湘南・鎌倉から リタイヤ15年目 BLOG17

団塊世代の残された人生の、日々感じる事・出来事、想いを書き述べています



6/30 シルバー、シニア世代の30年、生き方・考え方の変化変遷

四十代から定年後の資金計画を考え始め、五十代・六十代では、その時々の自分の年齢・ 生活・社会環境に応じ考え方は変わってくるものです。
しかし、それを客観的に自分が気が付くのは、「その年齢になってみないと解らない」 と高齢者と呼ばれる年齢になって初めて理解するのです。
退職前に考えていた気力・体力・好奇心は、年齢とともに変化、減少します。
実際に自分が六十代半ばで、パスポートなしの生活になることは想像出来ませんでした。

博報堂生活総合研究所では、実際にその年齢にならないと解らないことを、1986年から30年間 にわたり60歳~74歳、つまり団塊世代を中心にほぼ同じ質問内容の調査を続けています。
(1986年、1996年、2006年、2016年の4時点で実査)。
この30年間で日本は急速に高齢化が進み、特にこの10年では、団塊世代が高齢期を迎え、 取り巻く環境は激変。
こうした中で、高齢者自身はどう変わったのか? その30年の変化 をネット上で公開していのをご紹介します。

人生の円熟期において実践・実現したい夢は

60歳を超えても、まだまだ長く生きる自覚がある 設問 「何歳まで生きたいか」
回答 1986年 80歳 → 2016年 84歳(プラス4歳)
設問 「あなたの気持ちは何歳くらいだと思いますか」
回答 2016年は平均53歳で、実年齢マイナス14歳
   ※この質問は2016年のみ調査
設問 「自分は、体力もあるし気持ちも若い」
回答 60歳-64歳 23% / 65歳-69歳(団塊世代含む) 30% / 70歳-74歳 19%
   ※2016年の結果で比較
設問 60代の位置付けは 「再出発の時」
回答 1986年 39% → 2016年 53% (+14pt)

一方、生活の見通しは暗い。欲しいものは 「幸せ」 より 「お金」 に 設問 「先の見通しは暗いと思う」
回答 1986年 32% → 2016年 47% (+15pt)
設問 1カ月のお小遣い(平均)の推移
回答 1986年 28,830円 → 1996年 33,450円 → 2006年 31,620円→ 2016年 26,820円
設問 現在欲しいもの「お金」
回答 1986年 28% → 2016年 41% (+13pt)
設問 現在欲しいもの「幸せ」
回答 1986年 31% → 2016年 16% (-15pt)

長い老後を見据えた 3つのシフト ~気負わない、頼らない、退かない~ 設問 「なんでもほどほどにやる方だ」
回答 1986年 57% → 2016年 72% (+15pt)
設問 「気楽な仕事、地位でいたい」
回答  1986年 71% → 2016年 79% (+8pt)
設問 「夫婦で共通の趣味を持ちたい」
回答 1996年 69% → 2016年 50% (-19pt)
   ※この質問は1996年から調査
設問 「子どもといつまでも一緒に暮らしていたい」
回答 1996年 51% → 2016年 28% (-23pt)
   ※この質問は1996年から調査
設問 「一人暮らしをしてみたい」
回答 1986年 18% → 2016年 31% (+13pt)
設問 「外国語を勉強したい」
回答 1986年 26% → 2016年 43% (+17pt)
設問 「スポーツクラブの会員になりたい」
回答 1986年 23% → 2016年 49% (+26pt)

団塊世代は今年「古稀」と云う大きな節目の年を迎えています。
ネット社会になり、色々な情報が出回るようになりましたが、本格的にシルバー・シニアの生の 情報、考え方、生き方、そして死に方を発信するのは、それを展開する技術を持っている私たち のような、web技術者世代だと思い、これからも発信していきます。


6/22 ボランティアは無償であるべきか?
リタイヤシニアの生き甲斐を食いものにする、地域ボランティア制度の実態


朝日新聞の土曜版特集にボランティアに関する読者アンケートが掲載されていました。
「ボランティア元年」と呼ばれた阪神大震災から23年余り。
東京オリンピックとラクビー―ワールドカップ では、延べ12万人のボランティア募集が打ち出され、関心が高まっています。
一方、交通費などが出ないことから「ブラック」との批判もあります。
どこまで「無償」であるべきでしょうか?



「イイエ」と答えた人のほうが若干多いと云う結果が看取れます。
私の場合、勝手に定年リタイヤに入った15年前55才の時に、地元の市民活動をサポートするNPOの会員になり 自分のスキル・経験をいかして、市内で活動する市民団体のwebプログラム支援を行う部署で、無償のボランティア をしてきました。
私のなかではボランティアとは、「自ら申し出た・無償の善意、但し自分の時間を縛られない範囲」 と定義していました。
経済的には働かずに済む環境であり、退職後の生き甲斐の一部と位置づけてやって参りました。

しかし、ある時期を境にこの気持ちが揺らいできました。
それは、官設・民営の先駆けであった鎌倉NPOセンターが、指定管理制度をとりいれて、これまで基本、市の予算のなかで 行き届かない所を私たちの中間支援NPO団体がボランティアとして賄ってきたものを、指定管理と云う名の元、決められた 市の予算で、法人としてのNPO団体が、本来、行政が担うべきものを制度を請負いと云う形になったのです。

このように指定管理制度は図書館・公民館・体育館・公園など次々ととりいれられていきました。 行政の考え方は、民間の経験・人材でより良い市民サービスを、効率よく、安価で行える、と云うものですが、年間300日 市内2か所の市民活動センターを開館し、500を超える市民活動団体の支援をする費用(指定管理を受けるNPO団体に支払われる予算)は、 市の職員一人の年収分にも及ばない金額です。
ボランティアと云う美辞麗句に名を借りた、経費節減です。

この指定管理制度の元では、受付や団体の支援・相談の部署スタッフは、契約労働者と見なされ、社会保険・雇用保険・交通費そして 神奈川県の最低賃金を支払わないと労働基準法に抵触します。 しかし、市から指定管理料では、2か所の市民活動センターの受付業務スタッフの最低賃金を払うのが精いっぱいで、これまで やって来ていた、市民活動団体へ支援する人材は交通費も払えない、完全無償ボランティアとならざるを得なくなりました。

同じ市民活動センターの業務に従事する仲間のなかで、指定管理の「市民活動センター」の業務をする人間は有償、この指定管理制度 を受注している「中間支援NPO」のスタツフは無償という現象が現在発生しています。 特に、専門知識・資格が必要な「相談」・「会計」・「IT・web」の部署で混乱が続いています。

私の所属しています「広報」部門では、指定管理制度前は、市民活動センターの広報紙とホームページは一つでしたが、指定管理以後は これを、「市民活動センター」「中間支援NPO」の2つに分けるように市から求められ、2つにしました。
しかし、指定管理予算ではこのような専門知識を持つスタッフは雇えず、せいぜいワード・エクセルレベルの一般有償専従スタッフが やらなくてはならず、最終的には指定管理業務を請け負う「中間支援NPO」の私のような専門知識を持つものが、無償ボランティアとしてやらざるを得ない 状況です。
余談ですが、「請負」と云う言葉・漢字は「言われて・青くなり・負ける」 というジョークが現役時代の建設業界でよく言われていました。
民間の建設業界でしたら、手抜き・品質低下・下請け丸投げなどが出来ますが、行政発注の仕事はそうもいかず、 人件費を最低限、生活保護レベル以下に抑え、後はボランティア頼りのブラック企業よりも酷い状態・ 暇を持て余し、生き甲斐を求めるリタイヤシニアの善意を食い物している・・・・と云うのが 本当のところです。

少なくとも、自宅と作業する場所指定管理の「市民活動センター」までの交通費はいただきと最近は 思うようになって来ています。
必要に迫られて、鎌倉のセンターに行くのに、自宅から電車に乗ります。
その時たったの165円ですが、その都度自分の財布の中から の出金が発生します。
私は、比較的経済的に恵まれているほうですが、これでは、新しくボランティアに参加する、まだ年金を満額もらえない60代前半の 世代では長続きしません。

東京オリンピックでは、どのようなボランティア規約を造つているのか知りませんが、短期やその場限りのボランティアなら 成立しますが、本来行政の費用で賄うべき市民サービスを、市民の善意を当てにしたボランティア制度は、この朝日新聞の アンケートの結果で解るように、今後成り立って行かないのは明白でしょう。


6/15 サッカーワールドカップと人生の思い出・ターニングポイント


遂に、ワールドカップロシア大会が始まりました。
ロシアとの時差(モスクワ時間)は6時間 試合開始が夕方17:00の時日本は23時です。
今回の3試合の場合
第一戦6月19日コロンビアは現地時間、昼の15時、日本時間21時
第二戦6月24日セネガルは現地時間、夕方の18時、日本時間24時
第三戦6月28日ポーランドは現地時間、夕方の17時、日本時間23時

毎日が日曜日の身ですので、仕事のことを気にせずに全て観戦できるのですが、 今回の場合、辛うじて起きていられる時間帯なのが、ラッキーです。
これが深夜の2時3時だと目覚ましをかけて一旦寝てなくてはならず、翌日は中途半端な 時間になってしまいますし、明け方4時5時の試合中継よりは、だいぶ体は楽なので楽しみにしています。
何時からサッカーワールドカップを見るようになったのか 思い起こすと、自分の人生とワールドカップはシンクロしており、振り返るとあの時は、 どこの開催国だったのかと常に一緒に思い出しています。

以下がサッカーワールドカップ これまでの歴史と開催国・優勝チーム・出場国数と日本です。
   開催国    出場国 優勝国・回数
1930 ウルグアイ  13ケ国 ウルグアイ
1934 イタリア   16ケ国 イタリア
1938 フランス   15ケ国 イタリア2
世界大戦で二大会中止
1950 ブラジル   12ケ国 ウルグアイ2
1954 スイス    16ケ国 西ドイツ
1958 スェーデン  16ケ国 ブラジル
1962 チリ     16ケ国 ブラジル2
1966 イングランド 16ケ国 イングランド
1970 メキシコ   16ケ国 ブラジル3
1974 西ドイツ   16ケ国 西ドイツ2
1978 アルゼンチン 16ケ国 アルゼンチン
1982 スペイン   24ケ国 イタリア3
1986 メキシコ   24ケ国 アルゼンチン2
1990 イタリア   24ケ国 西ドイツ3
1994 アメリカ   24ケ国 ブラジル4
1998 フランス   32ケ国 フランス 日本初参加
2002 日・韓    32ケ国 ブラジル5
2006 ドイツ    32ケ国 イタリア4
2010 南アフリカ  32ケ国 スペイン
2014 ブラジル   32ケ国 ドイツ4
2018 ロシア    32ケ国  ?
2022 カタール   32ケ国  ?
2026 北米三国共催 48ケ国  ?

私の人生に大きな影響を与え、人生のターニングポイントとなったのは 1974 西ドイツ大会でした。
当時の日本ではサッカーワールドカップはほんの一部マニアだけが盛り上がっていたのですが、当時住んでいたのは サッカーが国技の南米、その中でも強豪のアルゼンチンでした。
ブエノスアイレスで働いていた当時、フットボールにはさほど興味はありませんでしたが、仕事が終わった後や 土日にスポーツを楽しむ為に、市内各地区にあるスポーツクラブに行くようになりました。
日本のように、スポーツが学校や企業が主体となるのではなく、南米・西欧では地元、地域がクラブ形式で 行っています。フットボールはそのクラブのスポーツの一部でプロ化し、クラブ全体の経営を支えているのです。
現在のサッカーJリーグが目標としている組織形態です。

1974年当時私が、週末通っていたプールを所有するクラブのフットボールは、全国制覇をし、西ドイツワールドカップ のアルゼンチン代表のほとんどと監督は、私のクラブチームメンバーでした。 本大会が行われるミュンヘンにみんなで応援に行こう、クラブ会員特別割引、と云う格安ツァーが組まれ、誘われ ました。
その時、既に次回1978年ワールドカップはアルゼンチン開催と決まっていました。
私がブエノスアイレスに暮らすようになって6年目です。
そろそろ、この先の生き方、仕事の方向を模索している時期、あるニュースが飛び込んできました。
4年後の1978年ワールドカップを機に、テレビのカラー放送を開始する、というのです。 当時、アルゼンチンはまだ白黒でした。

1964年の東京オリンピックを機に、日本がカラー化したのに遅れること14年。 このニュースを聞いて、日本が白黒からカラー化した時、まだ高校生だった私のしらない所で どんなビジネスチャンスがあったのだろうか?、今後アルゼンチンではどんな技術が求められるだろうか? そろそろ一度日本に帰っても良いのでは、と考え始めていました。
結局、仲間とドイツに行き、オランダのクライフ率いるトータルフットボールの前に惨敗し、私はそのまま アルゼンチンには戻らず、ユーラシア大陸を東に向かって帰国したのです。

次の1978年のアルゼンチン大会、私はブエノスアイレスにいるはずでした。
実際には、アルゼンチンの初戦は、軽井沢で行われた結婚式の当日の夜、カミサンをほっておいて、ホテルの テレビをみていました。

次の思い出、人生のターニングポイントはづっと後の1998年フランス大会です。 日本が初めての出場をかけて戦った、ジョホールバルのイラン戦は、3か月長期入院中、病院のホールで見ていました。
1997年、ウズベキスタンの旅行から帰ってきて数週間後、黄疸症状が発生し緊急入院し検査したところ、A型肝炎と判明し 3週間のベット安静、その後の検査でC型肝炎も発覚し、どうせ3週間休むも、3か月休むもリスクは同じと判断し、徹底的に C型ウィルス除去・撲滅に取りくんでいる最中でした。
現在ではC型肝炎治療は投薬でも可能になっていますが当時は「毒を持って毒を制す」と云うインターフェロン療法 抗がん剤のような副作用が2ケ月以上続く、キツイものでした。
しかし、それでもウズベキスタンの市場でのA型肝炎がなかったら、定年後までC型肝炎を知らずにきて、今頃、 肝臓がん、肝硬変になっていた可能性は大でしょう。

次の思い出はサッカーワールドカップ2002年、日韓大会です。 2002年日本と韓国でワールドカップが開催されていた頃、北朝鮮では対抗して、ピョンヤンでは、大マスゲーム 「アリラン祭」を開催していました。
旅行会社の友人と二人で、サッカーよりも北朝鮮、行ける時に行かないと何時鎖国状態になるやもしれないと 3泊4日で28万円と高額なのを承知でいきました。
帰国したのは、日韓大会の決勝戦が行われる日でした。
空港から新潟駅へ向かうタクシーのなかで、朝鮮半島黄海で南北朝の舟艇の間で銃撃戦と云うニュースが流れて いました。
振り返るとちょうど私たちが板門店にいた時間帯でした。

自分の人生の出来事と、世界的なスポーツの祭典を結び付けて思い出すと云う手法は良くある手です。 今回のロシア大会、後から振り返って何を思い出すのでしょう。
一つ、確実なのは、今回の予選突破がかかった第三戦ポーランド戦は自宅のTVではなく、稚内のホテルで見る ことになることです。計算外でした。
NHKの地上波だったら確実に見えるのでしょうが、BSだと稚内のホテルが映らないなんて事は無いことを祈ってます。


6/8  貯めて来たマイレージをそろそろ使う時が来た。一番遠い所、稚内に行こう。


現役時代、わりと自分のスケジュールを自分が決められる立場にいた時に、世界中を旅していました。
その頃、80年代の終わり頃から、各航空会社が自社のカードで顧客サービス、囲い込みをはじめました。
1981年の秋、ユナイテッド航空は、6回の旅行で1回の無料旅行をプレゼントするというサービス開始後 マイレージサービス「mileage plus」というポイント制となったのが始まりで、 1990年代に入ると、航空会社連合(アライアンス)の設立などがはじまり、それに伴いマイレージサービスの共通化の動きも 活発になってきて、日本では、アメリカにだいぶ遅れて1997年からJAL、ANAともサービスを開始しました。

