東人の出戻り浜生活関東の四国

関東の四国


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楠公銅像

   東京の皇居前にある楠正成(楠公)の銅像は別子銅山開坑200年を記念して作られた、別子の銅100%で作られた銅像である。
 
 新居浜に住んでいた2000年の年末に関東に帰省し、娘を連れて東京タワーに行った。その後にタクシーに乗って「楠正成の銅像まで」と告げたが、運転手は、最初は何処にあるかわからなかったようだ。地図を調べたりしながら、銅像の近くまで運んでくれた。
 タクシー運転手は、運転手をして7年になるが、楠正成の銅像に行くという客は始めてだと言った。
 
 確かに最近は話題になることの少ない銅像であるが、東京芸術大学の前身である東京美術大学による明治初期における西洋近代彫刻への挑戦であり、当時の最高の技術を結集した美術品であった。
 
  
 
 明治23年(1890)5月、別子は開坑200年を迎えた。
 前年住友家は広瀬宰平が中心となって、この報恩を末永く後世に伝えるため、宮内省へ楠正成銅像の献納を内願し、内諾を得ていた。
 
 同24年4月住友家は東京美術大学(現、東京芸術大学)へ楠正成銅像の製作を依頼した。
 同月27日、同校長岡倉天心(覚三)は、高村光雲(幸吉)を製作主任に、山田鬼斎(常吉)・後藤貞行・石川光明を製作担当に任じ、26年3月原型木彫が完成した。
 同月21日には、明治天皇の天覧を賜っている。
 同年10月9日、住友家は楠正成銅像の献納を宮内省に正式出願、11月1日に許可を得た。
 
 同29年に東京美術大学教授岡崎雪聲によって銅像の鋳造を完成し、同33年7月14日、皇居前広場の台座完成を機に鎮座、今日に至っている。
 
 

 楠公銅像の制作者
高村光雲
(1852〜1934)
 江戸浅草出身の彫刻家。
 文久3年(1863)、高村東雲の門に入って木彫を学び、後に師の姉の家を継いで高村姓となる。明治22年(1889)、東京美術学校木彫科の教師となり、翌年は帝室技藝員となり、東京美術学校教授となった。明治初期の木彫界衰退期に西洋画の写実を参考とした写生を取り入れ新風をまきおこし、近代木彫の発展に大きな業績を残した。
 楠公銅像製作では製作主任となり、主に頭部を担当した。
後藤貞行
(1849〜1903)
 和歌山県出身の彫刻家。
 和歌山藩士の家に生まれ、慶應2年(1866)、藩命によって騎馬術を学び、藩の騎兵となった。この期間に、図画及び画学・洋画・馬匹解剖学・種馬の研究による馬の外貌及び相馬学などを学んだ。理想的な馬を形象に留めるため、鋳造原型を学んだが吹き損じて形が失われてしまったので、木彫を始めた。この修行中に高村光雲と出合い、これが機会となって楠公の製作に携わった。
 楠公銅像製作では、馬の部分を担当し、製作途中事故により片目を失いつつも完成させた。
山田鬼斎
(186〜1901)
 福井県坂井港出身の彫刻家。
 代々仏師の家に生まれ、父に随って仏像彫刻を学んだ。その後、奈良で古い彫刻について研究し、明治29年(1896)東京美術学校教授となった。
 楠公銅像製作では、甲冑その他身体部分を担当した。
 石川光明
(1852〜1913)
 東京浅草出身の彫刻家。
 狩野素川に就いて絵画を学ぶ傍ら父祖の業を継ぎ木彫を学んだ。更に菊川正光の門に入り牙角彫刻を習う。
 明治24年(1891)、東京美術学校教授となった。
 楠公銅像製作では、山田鬼斎を助け甲冑その他身体部分を担当した。
 岡崎雪聲
(1851〜1932)
 京都府伏見出身の彫刻家。父は定甫と号する釜師であった。
 その業を学んだ後、上京して鋳工を学んだ。関西古寺院の仏像について調査研究し、東京美術学校が楠公銅像製作に着手した明治23年(1890)に後藤貞行と前後して同校に入り、29年に教授となった。
 楠公銅像製作では、鋳造を担当した。
 皇居前には、楠公の銅像以外に、軍神像が皇居の周りに配置されていたそうであるが、終戦後、GHQによりそれらの軍神は撤去された。
 楠公の銅像についてはGHQも手をつけず今に伝えられている。
  
 同時期に、高村光雲により広瀬宰平像も作製され、新居浜の広瀬邸に設置されていたが、戦時中に供出されて台座のみが残っていた。
 東京芸術大学に広瀬宰平像の木型は残っていたが、2003年に広瀬宰平の銅像が復元された。
 復元にあたっては、東京芸術大学の美術学部スタッフにより当時の鋳造技法などが忠実に再現された。
 復元された広瀬宰平像は、新居浜の広瀬歴史記念館の前に設置されている。


からみ煉瓦

 東京の新橋住友ビルの前に敷かれているのが、からみ煉瓦である。。
 「からみ」とは、銅の精錬で発生する副産物で、この「からみ」で作ったものが「からみ煉瓦」と言われる。

からみれんがについて
 新橋住友ビル

 
 この付近の敷石は、”からみれんが”といわれ、銅の溶鉱炉で分離される鉱滓でできています。
 
 通常、からみは熔湯のまま水流で細かく砕き、ブラスト用研磨材やセメント原料として利用されていますが、このれんがは、四阪島銅製錬所(愛媛県・明治38年操業開始)で特に自家用に鋳造し、同所の道や構築物に使っていたものです。
 
 重さは1個約60kgと重く、主な成分は鉄が40〜50%、珪酸が30〜40%程度です。
 
「からみ」は銅精錬の副産物というより廃棄物として捨てられていたこともあった。
 溶鉱炉から出る液状のカラミをそのまま捨てるのに使用されていた特殊な電車(カラミ電車)が、新居浜の愛媛県総合科学博物館の屋外に展示されている。