで参加しても、夏場の白馬は何処も行く所、見るものがない、と聞いていました。
しかし、今回の場所は同じスキーリゾートでも、正真正銘の温泉地「赤倉温泉郷」です。

白馬と違って、JR線も通っていますので、上手く使えば直江津・柏崎などの日本海側とか、 一駅隣の奥信濃の一茶の故郷柏原・野尻湖も行けます。
そして、何よりも温泉旅館二泊・食事・新幹線指定で二万円は、魅力です。

 個人で普通に、買った場合の交通費
新幹線 東京・長野 間 指定 8,170
JR信越線 長野・妙高高原 間 普通 650
バス 妙高高原・赤倉温泉 間  370
片道 一人合計 9,190
往復 一人合計 18,380


交通費だけで、これだけ掛かるのは、このところの葬式で頻繁に長野に通っていたで解っていました。温泉旅館・2泊の食事がついて、この価格は、 幾らか旅行業界のソロバン勘定の実情を知る身であっても、弾け出せない数字なのは解ります。 H旅行社のワッペンを貼って、添乗員の旗の後を付いていく姿を想像すると、悪寒がする思いですが、もしかするとこれは、何時もの 「足+宿」セットと同じではないかと、信じ参加する事にしました。
しかし、見事に期待は裏切られました。
宿のバウチャーはおろか、JR新幹線の切符も送って来ず、当日東京駅八重洲口集合と云う、あの中高年旅行集団の典型的な姿です。 総勢100名くらいの団体、宿泊先は当初新聞広告に掲載されていた、政府認定国際旅館の他に3カ所に別れ、新幹線の団体改札を旗を先頭に 通って乗車するので、手元には切符はありません。
長野駅に到着すると、各旅館・ホテルの送迎マイクロバスが10数台並んで、この団体客を待ち迎えていました。 長野と妙高高原の間には上信越高速道路と国道18号線がありますが、マイクロバスは、昔ながらの旧北国街道をひたすら北上します。旅館側は 高速道路の乗り口が長野駅と離れており、却って時間がかかると云っていますが、一番大きな理由は、ガソリン代と高速代の節約であろうと、推測 しています、つまり、そこまでやらないと、旅行会社の要求する料金設定をクリア出来ないのでしょう。

宿のレベルと食事は、まあまあ及第点ですが、夏場のスキーゾートは!
赤倉温泉街に到着して、中心街の佇まいにびっくりしました。ほとんどの店はシャッターが閉まっており、昼食を食べる所さえない有様、 唯一のコンビニも閉鎖されていました。ホテル・旅館の外観はペンキが剥げ、鉄部分の錆が目立ち、近年のスキー客の減少を物語って います。
温泉組合や観光協会が、大手旅行会社の指定する厳しい価格設定を受け入れ、赤倉温泉の夏場の活性化を目指しているのは、良く理解できます。 町の道路には紫陽花を植えて、今が見頃、妙高高原循環バスを走らせるなどの努力をしているのですが、如何せん、夏の妙高高原じたいに、都会の客を 引き寄せる、大きな観光目玉がないのです。

私たちの計画では
最初から何もない所、唯一温泉と考えていたのですが、車を運転しない私たちでも、JR信越線の妙高高原駅まで出れば、何とか隣の黒姫周辺や、 到着日に柏崎で開催される有名な花火大会に行けるのでは、と考えたのですが、甘かったです。
確かに、赤倉温泉郷からJR妙高高原駅までバスがあります。しかし、午前の早い時間に3本と夕方5本程度、(学生の通学用の時間帯の設定)、そして 信越線は1時間に一本のみ、折角のバスもこのJR列車とはリンクされておらず、駅に着いても、70分も何もない駅前で待たされることになるのです。
野尻湖観光の最寄駅、黒姫に辿り着いても、黒姫から野尻湖行のバスは、この時期運行されていません。つまり、この周辺の観光は、車がないと 身動きが取れない場所なのです。
参加者は99%中高年の夫婦で、誰も現地でレンタカーを利用する人は見かけませんでした。この2日間、赤倉温泉周辺を動いているのは、H旅行社が 集客した客だけでした。