この頃、私が使う格安航空券(団体パックの個別売り)は対象外。 この話は知っていましたが、 ビジネスユーズだと思っていたところ、知合いの旅行代理店の友人から、格安や団体パックでも マイルが付くケースがあるから、ダメ元でチェックインの時に申請したほうが良いよ とのアドバイスで作ることにしました。
当時、航空会社連合(スターアライアンス)的なものはまだ存在しておらず、乗る航空会社、 全てのカードを持つハメになりました。
当時2年に一度は北米経由南米路線を使っていましたので、 メインキャリアとして、UAユナイテッドをつかつていました。

まだ、そんなにパソコンが一般的でなく、マイルの管理は文書で届いていた時代です。
カードは増える一方なのに、マイルはバラバラで貯まるだけで、これは年に数度の個人旅行客としては 使えないな、と感じていた頃 世界の航空会社のグループ化が進み、ワンワールドとスターアライアンスの二つのグループが成立し、 使い易くなりました。
当時、アメリカ方面や東南アジアに行く時に使っていたNW(ノースウェスト)はワンワールドグループで、 しかも、マイレージポイントは 永久不滅と謳っていましたので、ここに統合し、スターアライアンスで南米路線に強く、 ポイントが貯まっていたUAに統合することにしました。

しかし、想定外のことはおきるものです。
この頃、自分たちはリタイヤ後、一年の半分以上は海外で暮らすことを考えており、まさか、パスポートを 更新しない、海外卒業、日本国内の温泉でのんびり・・・なんて生活は考えもしませんでした。
そしてUAには落とし穴がありました。
ポイントは二年しか継続せず、その間に乗らないと消滅していまうのです。
それまでの経験から、二年間一度もUAに乗らない生活は考えられなかったので、 特段気にしていなかったのですが、退職後の旅先は、アジア・ ハワイが中心になり、チケットはエァー&ホテルパックが断然安いので、個人手配航空券に拘らなくなり、 いつの間にかUAにご無沙汰しているうちに、UAのマイレージ10万マイルが消滅してしまいました。

そこで、UAに相談したところ、別に飛行機に乗らなくとも提携クレジットカードの利用でマイルは貯まるし、月々の公共料金を そのクレジットカードで引き落とせば、永久不滅になりますよ。
とアドバイスされ、NHK受信料の支払いをカード決済にしました。
もう一方のNWは
4万マイルほど残っており永久不滅とのことで、安心していたのに、デルタと合併して3年間と云う枠が出来てしまいました。
この間、登録メールアドレスの変更やパスワード忘れなどがあり、デルタとは疎遠になり4万マイルは消滅しました。

海外旅行は卒業、マイルは国内で使い切ろう 70才になり、パスポートは失効し、成田までが遠く、不便に感じるようになって66で才海外旅行を卒業して、国内一本です。
そろそろ、全く動けなくなった頃を考え出し、UAのマイル私の65,000マイル、カミサンの23,000マイルを使ってしまおうと考えるようになり 今年から使うことにしました。
日本国内ですと、ANAを使うことになります。
日本国内沖縄を除くと何処でも往復10,000マイルで飛べます。
二人で20,000マイル。
現在のマイル残でしたら最低夫婦二人で4回の航空券は無料です。
そこで、先ず最初は手続きのプラクティスを兼ねて、一番遠い北海道・稚内を目的地としました。
ネットで国内航空券格安サイトで調べると、全日空便の羽田・稚内往復は56,360円です。※ 但しこの値段で本当に購入する人がいるかは疑問ですが・・
二人で112,720円がUAのマイル20,000マイルで購入した計算になります。
後は、稚内の観光とホテルを自分で手配すれば良い訳です。
しかし、何時も本州の大都市のホテルを自分で手配・予約してきた私たちですが、稚内の六月から九月のホテル料金の高さに びっくりしました。
一番大きなホテル「全日空稚内」のツイン23平米のシティービューが一泊一部屋28,000円(勿論食事なし)です。
先月泊まった仙台の三井ガーデンは同じカテゴリーで10,000円を割っていました。
本州の大都会のレベルの高いビジネスユーズの ホテルはこのくらい値段が普通なんです。
結局、稚内の二泊で40,000円を切るホテルを予約し、利尻島・礼文の島内定期観光バスを予約し、自宅からの交通費その他 食事代諸々を合計すると、私たちの国内旅行予算の2泊3日で10万になりました。
という事は、稚内・利尻・礼文を個人旅行レベルで行くと、ここに二人分の航空券代金プラスで225,000円となる訳なんですね。
貯めてきた、使わないかと思っていたUAのマイレージが役に立つことが解りました。
今回は日本の最北端なので、次は最南端「波照間空港」に行ってみようかな。
UAのマイレージが波照間まで通用するか?調べてみよう。 。


6/1 「妻よ薔薇のように 家族はつらいよ3」を見てきました。


山田洋二組の同じ内容、キャストと解っていてるのですが

山田洋二監督の小津安二郎の名作「東京物語」のリメイク版「東京家族」の三番煎じ作品です。
キャストは「東京家族」の続編的な「家族はつらいよ」と全く同じ、東京郊外田園都市線に住む、比較的裕福な 三世代同居家族の日常的な風景を描いています。
朝9:40分開演の「109シネマ湘南」の客の入りは70%程度、ほぼ95%はシニア層と女性です。
水曜日のレディースデーでありますが、9時台に来るのは、暇なシニア層に決まっています。
なのに、この日は入口の「もぎり」・・・今の世代の方には解らない言葉かもしれませんが・・・の女性に 年齢証明を要求されました。
この頭の禿げ具合で解るだろよ・・と思いましたが、電車のなかで席を譲られるよりは マシか、とも思いカバンのなかを探りました。
年齢的に保険証は外出時に持ち歩いていますが、このオネーチャン、写真付きの証明書と云うのです。
免許証は60才の時に、パスポートは65才の時に更新しなかったので、顔写真付きの証明書と云えばマイナンバーカード だけです。
こんな映画館のモギリの場面で、なんで俺が、この大切なマイナンバーカードを、二十歳そこそこのネーチャン に見せなくてはならないのか! まあ大人ですからキレはしませんが。

この映画の家族のご主人は、「橋爪功」が演じている退職サラリーマンです。
橋爪功の実年齢は76才ですから、映画のなかの設定も同じでしょう。
映画では少し誇張していますが、山田洋二の描く76才の余裕のある退職シニア像を良く演じています。 まあ、頑固・自己主張が強く、解っていても男尊女卑的傾向が強く、 昭和の高度成長を自分たちが引っ張って来たのだ という自負、私たち団塊世代が平社員の時の係長クラスの年齢の人々です。
特に苦労しなくても、給料・ボーナスが増えていき、夜の経費が無理なく落とせた世代です。

今回の主人公はこの「橋爪功」おじいちゃんと同居している長男「西村雅彦」の嫁さん・・いわゆる長男の嫁 「夏川結衣」の反乱・家出のお話です。
家計費を夫が管理するか、妻が管理するか。
夫と同じ墓に入りたくない!
妻のへそくりの所有権は?
家事労働は無償?
嫁は他人か?

カミサンは今週末、女友達3人でこの映画を見に行く予定です。
きっと帰りの女子会はこの映画の中身で盛り上がることでしょう。

蛇足、さして為にもならないですが
映画のなかで嫁さんの「夏川結衣」は家出して、今は空き家となっている実家に身を寄せます。
映画のなかの会話に「モタイ」という地名が出てきます。
モタイ?つて何処、どう書くの?
映画の中で中山道まんじゅうの看板が登場し、同じく登場する造り酒屋の武重本家酒造をキーワードに「モタイ」 を探してみました。
長野県佐久市茂田井でした。
なるほど納得、夫婦が知り合う切っ掛けとなった中央線の電車の逸話が伏線だった。
私、映画の舞台の地を旅する趣味があるのです。
この夏、行って見ようかな。青春18きっぷ鈍行電車で。


5/26 NHKスペシャル「縮小ニッポンの衝撃 労働力激減 2050年、そのとき何が」


2050年問題より、身近な問題・話題として2025年問題がある。

約800万人と言われる私たち団塊の世代(1947~49年生まれ)が前期高齢者(65~74 歳)に到達するのが2015年、 そして、75歳(後期高齢者)を迎えるのが2025年です。
現在1,500万人程度の後期高齢者人口が、約2,200万人まで膨れ上がり、全人口の4人に1人は後期高齢者と いう超高齢化社会となります。
日本は2005年を折り返し地点として人口減少社会に転じた一方、65歳以上の高齢者数については 2040年ごろまで増え続けると推計されています。 特に後期高齢者については、2050年ごろまで増加傾向が続くと見込まれています

そして2050年代、人口1億を切る日本。
現役世代はピーク時に比べ3500万人減少、 人類史上例のない「棺桶型」の人口ピラミッドになる。
誰が社会を支えるのか?期待されるのが高齢者だ。
労働者に占める高齢者の割合は既に12.4%で世界一だが、さまざまな業務が舞い込む。
もうひとつの柱が外国人。
しかし、若い労働力を求めて世界規模の争奪戦が起きている。
この先、どんな未来が待ち受けているのか。模索する現場をルポする番組でした。
番組ではこの世界の歴史史上例をみない、頭でっかちな形をした人口比例構造を棺桶型と呼び、 将来の問題ではなく、現実に現在地方都市では働き手人口の減少で、70代の高齢者を頼らざる 得ない状況をルポし、身近な将来の働き手、消費者としての外国人の活用を他国と比べながら 問いかけていました。

現代のTVメディアは、放映中からネット上で反響があります。

2050年に棺桶型の頂点を作る私の世代は、団塊ジュニアで人口が多いのに就職氷河期で安定した 職業に就けなかった人が多い。
潜在的な労働力であり、多くの人はあと20年は働ける。
なのに今まで無視されてきた。
一日も早く救済策を作るべき。
今の高齢者の人達、それなりに裕福だからまだいいけど、人口ピラミッドが棺桶型になる2050年頃に、 人口が一番多くなる世代は、いわゆる氷河期世代で、若い頃正社員で働けなかった人が多いので、 必要になる年金や生活保護の割合跳ね上がるから、人口ピラミッドの見た目以上に状況が 詰んでるのやばい
個人的には、日本で年を取りたくない。
自分が棺桶型の頂点になったとき、日本はまともに機能しているの だろうか?今でも税金や社会保険料の負担も重いのに、 これから先、数の少ない若者が日本を支えられるはずないよね
NHKスペシャルで人口ピラミッドの説明をしていたが、NHKの解説の「棺桶型」という名称は今日初めて耳に した。
たまねぎ型」「つりがね型」の名称は知っていたけどこれはNHKが作った新造語? そうだとしたら公共放送として、あまりにもネガティブな言葉の印象操作はやめてほしい
新卒じゃなきゃ若者を雇わないだの経歴にブランクがあるヤツは雇わないだのなんて社会慣習を続けてるから、 こうやって労働力不足だ~なんて自分の首絞めるコトになってるんやで。
我が国は既に斜陽を迎えてる 明らかに政治と経営者の判断ミス グローバルに乗っかりブランドを絶滅させ、安易な規制緩和で企業が内攻的になった 要所の判断をことごとく間違ってきた 舵を切るチャンスは幾度もあったのに判断が鈍すぎた
今やってるNHKスペシャル「縮小ニッポンの衝撃 労働力激減 そのとき何が」が絶望的内容。
棺桶型人口動態に向かう日本に求められているのは高齢者の労働力。
ただ、エラーや事故も多発。
日本の未来予測(特にお役所から出てるの)は外れまくるけど、残念ながら人口予想だけは正確
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番組を見ながら即座にツイートする若者世代の投稿ばかりです。
私たちシニア世代の投稿と思われるのは皆無です。
そりゃそうですよね、夜9時「大河ドラマ・西郷どん」を見てから、この衝撃的な事実に面と向き合い スマホではなく、パソコンを立ち上げて、自分の意見を整理してツィートする団塊世代は先ずいないでしょう。

そして私たち団塊世代は2050年までは生きていない、この予測される未来現実から逃げ延びられるとでも思っているのでしょうか? 確かに、私ども夫婦のような子供のいない家庭では、この2050年は遥か先、 未来に起きうる出来事、でも日本人は賢いから きっと何とかなっているのではと、心の片隅では思っています。
1948年団塊世代のど真ん中、今年古稀70才を迎えた私は予定寿命は後8年、現実はもっと短いでしょう。
カミサンは私より3才年下、彼女の家系をみていると恐らく長生きするでしょうが、2050年といえば32年先、カミサンは99才 まず生きてはいないでしょうし、「生きていても認知症で解らないからいいわ」と云っています。

これは子供のいない、老後の年金はあまり当てにせず、自己資金を全て食いつぶし、ゼロで死んでいくのを理想として いる夫婦の妄想的な話で、これから先の将来のある子供・孫を持つ家庭内では、真面目に話ていること思います。
昔、誰かが云いました。
人類の先行きを憂う未来予測とか沢山あるけれど、だいたいは人類の叡智・努力・改善で回避される傾向にあるが、一つだけ絶対に当たる未来予測が ある、それが「人口推移予測」だと。


5/23 NHKネタドリ「70歳代を高齢者と言わない都市宣言」

神奈川県大和市は、「70歳代を高齢者と言わない都市」を宣言したそうです。何それ?
4年前に「60歳代」について同じ宣言をしたが、超高齢社会の進展と 「人生100年時代」の到来を理由に引き上げたとのこと。
目的は「高齢者」と呼ぶラインを事実上、取り払うことが目標で、人々の現役意識を高め、健康寿命を延ばそうという願いも込めた 今後、市の施策や広報誌などでなるべく「高齢者」という言葉を使わないようにする。
ただし、法律や条例などの対象者や運用は変更しない。
市によると、こうした宣言をした自治体はほかにないそうです。
宣言は「人生100年時代を迎える超高齢社会では、一般に65歳以上を高齢者とする固定観念を変えていくことが必要だ。
この世代が意欲や能力に応じて、いつまでも生き生きと活躍してもらいたい」としている。
市は2014年に「60歳代を高齢者と言わない都市」を宣言し、 日本老年学会などが昨年、高齢者の定義を75歳以上に見直すよう提案したことなどから、 今回“更新”することにした。
大和市の70代は約2万6千人。
大木哲市長は「高齢者という枠を取り払って、のびのびと生きてほしい。
年齢に関わりなく、前を向いて歩んでもらいたい」と述べている。

***************以上、NHK他の新聞メディアよりの引用******************

番組ではこれらの取り組みついて100人にアンケートを実施してました。
100人のアンケートは67対33で賛成意見が多数という結果でした。
意外に賛成者が多いのにびっくりしました。
但し回答した年齢層は公表されていませんでした。
以上を踏まえて色々な意見・考え方がネット上で交わされているようです。

■ならばそろそろ「老人」という言葉も使わないようにするとか見直した方がいいんじゃないか。
■「おいるひと」って、失礼だろ。
■死ぬまで労働者なのか
■4年前に「60歳以上をそう呼ばない」と宣言したので、4年後には「80歳代を」と宣言してほしいな。
■コレで次の市長選では、プライドの高い70代の票を現職がたくさん確保するんですかねえ?
■なんでそんなことを自治体がするのか!高齢者は高齢者である。
■そんなにも年齢が高い人たちが憎いのか?
■高齢がそんなにもうっとうしいのか?
■歳をとることがそんなにも迷惑なことなのか?
■高齢者を嫌悪する現代日本は異常である。
■働いて税を納めろ、ということなのか?
■席を譲らなくていいという意味なのか?
という批判や疑問の声が噴出しているようです。

確かに、60代を高齢者と呼ぶ、呼ばれるのは多少抵抗があり、ありました。
昔は還暦は人生の大きな峠、定年退職、子供や孫がいて当たり前の年齢、赤いチャンチャンコを着せられて「おじいさん扱い」されて 当たり前でしたが、流石に団塊世代の私たちは、体力的にも、気持ち的にも以前の還暦世代と違って「おじいさん」や「高齢者」 には、抵抗がありましたが、70才「古稀」を境に急激に体力・気力の衰えを自覚します。
大和市市長は「高齢者」という枠を取り払って、のびのびと生きてほしい。
年齢に関わりなく、前を向いて歩んでもらいたい」と 述べています。
解りますが・・・
私は、このサイトの 投稿欄 で書かれている『林住期』に共感しており、 年老いたらそれなりの生き方・健全な老化が一番大切だと考えてます。

わたしが懸念するのは、「自分は若い、高齢者ではない、若い者に負けない」と勘違いする老人の増加です。
かなり読む方の誤解を覚悟で書きますが、私が見たくない旅の風景は
・深夜バスで旅する高齢者ご夫婦
・イートインでカップヌードルをすする高齢者ご夫婦
・バックパッカー宿に泊まる高齢者ご夫婦
男の一人旅なら、許せるスタイルでもあり、私もそうすることはあり得ます。
そしてこれは15年前、リタイヤ直後、55才と52才の私たち夫婦の姿でもあったのです。
しかし、70才を過ぎた今、大切にしているカミサンを、他人の目で見て、「あの歳でちょっと可哀そう」 と思われるような環境下に置くのは忍び難いものがあります。

出来れば、多少見栄を張ってでも良いですから、ある程度の年齢になったら若い世代の人達から、 「年老いてからは、あんな旅をする老夫婦になりたいね」と思われる、ゆとりある、羨ましがれる 高齢者夫婦になりたいと思っています。

年齢だけであからさまに「高齢者」扱いは真っ平御免ですが、そう見えるのなら受け入れます。
でも、まだ電車のシルバーシートの前に立っても一度も席を譲られたことは有りません。
67才のカミサンは絶対に、車内のシルバーシート付近には寄り付かないようにしています。
席を譲られたらショックだからそうです。
何時か、私にもそんな時が来るのでしょうね。


5/18 「はじめてのスマホ・iPhone8入門」講習会に参加、久しぶりに東京・新橋へ

月曜日の朝、9時台の電車で新橋に向かいました。
新橋駅は退職直前の7年間、会社の虎ノ門・内幸町・日比谷地域現場作業所があり、本社に出勤せずに この作業事務所の机で仕事し、ここで退職を迎えました。
毎日、職人さんと一緒に朝礼・ラジオ体操・安全指示をしなくてはならないので、毎朝自宅を出るのは 6時半頃という生活をづっと最後の7年間していました。
そんな一般ホワイトカラー事務職の方と違う時間帯でも、通勤の横須賀線・東海道線で座れたことは一度もなく、 座りたいと云う気持ちもありませんでした。
この日も自宅最寄駅からの平日9時台で座れるハズもありません。
昔に比べて筋肉が落ちてきているとは云え、大船から新橋まで40分ですからあっと云う間に到着しました。

久しぶりの新橋駅構内は現在改修工事中です。私の最後の仕事は地下5階にある、横須賀線品川駅から馬喰町駅までの地下路線空間の空調・電気・水の 中央監視・制御設備のリニュウアルでしたから、新橋駅構内は目をつぶって歩けていたのですが、昔と全く違って おり、初めて東京に出て来た地方の人の気持ちは良く解ります。
アルゼンチンから戻って来てからの東京の暮らしは、新橋駅から始まったのです。
バイト先の築地の最寄JR駅は、新橋か有楽町で新橋にはよく来ていました。
SL広場にはその当時牛丼の吉野家の本店があったのを覚えている人はいるでしょうか? そして、パチンコ屋、飲み屋、ニュー新橋ビルの定食屋、良く言われるサラリーマンのオアシス的町なのは 今も変わっていません。

この日来たのは、新橋にあるHQ旅行社主催の「たびコト塾」講座を受講する為です。
最近あまり使っていないHQ旅行社からは毎日メルマガが届きます。普段は タイトルだけを見て削除してしまうのですが、ある日「初めてのiPhone講習会」と云うのが目に留まりました。
iPhone8の実機を参加者一人一人に配り、ドコモ社員による2時間の入門講習だそうです。
スマホには興味あります。
私は4年前からNPOセンターweb講座で、ホームページのスマホ対応レスポンシブプログラム講座をやっています。
別にスマホ本体を持っていなくても、PCのデバイスチェッカーで、アンドロイドもiPhoneも、全ての大きさ、バージョンで 実機と同じように表示できるのですから、全く必要はないのですが・・・でも興味はあります。
この講座には私と同年代のオジサン・オバサン20名ほどが参加していました。

確かにiPhone8は楽しそう、面白そう。
カメラとしても、ビデオとしても、音楽プレイヤーとしても、テレビとしても、映画館としても 図書館としても、万能なパソコンとしてもこれ一台で全て済んでしまうのですから。
実際に触っていて楽しい。
でも・・・・本当に必要なのと帰り道考えました。
先ず、iPhone8って本体幾らするの?と調べてみて益々解らなくなりました。
シムフリーの64Gが85,000円するのに、ソフトバンクだと26,800円 どうしてシムフリーのほうが高いの? 次に、月々の利用料金、6,500円だが、お客様の使い方次第でご相談に乗ります的な話。 今のご夫婦お二人のガラケーとさほど変わらぬ料金で使えますよ的なお話。
パソコンの世界ではリーダー的存在でいろいろアドバイスしているのに、スマホに関しては全く無知・素人なんです。

おもしろそう、楽しそう、便利そう・・・でも本当に必要なの?
現在の生活の行動範囲は自宅と活動拠点のNPOセンターの2つ。
両方ともWifi環境は整っているので慣れたPCで十分事足りている必要なのは、旅行先だけ。
一ケ月に一度の便利さ・面白さ・楽しさで毎月定額数千円の固定経費は無駄じゃないのか。 リタイヤ年金シニアの考え方として、入ってくるお金は定額あるいは減り続けるので、最初の投資、イニシャルコストはある程度の金額は出せるが、 毎月づっと続くランニングコストは極力抑えたいと、Docomoの社員に話しました。
彼のアドバイスは、一度現在契約しているソフトバンクのショップに行って、現在の契約内容を確認し、ガラケー からスマホにした時の利用条件、月々の支払いの見積もりをするのが、先ず一番、との回答でした。
でも・・・DocomoもauもSoftBankのショップも朝の10時開店前から列を作って待っているほどの混雑ぶり 行きたくないよな。
スマホショップは予約して行く所なんだそうです。・・・知らなかった。


5/11 定年後、65歳をすぎてまさか!「万が一」どうする週間ポストの記事内容

毎週月曜日の新聞広告欄は決まって、週刊現代と週刊ポストの今週号の広告が掲載されます。
この二つは一般的な中高年サラリーマンの電車のなか愛読誌で、まず家庭に持って帰るにはちょつと恥ずかしい お色気話題と写真があるのと、購買年齢層を意識して、定年後、退職後、リタイヤ後の特にお金に関する記事を 定期的に掲載しています。

タイトルはマネー防衛「これが知りたい」65才過ぎてからのまさか! という、停年間近のおじさん達の食指をさそうようなタイトルです。

財産編
 ・マイホームが大暴落
 ・相続税が払えない
 ・再雇用先をリストラされた
家族編
 ・突然妻に先立たれた
 ・両親を同時に介護の悪夢
健康編
 ・思いがけない重病宣告
 ・急なリフォーム
 ・交通事故で巨額賠償金
なるほど、なるほど想定外なのか、それとも想定内なのか、古稀を迎えたオジサンにも 430円払って買って読んでみるかと思わせるキャッチコピーです。
ポスト記事から引用
貯蓄が足りない、健康面も不安、年金いくらもらえるか・・・老後の不安の種はつきないが対処方法を練ることはできる。
だが計画、シュミレーションにない「想定外」の事態に思い描いていた老後生活は一瞬にして崩れかねない ・・・・・中略・・・・・
老後マネーは3,000万は現在定説として確立されつつあるが、この数字はごく限られた超高所得者が押し上げた平均値で ボリュームゾーンは1000万円台前半とみられている。
・・・・・中略・・・・・
想定外に備えて保険はどうか?・・・基本的に保険と云うものは、”収入が多く、かつ失うものが大きなひとにとって有利な 商品”として設計されている、保険料の支払いが老後資金の目減りを促進させてしまい、本末転倒の結果になる。
などなどの前置きの後、各項目に関して解説しています。

1,財産編 老後資金の根幹がある日突然崩れたらどうする
・マイホームが大暴落
夫婦のどちらかが介護が必要になったら自宅を売って、二人で介護付き老人ホームに入居しようと、考えていたが自宅価値が暴落、 その時、やってはいけないのことは、狼狽えて早く手放そうとすること。
考え方を変えれば、家賃のいらない自宅で介護をう受ければ良いと考え直す、ギリギリまで、住み続けようと思えば、自宅価値の暴落 は恐れなくても良い。
・相続税が払えなくなる
同居していた母親が亡くなり、土地・家を相続したが、貯金も少なく、とても相続税を払えない。
これは、突然とか万が一でなく、当然予測、想定していた事例。
事前に関係役所、税務署、などに相談しておくのが最善の手段。
・再雇用先をリストラされた
再雇用で動けるうちまでは働いてくれと頼まれ、その予定で老後の資金計画を立ててきたが会社の業績不良でリストラ。
この先全てを賄いきれないが、高年齢求職者給付金制度、雇用保険などの公的セフティーネットがあり一時的に助かる。
2,家族編 身内の不幸やトラブルで心も貯蓄もすり減ったらどうする。
・突然妻に先立たれた
収入半減、孤独の苦痛への対処方法は?
自分が先に逝くと当然思っていたのに、妻の突然死、考えたことも有りませんので、よく読みましたが何も参考になりそうな意見・ アドバイスは何も書かれていませんでした。
料理学校に通え、趣味を持って人脈を造れ・・そんなことではないでしょうに。
・両親を同時に介護 それでも「自分のカネ」は温存を
普通は両親の介護・葬儀に関わる費用は、両親の財産で処理すべきなのですが、持っていない親の場合、子が経済的負担を背負う ことになります。
この欄の回答も当を得ていませんでした。
自治体の「地域包括支援センター」に相談しなさい。
が回答なんですから。
3,健康編 不測の病気や事故でまとまった出費を迫られたらどうする
・思いがけない重症宣告
これはポストが書いている「不測の事態」ではなく当然予測されること、日本の医療制度がこのまま継続される限り、或いは 超高額所得者でない限り、「高額医療制度」で1ケ月の支払い金額は上限で済まされることが多い、但しベット差額や、食費などは この範囲内ではないのを認識しておくべき。
当座の支払い額100万があれば何とかなる。
・急なリフォーム
高齢になり、自宅をバリアフリー化する必要にかられた時どうする?
このアドバイスもこの記事の全般のトーンと同じで「公的制度があるので自治体に相談しろ」でした。
・交通事故で巨額賠償金が
この回答、アドバイスも一般的、知っている、年金シニアなら知っていなくてはいけないものばかりでした
記事の解説、アドバイスは
ある年齢になったら車を手放せ
保険は対人・対物無制限が原則
読み終わった後の感想
実際に既にリタイヤしている私たちの世代から見ると、当たり前のことばかり。
これは、まだ若い、これからリタイヤ・退職資金計画を練る世代向けの記事であって、このサイトに 集まる読者が430円払って読む価値は有りませんでした。
もう、週刊現代、週刊ポストのキャッチコピーにはひっかからないぞ。


5/4 『世界の村で発見!こんなところに日本人』アルゼンチンの懐かしい知人が登場

今週のTV番組『世界の村で発見!こんなところに日本人』を見ていると、 メンドーサ州・ハイメプラッツという地名が登場しました。
私が青春時代を過ごしたアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに住む人々にとって、 メンドサ州は誰でもが知っているアンデス山脈の麓の美しい町ですが、 流石に『Jaime Prats (ハイメプラッツ)』という名前は知らないでしょうが、私はこの村の名前に 大きく反応しました。
まさか・・ここに住む日本人といえばあのファミリアしかいないのでは・・・

ブエノスアイレスから西へ1000km、そこから南にバスで5時間、南部の中核都市、サンラファエルから、バスで1時間 の小さな村です。
この村から10数キロの荒野に、かつて海外住事業団が造った日本人移住地コロニア・アンデスがあったのです。
アルゼンチンの日系人、日本人移住者のほとんどは、首都30km圏内郊外に住んでいるのですが、ここコロニア・アンデスと アルゼンチン北部ミシオネス州のコロニア・イグアスは、1960年代に、日本の国策として新たに海外移住事業団が 創設した開拓地に多くの日本人青年・家族を送り込んだのです。

1960年代、戦後という言葉が終わりかけ、高度成長に歩みだそうとしていた日本ですが、しかし 昔の外務省の外郭団体は既定としていた海外移住・移民・棄民の国の政策のノルマ・予算消化だけを考え、 ろくに調査もせず、現地の人の意見を無視して多くの日本人をこの、塩の噴き出る荒野に送り込んだのです。
既に、この時点でドミニカ移住地問題が発覚していたにも関わらず、決行したのです。

この地を私は、70年代初頭から数度、旅行で訪れています。
そして南米の青春時代に一区切りつけて帰国、日本で結婚した相手、現在のカミサンの友人の 女性は、このコロニア・アンデスへ移住した家族の一員として10才で渡り、出身県の研修制度で 一時帰国していた青年と出会い、結婚しこの地に嫁いで行きました。
その結婚した相手の男性が、今回の『世界の村で発見!こんなところに日本人』に登場し、 番組を見ていたカミサン共々、二人でびっくりしました。
TVでみると同年代の彼も随分と年老いて、白髪が目立ちますが、話し方は昔のままですした。
そして、私たちの知っているカミサンの友人、S子さんの写真が登場しました。

お嫁に行ったS子さんは、嫁いで10数年ほどで亡くなったいます。ガンでした。
彼女がガンを患って入院・手術をする時、私たち夫婦は州都のメンドサまでお見舞いに行っています。
そして、亡くなってから数年後、お墓参りにも行っています。
日本ならきっと助かったのでしょうが、アルゼンチンの公共病院では、医療費は無料のもの 薬・医薬品を買うのも、手配するのも全て患者負担でした。
二人でこの番組を見終わって、カミサンは涙ぐんでいました。
日本で暮らしていれば、恐らく元気に、何事もなく過ごしていたかもしれのせん。
今頃、一緒に彼女の実家のある三浦半島の桜並木を楽しんでいたのに。

番組ではその後、パナマ・ネパール・エジプトに住む日本人探しをやってました。
これ等の国は全て私たち夫婦は旅しています。
そして日本に住むTVの前の視聴者が、こんなところ、秘境・僻地 と思われる場所を何度も個人レベルで旅しています。

タイトルの『世界の村で発見!こんなところに日本人』は、この地に住むご本人の日本人からみれば、 失礼千万なのは明らかです。
人間が生活を営み、家族と暮らす場所を他人から「こんなところ」と云われる筋合いは何処にもないのです。 色々な事情があるでしょうが、人間、今住んでいるところが一番、と誰しもが思っているでしょうし、 これまでの生き方、暮らし方を一面からだけで捉え、二日ほどで直ぐに帰ってしまう、 帰る所がある、テレビタレントに安易なコメントをしてもらいたくはないでしょう。

この番組を見ながら、きっとS子さんは、私たちが思っているよな後悔はしてなく、幸せに 人生を終えたのだろう、今はそう思っています。

Google Mapで昔の住まいを見てみてる
番組が終わってから自室に引き上げ、パソコンに向かい、ハイメフラッツの町を ドライブしてみようと試みました。しかしさすがの天下のグーグルマップも、私の良く知って いる近隣の町アルベアールや古くから日本人が住む、リアデル・パードレ―村は撮影しているものの ハイメフラッツは撮影していませんでした。

そこで、40年以上前に住んでいた、ブエノスアイレス・ボカ地区のアパート前に行き、見上げてみました。
近所のお店が若干変わっていましたが、通りの佇まいは何ら昔と変わっていませんでした。
遠く、日本から飛行機で20時間以上、離れた地球の裏側の町を、まるで現実に歩くように眺められる グーグルマップ。
世界中の若者が、今も憧れの地をパソコン上で歩いているのでしょうね。


5/1 東北の桜を追いかける3泊3日個人車の旅の費用は?