定年後の田舎暮らしと重なり合うものが見えた
首都圏の駅から徒歩圏の交通の便の良い所に住み、時刻表を見なくても駅に行けば、10分以内に列車が来て目的地まで運んでくれ、帰りも タクシーが何時も待っているような生活が当たり前であり、自分と廻りへの安全配慮の為に、早々と60歳で運転免許証を手放した私たちには、 とても、自然環境と安全な野菜作りの為に、田舎暮らしは出来ないと、改めて認識した、プチバカンスでした。

暑い、暑いと云ってますが、鎌倉は海に近いせいもあり、今日も結構涼しい風が吹いています。


8/7 サッカーは人生を変える! ある元サッカーファン青年の場合

連日、深夜の五輪サッカー(フットボールの方が世界で通用する言葉なのですが・・・・)をTV観戦しています。
深夜・明け方であろうと、翌日、朦朧とした体で熱風のなか、通勤電車に乗る必要 のない仕事から解放され、関係なく見られる自分を楽しんでいます。

サッカーは人生を変える?
その青年の場合、確かにサッカーによって大きく人生の方向が変わりました。 1974年サッカーワールドカップ西ドイツ大会を見る為に、仕事を辞めたのです。
青年は、今の日本の若者のような、サッカーに人生を捧げるような熱狂的なファンではありませんでした。ただ 当時、南米におり週末は地元クラブチームの試合をに行き、勝手も負けても意気投合して一緒に盛り上がるのが、 外国人特に新米のアジア人にとっては、地元白人社会と、しがらみのない友人関係を築く、有効な手段でもあったのです。

1974年のアルゼンチン代表のほとんどは、青年たちが応援していた地元チームのメンバーでした。 ですから、クラブが格安の応援ツァーを仕立てて、西ドイツへ行くことになった時、当時26才の青年は、仕事を辞めてでも 行くことにしたのです。ちようどその頃、ブエノスアイレスの生活は六年になり、 これからの仕事、人生の方向を模索していた頃でした。
次回、1978年サッカーワールドカップは、地元アルゼンチン開催です。
1974年当時、アルゼンチンのTVは白黒放送でした。政府はこれを機会に、カラー化を目指しており、青年はこのカラー化が かつての日本ではどんなビジネスチャンスとしてきたのかを調べ、これからの仕事の活かせないかと、日本に一度、戻るタイミングを計っていた時でも あったのです。

1974年サッカーワールドカップ西ドイツ大会と云えば、世界のサッカー史に残る節目の年でした。今では常識の全員攻撃・全員守備 のオランダのトータルフットボールが衝撃を与えた大会であったのです。
アルゼンチンチームは、一次予選を一勝一負一分の不甲斐ない有様でしたが、二次リーグに進み、クライフ率いる オランダトータルサッカーの前に4対0の惨敗でした。決勝戦は、ベッケンバウアーの西ドイツがオランダを破り 優勝しました。

青年は、大会終了後、仲間と1978年アルゼンチン大会での再会を誓い合って別れ、陸路6年振りの日本を目指して 旅を続けたのです。

半年かけて日本に辿り着いた青年は、技術専門学校に再入学しました。外国では言葉が出来るのは当たり前、 何か手に職・技・知識を身に着け、証明しないと何時まで経っても、ただの外国人であるのを身に染みて理解 したからです。
彼は、1978年のワールドカップアルゼンチン大会に戻れませんでした。

結婚したのです。
アルゼンチンタンゴが街角から聞こえ、ジャカランダーの紫の花が雨上りの石畳に散り、 気だるい、何処か倦怠感のある南米のパリと称される、ブエノスアイレスで、エトランゼとして暮らす男のロマンよりも、現実的な目の前のロマンス を選択したのです。

新婚旅行先のホテルのTV画面では、この大会で得点王になったケンペスがゴールを決めていました。
あれから34年、サッカーを見る度にあの夜の試合の場面を思い出します。
古い記憶が鮮明に蘇るのは、きっと、もと青年も歳をとってきたのでしょう。

今晩(8月7日)は男子準決勝メキシコ戦、8月10日深夜、女子決勝アメリカ戦
70年代から世界のサツカーを見続けている元青年にとって、もうここ迄やってくれれば十分です。きっと 良い思い出になる事でしよう。



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