今回のノープラン旅の実際の日程は
4月25日 午後、自宅から、出発地点の長野実家へ
21:30長野自動車道・北陸自動車道・磐越自動車道・東北自動車道経由
4月26日 07:30弘前着後、鶴の舞橋・芦野公園・金木斜陽館・弘前城  弘前泊
4月27日 06:00早朝 弘前撮影後 一般道で角館へ、撮影後秋田へ   秋田泊
4月28日 09:00秋田発、無料自動車専用道、寺泊経由 長野着18:30   長野泊
4月29日 09:00長野発、自宅着 11:30

北信濃発着の東北の桜紀行の費用は?
長野・弘前間の高速料金は夜間・休日割引で往復   約16,000円
長野・青森・長野間のガソリン代はおよそ90リットル 約14,000円
宿泊費 弘前 弘前城徒歩10分の健康ランド&カプセル 二人で6,400円 
    http://asahiweb.jp/asahisauna.html
    秋田 天然温泉こまち 朝食付き 二人部屋 二人で7,600円
    http://www.spa-komachi.jp/
    宿泊費 合計14,000円
食費・駐車場・入場料・お土産 合計16,000円
総費用 長野発着 二人で60,000円
※但し、鎌倉・長野間(新幹線17,000円は含まず)

車利用のフリー、ノープラン旅の優劣、損得、利点欠点

利点
現地到着後の移動が自由、便利であること
特に今回の青森の場合、個人レベルでは行きにくい、鶴の舞橋と岩木山山麓の「世界一長い桜並木」を 廻るには車は大変便利でした。
二人ともに自由時間のあるシニアライフの為、出発日は桜の咲き具合、お天気を判断して自由に変更出来たこと
二人ともに、目的が写真・ビデオ撮影で一致しており、宿泊・食事・観光の大きな違いがなく、当初の予算 通り、一般的なツァーよりは費用を抑えられたこと。
欠点

東北の桜のうち、弘前城・岩木山山麓・角館・福島喜多方の桜を3日間同時に廻るのは、開花時期の 相違で、幾ら事前に調べても全てが絶好のコンデションで撮影するのは無理であることを学習しました。
会津喜多方の日中線枝垂れ桜並木は、出発日当日の情報で中止しましたし、角館武家屋敷廻りは 2日前の雨で散っていました。
車は時間がかかる
新幹線派の私の頭の中では、東京・弘前間750kmの所要時間は3時間40分、かかつても4時間なのですが、 出発地の長野から弘前までフル高速道路を走り、 その間・休憩を入れて10時間かかりました。やはり新幹線は早いを実感しました。
但し、東京から新幹線乗り継ぎ弘前、弘前から角館、角館から東京間の費用合計は普通に個人で 購入すると、一人約45,000かかりますが・・・。

旅の後書き
長野実家に戻ってきて、義姉から「また今度一緒に旅について行ってあげて」と云われました。 これまで多くの車好き、写真好きの旅行形態をみていて、典型的なシニア夫婦のパターンです。
女性は、年齢を取るにしたがってゆっくり、落ち着く、少し余裕のある宿、日程を選択するのは 我が家のカミサンで解っています。夫は映像を残す為に(将来逝った後、誰も見ないのを承知で) 如何に多くの魅力的なスポット、時間帯を選んで動き回るかが本能なのです。

来年の春の東北の桜は?
このまま元気であったらの話ですが・・・今年行きそびれた、喜多方日中線跡地・会津若松城・そして 三春の桜に行ってみようかと、考えています。


4/25 年金シニアの旅,東北の桜を撮るならノープラン、ノー予約に限る


今年の桜の開花は記録的な速さで咲き、凡そ一週間から10日早いです。
そしていよいよ今週から東北の桜が満開を迎えます。
退職したその年の春、予てからから退職したら東北の桜を見に行こうと思っていました。
4月は、普通のサラリーマンにとって最も休みが取りにくい、取りつらい時期です。
新入社員が入って来たり、新年度の事業がスタートしたりして、どんなに我がままな不良社員でも 大型連休前には休めないのが、日本の会社社会なのですから。
15年前3月に退職し、GWウィークを挟んで大手旅行会社の東北桜ツァーに申し込み2泊3日で行きました。
しかし、この年、角館の桜は散っており、弘前城の染井吉野は花筏の状態でしたし、十和田市官庁街通り(駒街道) は花びらひとつ落ちていませんでした。
あれ以来、東北の桜には縁遠かったのですが、実家の兄がノープラン、ノー予約で車で出かけると云うので 高速代や燃料代を折半する約束で同乗し、古稀を過ぎた兄弟で行く計画を立てました。

行きたい場所と開花状況(4/25現在)は、

  • 鶴の舞橋 五所川原 4/21 2分咲き
  • 芦野公園 金木町 4/26 満開
  • 弘前城  弘前 4/23 満開
  • 十和田市官庁通り 4/24 満開 28日桜吹雪
  • 角館武家屋敷 4/24 七分咲き
  • 会津若松鶴ヶ城 4/20 葉桜
  • 喜多方 日中線記念自転車歩行者道しだれ桜 4/23 散りはじめ
  • その他、行った先、花の咲き具合で手当たりばったりのノープラン旅

毎日、天気予報と開花状況をネツトで見て、出発日は直前に決めようと云う魂胆です。
今日4月25日時点でようやく出発日は決定、今晩、高速料金の安い深夜に走るそうですが、 帰る日は決定していません。

車だからこそ、男同士の寝る所は選ばずだから出来る旅です。
費用は恐らくツァーのほうが安いでしょう。
私の場合、兄の車が出る実家までの往復新幹線代だけで、軽くお札大が二枚かかるのですから。
それでも、桜を追いかけるのなら、このノープラン、ノー予約が絶対一番です。 行こうと決めたら行かないと、72才の兄と2つ年下の弟では、次はないかもしれないのですから。

一つの不安は・・・・
私は自動車免許を60才で更新するのを辞めたので、車の運転は出来ません。
兄は人一倍車が好きなので、大丈夫でしょうが、三日間、或いは四日間の長旅で疲れ、ヘタっても 私にはどうしようもないのが、ちょぴり不安材料なのですが。


4/20 個人自由旅行の功罪 京都から天橋立・伊根へ


退職してから15年、ほぼ毎年2回千年の歴史息つく京都の町へ出かけています。
住まいの大船から小田原乗車、新幹線こだま自由席で京都まで3時間弱のちょうど良い距離、 10時半にはホテルに入れます。こだま自由席の理由の第一は「安い」のと、行きも帰りも 時間の制約がなく、自由に行動できるのが最大の理由です。
定年後のリタイヤ年金シニアは、たっぷり時間があるので、時間よりお金優先です。
そしてJR東海のホテル&レールパックを利用することで、ある程度のレベルのシティホテルが 個人手配よりもかなり安く手に入るので、利用しています。

今年、出かけたのは4月11日。
京都市内の桜が目的ではなく、琵琶湖周辺、特に西岸の「海津大崎」と東岸「長浜豊公園」の桜が ターゲットでした。特に「海津大崎」は京都市内よりも一週間遅いと云うデーターを頼りに、設定 したのですが、今年の桜の開花は記録的な速さで予定が狂い、急きょ前々から考えていました 天橋立に変更しました。
天橋立・伊根に向かう団体ツァーは多いのですが、ほとんどが京都・宮島・日本にあるマチュピチュとして近年人気がある竹田城などが 含まれており、二泊三日の超強行軍は勘弁願います。
京都から天橋立へは、普通は特急「はしだて」を使うことになりますが、 一番早い列車でも、到着は11;30と遅く、そして料金は4,600円と高いです。
天橋立をゆっくりと歩き、伊根まで足を延ばして、夕方には京都に戻る為にはもっと朝早い電車 に乗る必要があり、最終的には、京都を6:37の山陰線各駅で福知山へ行き、丹後鉄道特急に乗り換える と、9:30には到着し、時間はたっぷり、そして料金は2,810円で済みます。
リタイヤ年金シニアの旅は、一時間の差で1,800円違うのであれば安いほうを選択します。

天橋立を歩く

丹後鉄道天橋立駅はまだ団体客や外国人ツァー客が到着しておらず、お土産物屋さん はこれからお店をあけるようで静かでした。
先ずは定番、上から見てみよう
観光写真で定番の海に突き出た松林の入江を上から見るには、2か所あります。
天橋立駅裏山のビューランドと、向かい側の傘松公園、傘松公園へはバス・観光船・歩く の三通りの行き方がありますが、駅近のビューランドにしました。
この日は前日の雨と違って絶好の晴天日和、ビューポイントにはお決まりの「股のぞき」で眺める 観光客が大勢いました。
が、私は止めておきました。理由は古稀を迎えた高血圧気味のオジサンが この姿勢で眺めた後、頭のふらつきが予測され、カミサンに止められたからです。


松林を歩いて対岸へ向かう
ビューランドを下って、対岸の傘松公園下からバスに乗って、次は伊根をめざします。
観光案内所で聞いたところ、距離は2.6km、真っ直ぐ観光もせずにひたすら歩くと30分強、 周囲の歌碑や、浜辺をブラブラ散歩程度で歩くと、一時間と云うので、健脚自慢のカミサンは 「歩こう」と即決。歩きました。
さすがに団体客は入口程度に沢山いましたが、フルに歩いて いるのは、若い外国人観光客と、自由な時間がたっぷりあり、健脚自慢の比較的若い、私たち と同世代のご夫婦だけでした。

バスで伊根に向かう

ネット時代になって個人旅行者が便利さを実感するのは、 日本全国のどんな地方の路線バスでも時刻表が手に入る事です。
スマホを持たない私たちは、地図も時刻表も全て印刷して持って歩いています。 伊根の観光は、この地区独特の「舟屋造り」ですから、先ずは観光船で海側から眺める のが一番で、ネットで調べた「日出」バス停で下車しました。

海から見る舟屋
観光船は30分置きに出て、料金は650円とリーズナブルです。
出航すると、カモメとトビが集まってきます。誰かがエサを投げ与えているようです。 船内を見ると、「カッパエビセン」が置かれており、箱に100円をとかかれていました。 日本海、若狭湾の奥深く位置する、伊根の海は波もなく穏やかです。海の透明度も高く 美しいグリーンの海です。
「舟屋」とは、このように海に面した半島の、山と海との間の狭い土地に住む人たちにとって 陸路よりも、海路のほうが格段に便利なので、現代のマイカー代わりに、自宅の海に面した一階 をガレージのようにしているこの地方独特の建築様式です。
しかし、海から眺めていると、現在ではほとんどの家の舟屋には船がありませんでした。 地元に方に話を聞くと、昔ながら木造の和船なら、納まるが、今のような横幅の広いFRP製の ボートだと、入らないとのお話でした。

伊根の町を歩く
伊根の町が広く知られるようになったのは、映画「おとこはつらいよ 寅次郎あじさいの恋」マドンナは 「いしだあゆみ」からです。第29作昭和57年ですから、かなり前の作品です。
私はこの映画は見ていませんが、テレビの旅番組で「いしだあゆみ」が当時のロケ現場を 訪ねるのを見て、いつか行きたいと思っていました。

伊根は本当に小さな田舎の漁師町で、ブラブラと散歩するにはちょうど良い大きさの町です。 団体観光客は少なく、二人で歩いていると学校帰り小学生が、口々に「こんにちわ」と声を かけてくれます。
道を訊ねたお年寄りの漁師さんは、手を休めて色々と伊根の話を聞かせてくれました。遅い 昼食で入った食堂では、名物の黒ちくわの天ぷらを食べたかと聞かれ、いいえ、と答えると 今、賄いで作ったのがあるから食べて行きなさい、とご馳走してくれました。
まるで、TVの旅番組で仕込んだようなシュチエーションが、この小さな漁村ではあるのです。

高速路線バスで京都に戻る
京都への帰りは、高速バスにしました。
天野橋立駅前から京都駅までノンストップ、所要時間途中15分の休憩をいれて、2時間5分 ですから、JR特急よりも早く、安い2,800円です。
最近、トイレが近くなった私やカミサンはこれまで長距離バスは敬遠していましたが、この バスは、トイレ付ですから安心して乗れました。
結局、安心感と途中休憩があったからでしょう、乗客は誰一人車内のトイレは使いませんでしたが。
日本三景、残すはあと一つ
安芸の宮島、天橋立と定年後の二人旅でクリアして、残すは宮城の松島なのですが、カミサンが 松島に行くのを拒否しています。 理由は・・・・
カミサンのお友達が、あの東日本大震災の時、娘さんとの個人旅行でちょうど松島におり、大混乱に巻き込まれ 四日間音信不通状態に陥り、ご主人から何度も我が家に安否問い合わせがありました。
旅行者故に避難所をたらい回しされ、関東へ戻る手段も閉ざされ、かなり辛い思いをされたようです。 この話を聞いているものですから、カミサンは、松島へは行きたくない、というのです。
「観光に行くことは、現地の復興の一助になり役に立つ」と説得しているのですが・・・何時行けるか?

4/11 49日・納骨を終え、亡き兄からの思わぬプレゼント

一月に亡くなった兄の49日の法要と納骨を、春のお彼岸が過ぎ、市民霊園までの山道の雪が無くなり車が 通れるのを待って、北信濃の実家で行われました。
昨年の5月に中学校の同級会が開かれるのを機会に帰省した時、長兄の入院手術と云うので前日に見舞いに 行き直腸がんを初めてしらされました。
その後、ステージ4の末期が判明し、余命半年が宣言され、8ケ月でキリスト教系ホスピスで心温かいスタッフ に囲まれて逝きました。

生涯独身の上、職を転々として40代に東京首都圏から生まれ育った信州に戻った長兄は、両親の亡くなった後 の兄弟の間では少ない親族ではあるものの、一人暮らし、経済力のない「困った寅さん的」存在でした。
もし、病気になって、寝たきりや、認知症などなった時、共に高齢化し、互いに年金生活の兄姉でどうやって介護 、経済的に支えていくか不安でした。
生活保護を受けるには中途半端の貯蓄があったようと聞いていました。
今回5月にステージ4宣告後、市民病院で三か月の入院と、ホスピスのお試し入院、最後の二週間の入院の費用 は、長兄の老後の貯金で十分賄い出来、彼自身のお葬式も賄いきれました。
そして、差し引き、72才の生涯独身、未婚、一人暮らしアパート暮らしの年金ライフの男性としては少ないもの の、幾らか銀行口座に残りました。

今回の49日を機会に、姉・兄・私でこの兄の遺産について話し合いました。 基本的に、私は受け取りを遠慮すると申し出ました。
信州に暮らす、姉と兄が半月以上づっと訪問看護やヘルパーさんが来てくれるにしても、毎日何らかの 形でアパートを訪れ、世話を続けてきました。
私とは云えば遠く離れた場所で暮らし、必要最小限の時に日帰りで来る程度でしたから、兄の残した例え少額 であっても、遠慮すると申し出ていました。

結局、数百万程度の預金が残りました。
私の提案は、これから亡き父・母そして、今後も続くであろう長兄の慰霊やお寺さんのお付き合いがあるので、 現在実家を継いでいる次兄の代だけではなく、 二人の次兄の子供の代まで、家を継ぐものの責務として残るので、割合は次兄5、 長く長兄の介護をしきた姉3にし、 何もしていない、でも兄との思い出旅行の費用を負担したり、 見舞い・葬儀の度に新幹線交通費負担が大きい末弟の私は2と云う申し出を前提にして、この案でほぼまとまりました。

金額的に、夫婦二人でちょっと豪華な海外旅行をすれば終わってしまう程度の金額です。
でも、全く予期も予定もしていなかった金額ですので、どうしようかとカミサンと二人で話し合いました。

案1,二人の老後資金として組み入れ当座使わない。
案2,旅行予算に組み込み、二人でちょっと贅沢な国内旅行数回分とする。
案3,二人で均等に山分け、お互いに干渉しない小遣いとする。

長兄のちょっとしたプレゼントの結末は・・・案3でした。



4/6 終の棲家探し始動、飛鳥山と十条銀座廻りを歩く

二月に古稀を迎えて、以前よりの計画・思惑どおり終の棲家について、真剣に考え始めました。
今の鎌倉の住まいが気に入らない訳ではありません。
むしろ大変気に入っているのですが・・・・
終の棲家について、考え始めた理由が多々あります。

大きな理由の一つは
私たちには子供がいないので、私が逝き、カミサンが逝くと、この現在の家 は空き家となり、法定相続人のお互いの兄弟やその子供たちが相続するのですが、確実に数千万 を残すことになり、正直勿体ないと、考えてしまいます。
理想の逝き方は、葬式と後片付けをしたら、二人の共有財産が限りなくゼロに近くなっていることなのです。
しかし、齢、70才を過ぎた夫婦がこの先不透明な賃貸に住まうのは不安・抵抗感があります。
そこで、現在の80平米超、立地の良いマンションを売って、65平米2LDK程度の老夫婦にちょうど良い広さの 中古マンションを購入しよう、さすれば、引っ越し、リフォームした後に、少なくとも1,000万以上は残り 私が逝った後も現在よりもかなり余裕ある生活が出来、カミサンはそこに住み続け、最後はその中古マンションと 幾ばくかの現金が残れば良い・・・と云う考えです。

理由の二つ目は、介護の問題です。
今回の信州の長兄の介護と死でいろいろ学びました。
子供のいない田舎から出て来て都会に暮らす夫婦の場合、頼るのは伴侶だけです。
99%私の方が先に逝くので、頼れる相手はカミサンですが、後に残されたカミサンにとって頼れるのは、三姉妹の 埼玉に住む長女とその息子二人、末妹は北関東ですから、そう簡単に頼ることは出来ません。
今回の長兄の場合、当然行政のお世話になったり、訪問看護のお世話にもなりましたが、やはり、メインは地元に住む 次兄と姉でした。
近くに住んでいたから出来たこと、病が末期がん、ステージ4と先がみえていたから出来たこと なのでしょうが・・・、これが脳梗塞とか心臓系の病、そして認知症系でしたら、先が見えない長期介護となり 次兄・姉だけで済んだかどうか、解りません。
カミサン一人になったら、出来るだけ長女の家の近くが良いのではと考えてきました。

候補地の一つ、赤羽に近い王子駅周辺へ
4月、桜が満開になり散り始めた日、都内の桜の名所見物がてら、終の住まいの候補地の一つ、埼玉の実家から 近い、電車で2~3駅程度の都内、桜の名所の「飛鳥山」王子駅からスタートしました。
飛鳥山公園の桜はチラホラ散り始めていましたが、このシーズンの最終日曜日とあってとても賑やかでした。
公園の桜を見物中、大手デペロッパーのブースで新築マンションの紹介をしていたので、覗いて話を聞くと、その マンションは、バスで15分程度の墨田川沿いの元工場跡地に計画中だそうです。
価格帯は70平米で5~6000マンが中心とのことで、私たちの条件をはるかに超えていました。
大病院、庶民的な商店街も、大型ショッピングモールもない場所、若い世代向けの地域です。

次の目的地は、この日の本命の十条です。
カミサンの姉の住む駅から3駅ターミナル駅から一駅のこじんまりとした駅前で少し安心しました。
この町には都内の下町商店街としてマスコミに取り上げられる、「砂町銀座商店街」・「戸越銀座商店街」と並ぶ 「十条銀座商店街」があり、先月もNHKのドキュメント番組「72時間」で取り上げられていた、格安下着ショップがあるところです。
長い商店街を歩いて見て、TVで取り上げるほどの物価の安さとか、庶民性はそれほど感じられませんでした。 私たちが毎日買い物をしている「大船仲通り商店街」のほうがもしかすると安いかもしれません。
それと、この商店街の近くには、大船のような大型スーパーはないのです。
主婦としては、庶民的な商店街と一度に買い物が出来、豊富な商品、品揃えの大型スーパーは同時存在なのです。
裏通りを歩いても、全く緑の風景がありません。
子供たちの遊ぶ姿もありません。
中程度のマンションが隙間なく並ぶ灰色の風景。
この街に住むイメージが全く湧いてきませんでした。

そんなに簡単なことではないのは解っていました。
私たちの終の棲家探しの第一回目は、ほぼこうして終えました。
70才を超えてから住まいの買い替え・転居は、重労働、負担なのは重々承知しています。
不動産関係者の話では、東京オリンピックが終わるまで、様子見状態とのこと。
2012年、私は72才、カミサンは69才。
私が生きているかどうか、確率70%と自己分析しています。



3/30 テレ東の「家、付いて行って良いですか?」

古稀を境に、過去を振り返ることが多くなってきています。
齢をとった証拠、と学者先生は云うでしょうね。
今回のブログの話題も、住まい・家のことです。

アメリカのTV番組プロデューサーが、テレビ東京の「ユーは何しに日本へ」と「家、付いて行って良いですか」を見て 何とクレージーな番組と云いました。
かれらにとって「クレージー」とは最大の誉め言葉なんです。

まさか、こんな番組が成立するとは誰も思ってもみなかったでしょう。
深夜の二時三時に、自宅に他人、それもテレビ局のカメラを持った人間が訪れるなんて。
企画の段階で、誰も深夜にカメラを自宅に受け入れる日本人なんかいないと云う意見が多数派であったことは想像 されます。
まさか、帰りのタクシー料金代わりに、家族が寝ている家に招き入れてくれる人がいるとは。
そして、驚かされるのは、その家の人が徐々に自分の人生、生活、生き様を語りだすことです。

毎週色々な住まい、アパート、人生模様が見え、水曜日の夜の講座を少し早めに切り上げて帰宅し、夫婦二人で 見るのを楽しみにしています。
そして、その都度、映し出される木造アパートを見て、昔の二人の住まいを懐かしがって います。 結婚する前、一緒に住み始めた42年前、昭和50年代はまだコーポとか呼ばれる、洋式のアパートは少なく、トイレは共同 風呂は勿論ない木造アパートが若い20代が住む賃貸アパートの主流でした。
上野の下町、池之端四畳半と三畳の二部屋に小さな台所の住まい、当時流行っていた「神田川」の世界そのもので、 二人で近所の銭湯に行き、時間を決めて出てきました。
帰りに近所の鯛焼きを買って食べながら帰るのが楽しみ はまさに、神田川の世界、昭和の世界そのもの、楽しかった思い出ばかりです。

やがて、私が退職まで勤めた会社に就職し、正式に結婚して世田谷のコーポと呼ばれる新しいアパートに移り住み ました。
井の頭沿線、渋谷・新宿に近く、1DKのアのパートです。
今風の風呂もシステムキッチンがあり、近所の木造 アパートに住むカミサンの友人が時々我が家の風呂に入りに来て、何時かは私も結婚して、こんなアパートに 住みたいと、話していたのを思い出します。
彼女はその後大手ゼネコン社員と結婚し、多摩の高層マンションに住んでいます。
この世田谷のアパートには三年住みました。

四年目に横浜、横須賀線沿線の新駅駅前の大規模開発マンション群の第一期の高層マンションを買いました。
当時、神奈川県で売られていたマンションの平均価格帯で一番高い物件でした。
当然ローンですが、頭金が多かったので35年ローンでボーナス払いなしの月々均等払い60,000円ほどでしたから アパート代と同額、当時の住宅金融公庫の利率は、今では信じられませんが年6%でしたが少しも苦労、不安なく購入しました。
購入した直後始まったのが、不動産バブルです。
勤めていた建設関連会社好景気の恩恵を受け、給与は年々上がり、ボーナス2回の他に、決算手当が2回、現場経費は ふんだんに使える状況、残業が深夜になった時は、都内から自宅横浜へのタクシーが制限なく落とせる時代でした。
35年ローンは子供いない夫婦共働きですから5年で早期返済出来ました。
やがて、計画通り私55才、カミサン52才で退職し、横浜のマンションを売り、現在の終の棲家鎌倉に新しい マンションを購入し、現在に至っています。

70才、67才になった二人は、まるでモデルルームみたいと、友人から云われる何も余分なものを置いてない 広いリビングで、毎週このTV東京の「家、付いて行って良いですか?」を見ています。 私たちの場合、何の才能、才覚も、努力もなく、時代と共に過ごしてきました。
TVで映し出される住まいの住民のような劇的な出来事も、波乱もなく生きてきました。
もし、何処かの駅でTV東京のクルーにキャツチされ、タクシーで自宅まで送って来てもらって撮影・インタビュー されても、私たちのような場合100%、放映はされないだろうね。
と云うのが何時も見終わってからの二人の言葉です。
「他人の不幸は蜜の味」 「私たちの人生も大変だけど、この人よりはマシね」と云うのが普通の人間なのだと、ある人が書いていました。



3/23 「イチゴ白書をもう一度」青春時代の夢と老後の誤算

朝日新聞土曜版の特集連載、あの時代・あの名曲的なシニア層向けの特集記事を土曜日の朝、読んでいます。
先週は1975年。
私の青春時代の放浪の旅が終わり、日本に戻って来た年です。 そろそろ、後戻り出来ない、やり直しの効かないターニングポイントの年齢、26才になっていました。

6年半ぶりに日本に戻った私は、当初専門学校で学び、再び海外に戻る予定でした。
ベトナム戦争が終わったこの年、昭和50年、学生時代の友人は社会人として歩きだし、立派な大人として 日本企業社会の一員として生きていました。 とりあえず、住む場所、アルバイト先を確保し、電子系の専門学校の夜間部で20代前半の若者に交じって 7年ぶりに学生に戻り、机に向かう生活を始めました。

日本は経済高度成長期を突き進み、60年代後半の学生運動を経験してきている私には、何処か馴染めない 気持ちがまだ存在し、何時も海外に戻る気持ちがありました。
そこで流れていた曲が「イチゴ白書をもう一度」でした。 そのなかの歌詞の一節「就職が決まって髪を切って来た時、もう若くないさと、君に言い訳したね」に 心動かされました。

この年の暮れ、その後結婚することになる女性とある会合で知り合いました。
彼女も海外志向でした。
会う度に二人の夢を語り合いました。
日本の社会人の常識である、結婚して子供をもうけて、新築の家を買って、休日にドライブする、そんな 生活よりも、先ずは二人で世界中のあらゆる場所を歩こう、今ならそれが出来る最後の年齢だ、老後のこととか、 ローンとか、年金のことは、その旅が終わって帰って来てからでもまだ間に合う。
その為に、今資金を造ろう、と走り出した年が1975年でした。

結局、この二人の計画に十分な資金が出来たのは3年後の1978年でした。
私はもう、30才、彼女は27才になってました。
日本に帰ってきて丸3年、専門学校を卒業し就職し結婚し、日本社会の一員となり社会的・経済的に安定して しまうと、二人の夢の実現は難しくなってしまいます。
私もカミサンも仕事面で期待され、それなりの地位・報酬が得られるようになると、同年代の社会人と同じように 自分の居場所、帰る場所、住まいを買ってしまい、もう、青春はお終いです。

でも、何か違うと云う思いは二人の間でいつも存在しました。
そして出した結論は、知り合った頃の夢を違う形で追いかけよう。
出来るだけ早く退職・リタイヤして、二人で地球上の好きな場所に、好きな時に、好きなだけ留まり、生活しよう でした。
時代が味方してくれたのでしょう。
バブル前に家のローンは返済し、バブル絶頂期には建設業界に属しており高収入が続き、50代前半で目標とする金額に 達して55才、52才で退職し一般的な日本人サラリーマンより10年早くリタイヤ生活に入りました。

あれから15年経過しました。
二人で世界中の世界遺産、秘境・絶景の地を個人自由旅行の形で旅してきました。
しかし、青春時代に考えもしなかった誤算がありました。
人間は年老いて行く・・・パッションも体力も意欲も。
日本では65才になると高齢者と呼ばれます。
これは生物としての人類の宿命です。
あれほど、海外で異邦人として旅する心地よさがだんだんと薄れ、却って重荷、煩わしくなってくるのです。
いつの間にか、普通の高齢者・シニアのように、安全な、緊張を強いられることのない国内の温泉や季節の花咲く地が 居心地よくなってくるのです。
67才で10年のパスポートが失効し更新せず、海外は卒業しました。

今、日本のサラリーマンの退職後の年数はどんどんと短くなっています。
退職後の第二の人生、第二の青春と呼ばれていますが、自分の退職後を思い返すと、日本人の健康年齢と呼ばれる 70才までです。
その後は異論、反論は多々あるでしょうが、私は、残された人生と考えています。
今、「イチゴ白書をもう一度」をユーチューブで聞いています。
青春時代の歌を聞いて懐かしがる・・・齢とった証拠であることを自覚しながら。
「神田川」・・・まるで二人の青春時代そのものでした。



3/15 財務官僚の自死 死ぬな、逃げろ、逃げるは恥だが役に立つ

新聞紙面には森本問題でやはりと云うか、案の定、政治の圧力・忖度をしめす公式文書の存在が明らかに なってきています。
そして、お決まりのノンキャリアの自殺。 きっかけ、理由、部署、名前は公表されていませんが・・・、推測ですが・・・、この森本文書に関係 していたある財務省理財局事務官であろうと云われています。

何で死ぬのよ、辞めればいいじゃないか、逃げればいいじゃないか、ちゃぶ台をひっくり返してやれば いいじゃないか、逃げるは恥ではないんだよ。
生き延びるんだよ。

最近、過労による自死がマスコミで報じられています。
電通をはじめとする大手企業の名があがっています。
実は、企業内の自死、自殺は私の現役時代には身近にもっとあったと思います。
今のように、マスメディアが報じないだけで、私の居た建設関連企業には沢山ありました。
私も、追い詰められた時期がありました。
そして私の場合、逃げました。

ビル建設も、システム開発もそうですが、大きくなればなるほど、仕事の分野は細分化され、 高度な知識、経験が必要された個人に集約されていきます。
そして、その小さなパーツ、部門の瑕疵、遅れが全体に及ぼす影響は多大になります。
私は、バブル時代に巨大ビル建設に関わってきました、その間何人もの自死、ノイローゼ、出社拒否などを 見て来ており、なんでそこまで追い込まれるのか理解できませんでした。
逃げればいいじゃないか?、辞めればいいじゃないか?放り投げればいいじゃないか?と

私にもその時がやってきました。
1995年、バブルは弾け、日本経済は下降線をたどり始めた頃、建設業界への影響はまだ及んでいませんでした。
バブル時代に受注した残工事物件が数年先まで手付かずに残っていました。
横浜では93年ピークのみなとみらい地区のビル群に携わっていた頃、近隣の新築の大手本社ビルと大型ホテルの 工事担当者を決める会議で、忙しすぎて何処からも担当者を決めることが出来ず、とりあえず出席した課長・部長 クラスが着工までのつなぎ役とし、その後正式担当者に引き継ぐと云う、良くあるケースの一時しのぎになりました。

私たちが建設工事で担当する部署は、そのビル全体を監視・制御するシステムとハード造り工事ですから、客先は ゼネコン、設計事務所、サブコン、メカコン、お施主さんと多岐に渡ります。
この現場の最初のキックオフミーティングで嫌な感じしました。
ゼネコンの最高責任者が挨拶で、「西日本から工事単価の崩壊が始まっている」「見積もりをし直す」「現場は戦場だ」 「この現場から打ち合わせ書類は全て電子化する」その後、Y社(当社です)の担当者と打ち合わせしたいと云いました。
内容は、「この現場から打合せ書類の電子化をする、ワープロを20台現場に持ってこい」、と云われました。 早速、営業から見積もりをださせます、と答えると「そんなもの現場経費で落とせ、天下のY社が云う事か」 と云うのです。
営業に伝えると、「仕方ないかな、相手がゼネコンO社で喧嘩出来ないし、工事に引き継いだんだら、 そっちで何とかしてよ」です。 まあこの程度は何とかなるので納品したのですが、このゼネコン所長には不信感をいだきました。

工事は始まって数か月、再びこの所長に呼び出されました。
ビル全体を統括するメインシステムを私のY社から、N社に変更する、現在O社はN社の工場建設をしているので、 バーターとなった、これは本社決定である、しかし、N社は工事が出来ないので、端末工事はこのまま、Y社、 お前の所でやれ」と云うのです。
これには頭にきました。
美味しいところだけ持って行かれいると、この時点で巨額の赤字になります。
それを云うと「追加工事や、乙工事で何とかなるだろう」と云うのです。
本社に戻って、「この現場は降りましょう、とてもあのO社の仕事は出来ません」と云うと、 「天下のゼネコン相手に途中で降りることは出来ない、これまでそんな事をしたことはない、現場で何とかしろ」です。
建設業界の体質的に、現場単位で発生した問題は現場で処理しろ、つまり現場責任者個人の問題になり、部署・会社全体で サポートする体制では当時はなかったのです。
「会社が降りれないのなら、私が降ります、辞めます」と宣言しました。
とても、この先2年間この所長の下でこの現場をまとめる自信がありませんでした。
赤字を少しでも減らすには、下請け会社さんを泣かすことになりますし、 最終的に責任を負うのは個人の私になります。

私はその時48才
自宅に戻りカミサンに「会社を辞める、このままでは自滅しそうだから」と云うと。
「で、どうするの?」とカミサン
「早めに退職して、念願だった世界一周の旅に出る」
「取り合えず、コスタリカあたりでゲストハウスの需要や価格を調べに行く」
「そう、良いじゃない、私も辞めて一緒に行くは」となりました。

社内は大騒動で、あらゆる部署から説得の手が伸びてきました。
しかし、その都度、コスタリカ行きのチケットを見せて本気であることを伝えました。
まだ、団塊世代は働き盛りの48才、老後の生活とか、退職後の海外ロングステイなぞ、巷では話題になっていなかった頃です。
「お前は逃げるのか」
「敵前逃亡だ」
「この先、何かあったら逃げる人生になる」
「残された同僚、会社の事を考えてみろ」等々
知ったことではない、中途入社だし、日本のサラリーマン生活なんて、くそくらえだ

その後のお話
3ヵ月後、コスタリカから戻り、元会社に退職手続きにいくと
「君は辞めたことになっていない、不在の3ヵ月の給与は振り込んである」
「しかし、このままの地位と部署でいると社内的に不味いので、ゼネコンS社に出向してくれ」
話を聞くと、私がO社と大喧嘩した話は業界に広まり、前々から知り合いだったゼネコンS社の耳に入り、Nを辞めさすな 、うちによこせと拾ってくれたようです。
当時はまだ必要とされていたようで、時代がこのようなわがままを救ってくれました。
結局、退職予定資金が貯まる55才、2003年までS社のお世話になり、円満退職に至りました。
この時は誰も引き留めませんでしたし、退職の送別会は現場のみでした。

逃げるが勝ち
全然後悔していませんし、逃げたのが正解だったと今でも思っています。
20年以上たった今でも当時の悪夢をみるのですから。
携わったあの有名ホテルに入るの今でも嫌です。
時代が良かったのかも知れませんが、生きていれば何とかなります。
絶望的な状況であっても、死んでは行けません。
逃げて下さい。



3/8 古稀を機会に、再び終の棲家について考える。

高校まで信州で育ち、冬の曇天と雪の季節、テレビのニュースでは東京の晴天の空が映し出される度に、 信州の山の向こう、碓氷峠の先にある関東平野に憧れ続けていました。
結婚して二人で一緒に住んだのは、上野池之端と世田谷区、そして30代で買ったのは横浜の新駅駅前の 大規模開発マンションでした。
ここに退職までの20数年住み、退職後は海外に住む予定でした。

退職後、海外ロングステイと云う選択をしたものの、二十代前半を仕事で海外に住んだ経験から、老後、最終的には 日本が一番と、冬の気候が一番安定しており、地震以外の気候的災害が少ない神奈川・静岡周辺に終の棲家を 二人で一年間探しつづけて、落ち着いたのが、現在の住まい鎌倉です。
子供がいない夫婦の退職後の終の棲家探しの条件はと云うと

・JR駅から平坦な道で徒歩10分圏内
・庶民的な商店街や大型スーパーがあること
・徒歩圏内に地域基幹大型病院があること
・自宅周辺に大きな公園・自然林・緑地があること
・二車線以上の公道に面し、マンション隣接地に空き地がないこと

予算的に少しオーバーしましたが、探し当てたのが現在の住まいです。
自宅裏の丘陵地は、神奈川県で有数の進学校やキリスト教系の女子高があります。
この坂道を10分、登っ行くと大きな戸建て、いわゆる○○台と呼ばれる大手デベローパーが開発分譲した住宅街があります。
この大規模戸建て地域の高台の公園から、冬の晴れた日には、綺麗な富士山が見えます。
越して来た頃、散歩でこの富士山を眺めた時は感激しました。

終の棲家の理想・・・と云うと自宅から海が眺められる、と云う条件もありますが、 実際にそのようなお宅にお住まいの 友人のお話では、

「そう思ってここに家を建てたけど、毎日坂道の上り下り、 海からの潮風で大変、朝起きた時にみる海は素敵だけど 、夜はただ真っ暗、花火が自宅の庭から見えるけど、それも一年に一度だけのことだし、 テレビのドリームハウスって若い時だけ。
何よりも齢とってきたら日常生活の利便性、お買い物が大変、 海か富士山かの二者選択なら、富士山ね。」
と云っています。

でも、ここまではこの終の棲家で良いけれど・・・・
子供のいない夫婦に介護や医療が 必要になってきたら、再び終の棲家の条件が変わってくるのは、必須です。
特に、最近独身の兄の終末医療の問題が発生し、実際に病院への送り迎え、入院の保証人、介護保険の手続きなどでをしているのは、 市内に住む、姉と次兄です。
カミサンが心配するのは、では私たちが医療・介護が必要になった時はどうなるの?です。
頼りになる子供はいません。
私の兄弟は遠く離れた信州ですし、同じような世代、遠く離れた弟よりも自分の家族の医療・介護問題 を抱えているでしょう。
カミサンの実家は北関東で自宅から電車で二時間半、そこからまた車で30分です。
一番近いカミサンの長姉むは埼玉です。
長姉は夫をクモ膜下出血で40代で亡くし、二人の甥っ子を育ててきました。
現在、この独身の甥っ子と一緒に戸建てに住んでいます。
頼れるかどうか解りませんが、今の状態なら、私たち夫婦が動けなくなった時のヘルプを求められるのはこの埼玉の甥っ子二人 だけでしょう。

そこで私たち二人の間で、終の棲家探しの検討に入っています。
現在の鎌倉の自宅を売って、長姉の家の近くに現在のような80平米オーバーの広い間取りは必要なく、二人暮らしでちょうど良い 中古2LDKのマンションを買う。
現在のマンションの値段と中古の差額、引っ越し費用や売買手数料を引いても、差額は最低1,500万は残り、現在の老後資金にプラス されて、甥っ子二人のヘルプへの報酬になるのではないか?と胸算用をしていたのですが・・・

実際にネット上で調べてみると、そんなに甘い状況ではなさそうです。
カミサンは、埼玉は嫌だから東京にして、姉さんと実家に電車で一本で行ける都内、 そう赤羽あたりにして、と云うので調べると

・2LDKタイプの中古マンションは少なく、駅から遠い郊外形がほとんど
・30年以上経った中古マンションでも、3000万近くする。
・駅に近く、買い物が便利、病院にも近いマンションは1LDKと狭いマンションばかり
とても、売却益は1,000万でるか、でないか?の現況です。
どうやら、都内は東京オリンピックが終わるまで静観する必要がありそうです。

では、鎌倉のマンションを売って、そのまま現金で持ち、賃貸は?と考えてみました。
しかし、民間の場合、高齢者夫婦の賃貸条件は厳しく、二年毎の更新は大きなリスクです。
では、公団URの高齢者向け住宅はどうか・・・・
ネット上で調べた範囲では、URの空き室は意外に少なく、 それも駅からバスで20分と云う物件ばかりです。
頭の中だけで考えていた、私たちの老後の住まいの厳しい現実を知りました。

ではどうするか・・・
結論は日本人お得意の「問題の先送り」です。
私が72才を迎え年、東京オリンピックが終わった後、ゆっくりと行動を起こそう。
それまでは、ここ鎌倉で元気に過ごさなくては。



3/1 今週、古稀70才を迎えました、還暦の時とは大違いです。

太平洋戦争が終わった三年後、昭和23年1948年に生まれ、今回で70回目の誕生日を迎えました。
父親が6年の長きに亘って結核療養所に入院していましたので、昭和20年代世間一般はまだ貧しいなか、 特に私の家では、4人の子供たちの誕生日を祝う余裕は全くなく、誕生日のお祝いには全く無縁の生活でした。
長じて上京し、まもなく二年後にはアルゼンチンに渡り一人の生活をしてきましたので、誕生日を祝うことも 、祝ってくれる身内も友人もなく、青春時代を過ごして帰国・結婚しても、子供がいない二人の家庭では、 特別お互いの誕生日を祝うこともありませんでした。

60才の節目の還暦も特に意識しませんでした
家庭があり、子供或いは孫がいたりしたら、還暦の祝いを家族がするのかも知れませんし、元会社のように 家族的な雰囲気を残す建設業の現場では、部署・課・現場で還暦の祝いもしていたましたが、私の場合、 60才時にはすでに職を離れ、隠居生活に入っていましたから、廻りで祝うという事は有りませんでしたし、 仮に、祝いの席を設けると云っても遠慮したと思います。

60才は昔のような「おじいさん」さんではないからです。
還暦を迎えるころ、いつも頭の中で童謡「船頭さん」の歌詞・メロディを思い起こしていました。 自分は年寄りではない、おじいさんではないと。

村の渡しの船頭さんは、ことし六十のおじいさん
年はとってもお船をこぐ時は、元気一ぱい櫓がしなる
ソレ ギッチラ ギッチラ ギッチラコ

しかし、70才・古稀は非常に強く意識しています。
先月、実兄が72才で亡くなりました。直腸ガンです。
父親は、71才で亡くなりました。動脈瘤破裂です。
姉の夫は70才で亡くなりました。心筋梗塞です。
妻の父親は72才で亡くなりました。食道がんです。
妻の姉の夫は50代で亡くなりました。クモ膜下出血です。
どうひいき目に見ても、私の家庭環境・血液環境は長寿家系ではなく、 平均寿命以下の家系と勝手に思っています。

定年退職後の第二の人生・青春は終わりです。
古稀を迎えてこれからの人生は「残された人生」と考えるようにします。
この思いを強くしたのが、誕生日前日に届いた市からの書類でした。

国民健康保険高齢受給者証です。
遂に、医療費は2割負担になるのです。もう立派な高齢者、お爺さんと、行政が云っているのです。
この保険証が届き、誕生月2月末日に予定していました定期健康診断検査と2ケ月に一度の通常受診を 3月に延期しました。誕生月の翌月一日から、二割負担になるのですから、もったいない。
カミサンの誕生日は私の誕生日と一週間しか違いません。
結婚してから40年一度も、二人の誕生日は祝っていませんが、今年は特別です。
退職後の13年間は、海外ロングステイごっこは生き尽くし、その後は毎月国内を旅していますが、常に 年間旅行予算に縛られての旅ですが、今回だけは、料理が自慢の温泉宿にしました。
春の訪れを告げる、早咲き河津桜は過去に3回行っていますが、何れも日帰りでした。
今回は、伊豆稲取の雛祭りを見て、東伊豆・北川の温泉に早めに入り、翌日、河津桜を見て帰ってくる 予定ですが・・・相変わらずの貧乏性故に、スーパービュー踊り子ではなく、東海道線・伊東線・伊豆急 乗り継ぎ各駅停車の旅です。

せっかくの古稀の誕生日記念の夫婦の旅なんですから、少しは贅沢しても・・・とも思うのですが それが出来ないのが、リタイヤ団塊世代シニアの特徴なのかもしれません。
お天気は南岸低気圧が近づき、春一番の荒れ模様ですが、東伊豆に到着する頃は晴れる予想で、 伊豆北川の宿からは、評判の水平線からゆっくり登る、全国名月の地No,1のお月様が見られるかも知れません。
しかも、明日は満月ですから。



2/23 老害は他人事ではない、団塊世代は世代交代の時期を再認識しなくては。

来週、古稀を迎えます

毎週、何らかの形で会議があり、出席してます。
退職後に移り住んで最初にボランティとして、市民活動をサポートする鎌倉のNPOに参加した時は、私は55才でした。
それまで、地域コミュニティの市民活動を支えていたのは主に女性でした。

やがて、団塊世代の退職と共に地元コミュニティを支えるのは、生き甲斐を求める退職男性が急激に増えていくのですが、 私が加入した当時はまだ少なく、55才、コンピュータープログラム知識やグラフィクデザインの経験者、そして経済的には働かずに 済む私の存在は、地域のNPOには絶好の人材として大歓迎で受け入れられました。

あれから15年、私も今年で「古来稀なり」と云われる齢になります。
先週ののボランティア会員の会議には31名の出席がありました。
全会員90名の中の1/3です。
各セクションの正副リーダー、理事会・事務局のメンバーが参加しました。
着席して見回してみると、15年前は出席者の半数が女性だったのに比べ、8割がた男性です。
その男性の年齢は、私たち団塊世代が1/3を占め、その他の男性は新規会員の三名を除き、全て私よりも上の 70代前半から後半、なかには80代の方もいらっしいます。

理事会・各部門のリーダー、副リーダーは全員が古稀を超えています。
私はこの会議で、今年、古稀を迎えるので、世代交代の必要性を発言し、今年いっぱいで現場から退く旨をお伝えしたのですが、 大反発がありました。

曰く、昔と違って70代は若く、現役であり続けられる。
曰く、70代には、これまでボランティアを積み重ねて来た、経験・知識・人脈がある。
曰く、この年で現場を退くと呆けてしまう。
曰く、自分たちに代わる人材はいるのか?
曰く、鎌倉は他の都市とは異なる、日本の市民活動をリードしてきたのは、私たち鎌倉市民だ

私が云いたいのは、確かに皆さんの経験・知識はまだ必要ですが、リーダーである必要はないのです。 トップ・リーダーから一歩身を退いて、次世代のサポートに廻れば良いのです。
皆さん、自分は若い、まだまだ出来ると思っていても、外部から見れば70才は確実に”お爺さん”なんです。
社会・世間を見る目、判断の基準、センス、全てを自分の世代を通してからしか見れないことを認識しなくてはならないのです。

広報の立場から云うと、フェイスブックもツィターもインスタも解らない世代の方がリーダーであってはならないのです。
このままでは「老害」と云われてしまいます。
日本の一部上場企業のトップの平均年齢を知ってますか?
安倍政権の閣僚の平均年齢を知ってますか?
どんなに社会ニーズを汲んで成長してきた企業でも20~25年経過すると、その事業のニーズを見直ししなくてはいけないと と云うことを知っていますか?

あの名監督「黒澤明」(1910年~1998年)の晩年の評価を知っていますか?
どですかでん(1970年60才)、デルス・ウザーラ(1975年65才)あたりで才能を過信して別分野の映画つまづき、 影武者(1980年70才)・乱(1985年75才)で周囲の仲間の助言で元に戻し、少し反省したのに 晩年の作品、夢(1990年80才)・八月の狂詩曲(1991年81才)・まあだだよ(1993年82才)では憐れみを 持って見られたのを本人は知っていたのでしょうか?

猛反発の攻撃を受けました。
老人・高齢者を厄介者扱いする日本社会はおかしい。
この組織は俺たちが苦労してここまで造ってきたのだ、若造に何が解るか。
高齢者のいきがい、仕事を奪うな。
あっそう、では勝手にして下さい。
私は別の方向に行きます。

私は70才でこのボランティア組織を退き、以前から親しかった介護・福祉系の団体のサポートに廻る計画、予定でした。
この団体のホームページ支援が切っ掛けです。
代表者は当初、私のような人が来てくれれば大助かり、会も活性化すると、当時の 事務局長も喜んでいたのですが、最近、事務局長をしている女性に会って聞くと、82才になる代表者は全く退く意思は見せず、生涯現役でありたいと公言して おり、新規会員も少なく、どんどん高齢化が進んでおり、消滅は時間の問題と話てします。

定年後の高齢者シニアの世界では、老害が進み、大きな問題となっているのです。
当事者が気が付かないまま。
団塊世代は静かにフェードアウトし、横から、陰からサポートする立場に代わるのは、時代の流れなんです。



2/16 定年後夫婦の家庭の過ごし方ルール 我が家の場合

夫の定年後は、夫婦間のルール造りのお薦め
スポーツ仲間の女性から、来月、夫が65才で退職するけど・・・と浮かぬ顔をしています。
お宅はどうしている・・?と云うので、退職リタイヤ先輩として我が家の幾つかのルールをアドバイスしました。

1,食事について
・朝食は妻が造る、トースト、野菜サラダ、卵料理、ヨーグルト+果物とコーヒー
・基本的に毎日同じメニュー、起床時間・食べる時間は自由、食器洗いは夫
・昼食は妻は造らない、各々勝手に食べる。外食昼食は500円まで家計費負担。
・夕食は一緒に食べる、食器洗いは二人でする。
2,買い物
重い物、かさばる物は夫の役目、お米、トイレットペーパー、水等
3,掃除・洗濯
バスルーム・トイレは夫の当番、洗濯は妻、洗濯ものの取り込みは夫。
4, 車
駅までの車による送迎はしない、バス、タクシーで行く、自己負担。
5,スケジュール
月曜日~金曜日までの各々二人の予定を共通カレンダーに記入し、二人とも1日中家にいることをなくす。 半日単位でどちらかのスケジュールに合わせて、在宅、外出する。
6,旅行・レジャーなど
基本的に二ケ月に一度、一泊以上の旅行に行く。
7,お金について
・夫退職時に、夫・妻ともに干渉しない小遣い口座を持つ、出来れば100万。
・家計・資産を管理している方は月に一度、現在の内容を解るように公開する。
・毎月、夫・妻共に同額の小遣いを確保する。(現役時の半分 3万程度)
・年間予算に交際費、教養娯楽費を設け、夫・妻ともにこの予算内で融通しあう。
・年間医療費予算を設ける。
・バイト収入は全て、本人のものとする。
8,その他
・退職後、趣味もやりたい事もなく家てブラブラしている夫にたいして、他人と 比較してのアドバイスはしない。
・何時かは自分で動き出すのを待つ。
・数か月は待つ、男は他人と比較されるのを嫌う。
・直接云うのではなく、さりげなく地域の情報などを目につくところに、置く。
退職して15年、我が家は子供がいない家庭なので、づっとこのような生活です。
これが、団塊・お友達夫婦のリタイヤ・年金ライフなのですが、異常でしょうか?
その後、このお友達女性の家庭がどうなったか、まだ御主人が退職されていないので、何も聞いていませんが、 ルール造りの話の持って行き方にも注意が肝心と、付け加えておきました。
スポーツクラブの退職先輩男性のお話って云わない方が良いよ。
何処かの雑誌に書いてあった記事だけど・・・とか云って。
人それぞれだけど、うちも、何か考えようか?とボールを相手に投げる
定年夫はプライドが高いんですから。


2/9 52年ぶりの長崎と、10年ぶりのハウステンボス

冬は何処に行っても寒く、私たちの住む関東・湘南のような青空は望めないので、雪や寒さや冬ならではの行事や 食べ物が目的でない限りあまり、積極的に動かない季節です。
二月になれば所によっては、早咲きの彼岸桜や梅が咲いているので、多少は旅行意欲も誘われるのですが・・・ 昨年の一月は寒さを求めて、星野リゾート青森屋に泊まって、五所川原からの津軽鉄道ストーブ列車に乗りましたが、 この時は生憎、雪もけ嵐もなく、拍子抜けでしたが、宿泊の青森屋のおもてなし、エンターテーメントを楽しみ、 五所川原の立佞武多が見られて満足でした。
では何で今年の冬、一月が長崎なのか?
・・・と云うとお天気に左右されにくい観光目玉があるからです。
自称世界三大夜景?の長崎港と、ハウステンボスのイルミネーションは、大雨・大雪でもない限り、大丈夫そうです。 何時も個人・自由旅行で使う、HQ旅行社のパンフレットに、Aクラス・Sクラスホテルに泊まり、ハウステンボス入場券と 往復航空券の個人向けセットが二人で66,000円と云うのを見つけました。
私たちの国内旅行予算の二泊三日10万に何とか収まりそうです。
しかし、長崎空港と市内往復と、市内・ハウステンボス往復の交通費が意外とかかることが判明しました。 それでも、高級ホテルの2500円もする朝食バのイキングを止めれば、何とかなりそうなので、行くことにしました。
羽田・長崎間は航空機で2時間、空港から市内へは15分置きに、ノンストップ路線バスが走っています。 900円ですが、二人ですと往復割引適用で800円ですし、市内・ハウステンボス間のJRも往復割引ですと、二人で 1,000の割引があり、当初の予算よりも助かりました。

最初の目的の一つ、長崎の夜景は?・・・・・
今回のチケット、自由・個人旅行と云ってもホテルは選べませんでした。
長崎市内は、夜景を稲佐山にあるAランクホテル「ルークプラザホテル」です。
チケットの部屋は山側ですが、一人3,000払えば、夜景のみえる海側になるのですが、二人で6,000円も出してわざわさ 海側にしなくても、敷地ないから見えるハズですから、しませんでした。
これまでの経験から云うと、このようなロケーションのホテルの場合、 例えば「浅草ビューホテル」の場合、スカイツリービュールームは特別高いのですが、裏側のシティビューのお客様用に 一部屋だけスカイツリーが見える部屋を解放しています。
例えば「熱海ニューアカオ」の場合、花火大会の時は、海側のお部屋は値上げしますが、山側のお客様用に、ロビー 最前列に椅子を用意してくれます。
今回の「ルークプラザホテル」はこのような配慮はいっさいなく、寒い駐車場からの撮影、それも生垣が高く撮影の邪魔でした。
港が見える共用部の窓は開かない上に、汚れていました。
その上、中途半端の高さに位置する為に、イメージしていた、煌びやかな夜景ではありませんでした。 やはり、美しい夜景はロープウェーで稲佐山展望台に登ってみることをお勧めします。

※蛇足
今回のホテル&エアーチケットはHQ旅行社のセットチケットです。
当然ながらホテルランクはAクラス・Sクラスですが 旅行社の手配は、相当価格交渉した上のものですから、ホテル側では一番環境の悪い安いを用意しています。
これは、常識ですから仕方有りませんが、当日のフロントでの交渉次第で、お部屋を変えてもらうことはことは可能です。
一番簡単なのは、追加料金を払って部屋のランクを上げれば良いのですが、それは勿体ない。
長崎の「ルークプラザホテル」は最初から山側と承知の上でしたが、ハウステンボスのSランクの日航ホテルの最初に 通された部屋は、ハウステンボスが全く見えない裏側でした。
海外のホテルで案内された部屋に一発で泊まったことのないカミサンは、フロントの女性に、HQ旅行社のセットチケット の範囲内で少しでもハウステンボスが見えるお部屋へのチェンジは可能かと、訊ねた所、上司と相談してみます、と云って 正面ではなく、入口のホテルオークラが見える側に変更してくれました。
とても感じの良いフロントの女性で、お礼にトリップアドバイザーへの書き込みと、私のブログに記事を掲載 すると約束しました。これがお礼の記事です。

思い出さがしの地「長崎26聖人殉教記念碑」
高校2年、17才の時、信州からバックパツク一つ背負って名古屋に出て当時の国鉄が発行していた、九州均一周遊券3,750で西に向かい ました。
夕刻、初めて見る瀬戸内海を左手に見て九州に入りました。
当時、17才の少年には旅館・ホテルと云う選択肢はなく、駅のベンチが寝床としては最高でした。
しかし、3月上旬信州の高校生はすでに春休みに入っているのですが、九州ではまだ三学期のようで、度々警察官・駅員から、尋問が ありました。
長崎駅は最終ターミナル駅の為、列車がなくなると駅は閉められてしまい、3月の長崎の夜、毛布1枚と新聞紙をもって寝る場所 探しの末見つけたのが、この「長崎26聖人殉教記念碑」の裏の風が幾らか少ない所でした。
今でも、初めての野宿怖さ、寒さを思い出します。
52ぶりの長崎26聖人殉教記念碑は移設されたのか、17才の少年が新聞紙を巻き、震えていた場所は特定できませんでした。

長崎市内観光は竜馬の足跡
高校生の頃に一度きたり、その後団体パックで来たりしていますので、ありきたり観光地は出来るだけ避けて、路面電車とバスで重点的に回りました。
一番は、坂本龍馬の足跡を訪ねることでした。
丘・山に囲まれた長崎の丘陵地帯の上のほうに坂本龍馬の足跡が残っています。
初めて会社組織を作った「亀山社中」はかなり細い上り坂を上がったあたりにありました。
観光としていくなら、長崎駅からバス50番「風頭山」終点170円乗車時間25分へ行き、風頭公園方面に行くと、角々に案内板が出ていますので、誰でも 簡単に行けます。
ここから下ると自然に、路面電車「新大工町」に着くので心配いりません。

二度目のハウステンボス
退職した翌年頃、安さに釣られて生まれて初めての団体パックツァーに参加してきたのが、ハウステンボスです。
現在のHIS資本になる前の潰れる寸前のテーマパークで、何もなく、さびれた印象だけが残っていました。
今回は、イルミネーションが目当てです。
HISの努力と国の外国人観光客誘致政策がマッチしたのか、園内はアジア人外国人観光が目立ちます。
しかし、欧米系はほとんどいなく、全てアジア人団体客です。
ディズニーランドのような乗り物系アトラクションはほとんどなく、ITを使った映像系のアトラクションだけで物足りなさは あります。
その分、お土産の買い物や、リーズナブルな飲食店は他のテーマパークよりは充実しています。
さて、では評判のイルミネーションは・・・? シニア夫婦がわざわざ、関東から飛行機に乗って見に来るレベルのものではない、と云うのが私たちの印象でした。


長崎市内観光とハウステンボスイルミネーションは動画として編集UPしています。
ビデオワールド 映像の世界をご覧ください。


2/2 小さなお葬式と家族葬の違い、意外にかかる費用

今回、実兄のお葬式は簡単に済まそう、家族葬にしようと云う次兄の提案はもちろん大歓迎でした。
亡くなった翌日の午後から、お通夜を行い、そのまま引き続き本葬・初七日をその日に済ませ、翌日は荼毘火葬を行いました。 参列者は、姉、次兄とその配偶者と長男、末弟の私の五名と、檀家のお坊さんの六名です。
予定して通りのこじんまりとした、お葬式、家族葬です。・・・・が、後から喪主を務めた次兄から、 亡き長兄のお葬式費用 とこれから発生する費用についての見積書と概算費用について知らされて、少し驚いたのと、 喪主と云う役割の大変さが 解りました。

葬儀社の見積もり

生花祭壇 下の中クラス
お棺
ドライアイス20kg処置料
遺影(カラー)
位牌・骨箱セット
司会・納棺出棺、代行
看板・案内類
寝台車配送料
ご遺体ポリマーシーツ
防臭剤一回分
霊柩車
メモリアルルーム使用料
葬儀・会食会場使用料
小計
お斎料理 六人
お斎返礼品
小計
葬儀社支払い合計
100,000
60,000
14,000
25,000
16,300
31,000
15,000
17,600
10,000
5,000
15,000
40,000
130,000
478,900
62,400
9,280
71,680
\550,580
その他にかかる費用
お坊さんへのお布施 戒名なし 100,000
北信濃は一般家庭では本家からのお寺があり、もっとも多いのは浄土真宗系で、我が家の父が亡くなった時に初めて 我が家のお寺と云う存在を知りました。簡単な身内だけのお葬式でも、お坊さんを呼ばない訳にはいかないようです。
荼毘・火葬料 市営火葬場  15,000

直接的な費用の合計 665,000円です。
もちろん、この他に喪主が気を配り、受け持つ小さな費用は沢山あります。

平成の世の一般的な葬儀費が150~200万と云われていることから、66万は安いと思いますが、私がイメージしていた 家族葬、小さなお葬式とは、かなり違っていました。
家族葬とは参列者が身内だけのことで、あとは日本の葬祭業会のしきたりを踏襲した本格的なお葬式なのです。 家族葬イコール安いお葬式ではないのです。

喪主である次兄は、これから亡くなった長兄のアパートを引き払い、処分し、様々な解約などをしなくてはなりません。 一段落した頃、49日の法要、納骨が待っています。
家のお墓の墓誌に亡くなった兄の名前を刻むだけでも、7,8万掛かりますし、お寺さんへの謝礼、その後のお斎会食費などが かかり、8月の新盆まで出費が続くのです。
それが喪主の宿命なのです。 幸い、亡くなった実兄は少額ながら自分の入院費やお葬式の費用を賄える程度のお金を 残していきましたので、これを充てる予定です。

この話をカミサンにしたら、私たちは葬式はいらない、直接火葬して、散骨で十分と云います。
それにしても、死後の数日で葬儀社の手を借りずに、全て自前で調達・手配・手続きまでやるのは大変です。 今回の兄の葬式で学んだことで、一度葬儀社に行って、詳しい直葬・火葬式について調べてみようと思います。



1/24 末期がんの兄がホスピスで息をひきとりました

昨年5月に盲腸がんが発見された時、すでにステージ4で手術不可能、余命半年と宣告された兄が昨日、朝、静かに 息をひきとり、逝きました。72才。
1月10日に本格的に入院してからちょうど二週間です。
長兄は双子兄弟です。
双子の次兄が全ての手続きを進めて、今日が葬儀で、これから信州に向かいます。

同じ日、同じ時間、同じ母親から生まれた双子の兄は全く違った人生を歩んできました。
昭和20年、終戦の一か月前、戦地で肋膜炎を患い内地に返されていた父親と、女工として関西の繊維工場で 働いていた二人の貧しい信州生まれの夫婦の初めての男の子です。
前年に長女が誕生していたのですから、二年間で三人の 赤子を終戦を挟んで、育ちあげなければならなかった、両親の苦労は、現代の夫婦には想像できないでしょう。

同じ双子ですが、亡くなった長兄と、介護を担い、葬儀を取り仕切る次兄は全く違う人生を歩んできました。 亡くなった長兄は勉強もそこそこに出来、友達も多く、学校ではクラス委員を務める人気者でした。
一方の次兄は、何も目立つことなく、クラスでも存在を忘れられるような大人しい子供でした。
この二人の人生の分岐点を子供ながら、三歳はなれた弟の私は、目撃しています。

昭和30年代、高度成長前、我が家は極端に貧乏でした。
父親は私が小学校に上がる年、肋膜炎から肺結核になり、郊外の隔離療養所に入り、出てきたのは、私が中学校にはいる年 ですから、丸6年、母は父がやっていた小さな青果店を、子供4人抱えて、一人で頑張っていました。
今でも鮮明に覚えているのは、親切なオバサンが毎日やってきて「けして恥でないから」と云う言葉が聞こえたのを覚えています。
今、考えれば民生委員の方だったのでしょう。
その当時のことを後から母に聞くと、「生活保護を受けると、学校の給食費を 払わなくなるけど、クラスに知れて、お前たちが可哀そうと、思った。」と云ってました。
当時の日本はみんな貧しかったのですが、とりわけ我が家は貧しかったのです。

そんな家庭ですから、双子の二人の兄たちには、高校進学と云う道は考えられませんでした。
※一方の姉は、小学校・中学と学年首席で通し、母は親戚の反対を押し切って県下No,1の高校に進学させました。
当時、(今でもありますが)大企業の企業内学校制度というものがありました。
自社内に技術訓練学校のようなものを造り、自前の優秀な熟練工を育てるのが目的の学校です。
若干大人しく目立たない次兄は、市内大手の無線機器メーカーを受験し、合格しました。
成績の良い長兄は、名古屋本社の電力会社の学校を受験しましたが、受からず、一人部屋の隅でふとんのなかで泣いていたのを 当時の私は覚えています。
その後、定時制工業高校に入り、昼は鋳物工場で働いていました。
今、思い返すに、16才の少年が大人に交じってするには辛い仕事だったろうと思います。

次兄は何の不満も、野心もなく、たんたんと企業内学校に通い卒業し、地元で結婚、二人の子供をもうけ、 親の家を引き継ぎ、両親二人を送り、定年に至っています。
長兄は定時制工業高校を卒業後、東京の大手メーカーを数社受験し、失敗。
神奈川の大手下請け工場に就職したものの、2年で辞め、 その後、何度も転職を繰り返してきました。 そんな様子を不安に感じた母親は、この長兄が39才の時、神奈川の大和市から信州に引き上げさせました。
母は上京し、アパートを清掃し、片付け、大家さんにご挨拶をしていったそうです。
この時、長兄は兄の友人と二人で、購入したばかりの私のマンションに来ました。
当時神奈川県でファミリータイプマンションとしては平均価格帯が高い 駅前マンションでした。
兄は友人に向かい、「こういう生活もあるのだな」としみじみ言うのを覚えています、 兄とこの友人は、労働組合活動に熱心で、職場を辞めては沖縄基地闘争や原子力空母反対デモに生き甲斐を見出していた仲間だったのです。

40前に母親に引き取られて、生まれ故郷に越してからの長兄がどんな暮らしをしていたのか、本当の所良く知りません。
次兄の話では、何度も職を変え、パチンコ店に通い、アパート代が払えなくなると、母親が払っていたり、 父が亡くなってからは、母が自分の通帳を 渡していたとの話でした。
そして、60才を過ぎて、何処も雇ってくれない年齢になると、国民年金とほんの少しの昔の厚生年金の受給額を聞き、 「アパート代を払ったら喰っていけない、」とこぼしていたそうです。
若い頃から定年後の人生について考え続けて来た私流に云えば、リセットして田舎に帰った40から70になるまで、 一体何をしていたの?まるでフーテンの寅さんじゃないか、と。
勿論、長兄には云いませんでしたが、母親以外は誰もがそう思っていました。

兄の最後は、立ち会った次兄から電話で聞きました。
直接の死因病名は多臓器不全、もうボロボロだったのでしょう。
でも人生の最後を過ごしたホスピスは、亡くなった兄の髭をそり、髪をすき、 顔にはクリームを塗り、姉によると、これまでに見たことのない爽やかなお顔だったと云っています。
そして、ホスピス内の教会では、お別れミサが行われ、空いている看護婦さん、 の皆様が見送ってくれたそうです。
いい病院だ、近かったら私もこのホスピスで逝きたい、と本気で思います。

今日、信州で行われるお葬式、通夜は家族葬です。
出席者は、姉・兄・私と次兄の伴侶と長男の5人です。
私のカミサンは、北関東の実家で母親の子守中で、出席出来ません。
しんみりと兄弟で兄の思い出話をしようと思います。



1/19 モノの豊かさの70年 モノに代る夢模様

最近の若い人たちの消費行動は私たちの若い頃と様変わりしていると云う報道を聞きます。
私たち団塊世代の20代の頃は 車が欲しい、海外へ出てみたい、恋人が欲しい、金持ちになりたい・・夢や希望が沢山ありました。
この頃を思い起こすと、老後の生活、年金のことなぞ考えたことは有りませんでした。
しかし今の時代、車は売れない・興味はない。
海外なんて面倒くさい、行きたくない。
老後の貰えるかどうか解らない 年金のことを考えると、しっかりと貯金しなくては・・・、全ての若者がそうであるとは言えないでしょうが、確実に 時代と共に、豊かさに対する考え方が変わってきているのは、実感しています。

そこに、タカラトミーの「人生ゲーム」のあがり設定が、億万長者になることであったが、 「人生の成功の形が一つではなく、多様な時代になっている」を事を受け、設定を変更する 動きが広がっている。
との報道がありました。

  • 1945 終戦
  •   48 戦後ベビーブーム
  •   55 トヨペットクラウン発売
  •   56 まはや戦後ではない
  •   64 東京オリンピック
  •   66 サニー、カローラ発売「マイカー元年」
  •   67 森永チョコCM「大きいことはむよいことだ」
  •   68 西ドイツを抜いてGNP世界第二位に
  •   70 大阪万国博覧会
  •   71 多摩ニュータウン入居開始
  •   72 スカイラインCM「ケンとメリー」
  •   73 第一次オイルショック
  •   79 SONY ウォークマン発売
  •   83 ファミリーコンピータ
  •   88 西武百貨店広告「ほしいものがほしいわ」
  •   89 日経平均株価最高値
  • 2008 日本の総人口がピーク
  •   10 中国に抜かれGDP世界3位に
  •   15 ミニマムリストブーム
この年表を見て、あの時代、あの頃を思い出しています。


そしてミニマリストと云う言葉が使われる時代に
持ち物をできるだけ減らし、必要最小限の物だけで暮らす人。
自分にとって本当に必要な物だけを持つこと でかえって豊かに生きられるという考え方で、大量生産・大量消費の現代社会において、 新しく生まれたライフスタイルである。
「最小限の」という意味のミニマル(minimal)から派生した造語。
物を持たずに暮らす人の意味では、2010年前後から海外で使われるようになり、その後日本でも広まった と見られる。
何を持ち何を持たないかは人それぞれだが、少ない服を制服のように着回したり、 一つの物を様々な用途に使ったりするほか、誰かと共有したり借りたりすることで、自分が所有する物を 厳選している点が共通している。
少ない物で豊かに暮らすという考え方自体は、環境問題の深刻化などを背景に以前からあった。
近年は、物だけでなく多くの情報が流通する中で、たくさんの物を手に入れても満たされなかったり、 多くの物に埋もれて必要な物が見えなくなったりして生きづらさを感じる人たちが増え、自分にとって本当に 大事な物を見極めて必要な物だけを取り込むことで楽に生きたいと共感が広がっているようだ。
必要な物だけ を持つミニマリストの思想は、10年頃から流行した整理法「断捨離(だんしゃり)」などにも通じる考え方と 言える。
(原田英美 ライター/2015年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」

私たち団塊世代も古稀を目前にして、豊かさに対する考え方が変わって来ています。
同じ団塊世代の作家「弘兼憲史」は
・持ち物を半分にしよう。
・家族はひとつと云う幻想を捨てる
・名刺、スーツ、プライドを捨てる
・子供や孫にお金は残さない。
と書いています。

同じ世代に生きるものとして、共感できますが、果たして若者はどう考えるのでしょうか?
功・財なした、勝ち逃げ世代の戯言と思うかもしれません。

でも、子供のいない私たち夫婦は、 10年先のこと(断捨離・終活)を着実に実行しなくてはいけない年齢になって来ている のを実感している、最後の60代の年です。



1/12 今年は古稀を迎える、すてきな「終わった人」になりたい


朝日新聞「Reライフ」に作家の内館牧子氏の談話が掲載されていました。

彼女が私と同じ69才と初めて知りました。

大相撲横綱審議会委員などをして、ズバズバと本音でトークする姿・印象から私よりずっと年上と思っていました。
タイトルの「終わった人」と云う言葉は、定年後の世代を傷つけ易い言葉だと思うのですが、記事を読んでみると、 現在ベストセラーとか?
エリート銀行員の定年後とその妻を描いた内館牧子氏の小説の名で今年映画化され6月公開されるそう・・・ と、何か朝日新聞の宣伝の影が見え隠れしているのですが・・・ともかく「終わった人」と云う言葉の使い方のようです。

彼女が執筆を始めたのが65才。きっかけは同窓会。
60才を過ぎると急にそういう場が増えます。
そこで彼女は気づいたことを書いています。
一流大学を出た人も、中卒で働いてきた人も、着地は横一線なんだと。

六十代は「空腹の世代」とも云えます。
多くの場合、男女ともまだ体も頭も動く、まだやれるのに社会が認めてくれない、満たされない。 七十代以上は、終った今「成仏」出来るか?考えてみることした。
一番まずいのは、終っているのに「終わっていない」と思っていること。
私たちはこれまで、自分よりも年上の人たちを凌駕して第一線に出てきました。
今度は凌駕される番。
まだ若いものに負けたくない、と思っても、世代交代の順番なのです。

本の紹介は

定年って生前葬だな。
衝撃的なこの一文から本書は始まる。
大手銀行の出世コースから子会社に出向させられ、そのまま定年を迎えた主人公・田代壮介。
仕事一筋だった彼は途方に暮れる。
年下でまだ仕事をしている妻は旅行などにも乗り気ではない。
図書館通いやジムで体を鍛えることは、いかにも年寄りじみていて抵抗がある。
どんな仕事でもいいから働きたいと職探しをしてみると、高学歴や立派な職歴がかえって邪魔をしてうまくいかない。
妻や娘は「恋でもしたら」などとけしかけるが、気になる女性がいたところで、そう思い通りになるものでもない。
これからどうする? 惑い、あがき続ける田代に安息の時は訪れるのか? ある人物との出会いが、彼の運命の歯車を回す──。
シニア世代の今日的問題であり、現役世代にとっても将来避けられない普遍的テーマを描いた話題沸騰必至の問題作。
この本へのコメントは様々です。

◆立場が変われば「後ろつかえてんだから、居座んないでよッ」
◆「どんな人にも(職業的)終わりは来る」「途中がどうあれ、終わってみれば人間大差ない」「(輝かしかった時の)思い出と戦っても勝てない」
◆アンチエイジングよりは年相応がいいな、と無理をしている人を見るたびに思う。
◆主人公は東大法科出のエリート銀行マンが出世競争の最終段階で敗れ、出向した子会社で63歳、 役員定年を迎えた。 お話としては読みやすく面白かった。けど、余裕のある人の悩みかなと思った。年金500万貰えて、貯金もあるなんて

今年、古稀を迎える私は、同じ世代の地域のリーダーに向けて、世代交代を訴え続けて来ていますが、 「何を云うか!人生80才90才時代、俺たちがやらずして、誰がやるか、誰が出来るか」と反発を喰っています。
「綺麗に枯れていく」なんてしたくない。
他人から見てみっともない、と思われようが、今の毎日の仕事、小遣い稼ぎ、生き甲斐 にしがみ付く70代はますます増えて行くのが、私の周りの現状です。
まだ私は辛うじて、60代、今年古稀の70才を迎えた時、「終わった人」をどう演じていくか、まだ分りません。


1/5 平成30年の年賀状、何時やめようか


明けましておめでとうございます。
年賀状の数が毎年減っているのは、日本郵便の「嵐」を使ったテレビCMでも解ります。
スマホ、PC時代にわざわざ高いハガキ・切手を買って、印刷し、ポストに投函する手間、面倒をさける傾向はあります。
しかし、かと云って、年賀の挨拶がゼロでよいかと云うとそれは違い、私たちシニア世代でなくても、みんな、特に若い世代 ほど誰かと繋がっていたい、と考え年明け0時の「あけおめメール」が流行るのですし、SNS・LINEをするのもそうです。

退職して、年々齢をとっていき、毎年の年賀状は歯が抜けるように少なくなっていきます。
年々喪中はがきが増えていき、翌年には出さなくなり、来なくなります。
退職シニアにとって、恐れるのは元会社もそうですが、世間とのつながりを失うことです。
別に、年賀状が来なくても、メール・携帯或いは、年数度の会合でも繋がっているハズなのでが・・・

私は退職するまでは・・・・ 現役時代、年賀状なるものは書いたことが有りませんでした。
そもそも、新居のローンを完済した35才から退職した55才まで20年間、お正月を日本で過ごしたことは有りませんでした。
紅白歌合戦も箱根駅伝も見たことがありませんでした。
お正月は毎年、海外にいました。
パタゴニア氷河であったり、ギアナ高地、イランのペルセポリスであったり、ラオスの少数民族の村であったりしていました。
そこで、年賀状代わりに、旅のお便りとして親しい友人・旅の仲間に出していました。

そして退職してからは・・・・ 退職後は、自由な時間が出来ましたので、わざわざ、航空券の高い時期には旅に出ずにお正月を日本で過ごすようになり、 早期退職のシニアの生活リポートとして、主に、現役時代に仕事でお世話になりました方々に出すようになりました。
一つは、世間一般並みに、退職しても世間と繋がっていたい、という願望があったのは間違いありません。

そんな頃、20年間づっと年賀状の交換をしていた、旅の友人から「70才を機会に、年賀状を止める」というお葉書をいただいた 事があります。
私はまだ還暦を迎える前の頃でした。
「そうか、そういう考えもあるのだな」と思ったのを、今でも覚えており、自分も70才・古稀を迎えたらそうするかもと考えて ました。
あれから10年、今年69才、来年はその古稀を迎えます。

今年は最後の年賀状になるかも知れません。 この14年間の年賀状原稿は全てDATAとして保存しています。
私は、自称「Webデザイナー」でもあり、グラフィック系のスキルもありますので、一般的な年賀状サンプルを使うのに抵抗が あり、数か月前から年賀状デサイン・文章の構成を考えてやってきました。
そして、年賀状は出来る限り早期退職者の近況レポートとなるような構成を考えてきています。
もしかすると今年は最後の年賀状になるかも知れないので、どうしよう、と今思案中です。
デザインもそうですが、誰に出すか? 少なくとも退職直後に出していた100通の半分50通ぐらいになるのは確かでしよう。

今年だした年賀状は40葉、いただきましたのは32葉 1月4日現在、いただきましたのは32葉です。退職当時の1/3です。
仕事関係はほぼ無くなり、鎌倉での団体、趣味関係も徐々に少なくなり、退職当時と変わらないのが、昔の 旅先で知り合った、まだ世界中を旅している知り合い達です。
私が現役時代に旅した場所や退職後にやっといけた秘境からの旅の報告が目立ちます。この皆さんは私よりも かなり若い方々が多く、私が今年の年賀状で書いたように来年の年賀状を出さなくても、かなりの多くの人が、 世界の秘境からの旅の報告をしてくるでしよう。
私も、それを楽しみな待っています。


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