東人の出戻り浜生活諸国点描大阪大阪城


大阪城


   大阪歴史博物館から、大阪城が見渡せる。
 背後に高層ビルが建ち並んでいるが、広大な城跡である。
 
 大阪城は豊臣秀吉が建てたものとして知られているが、当時の大阪城はこれよりも大きな城であったらしい。
 秀吉の大阪城は元和元年(1615)の大阪夏の陣で焼失し、徳川幕府により石垣まで埋め尽くされてしまった。
 
 その後、元和6年(1620)に二代将軍の徳川秀忠により大阪城が再建された。
 秀吉の大阪城の天守閣は現在より北東に位置していたと考えられているが、その精確な位置は不明とのこと。
 
 徳川秀忠の大阪城も後に落雷により焼失し、昭和6年(1931)に現在の大阪城が再建されたが、徳川時代の天守台に秀吉の建てた大阪城を再現したものだという。


大手門 
大手門桝形の巨石 
千貫櫓
石山本願寺推定地
桜門
銀明水井戸の井筒
天守閣
残念石
封印石広場
豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地
極楽橋
青屋門
大阪に戻る
  

重要文化財 大手門
 

 城の入口は表側を大手門、裏側を搦手口という。
 大阪城には大手口に大手門(幕末まで追手門とも称した)
 搦手口は東に玉造門、西北に京橋門、北に青屋門を備えていた。
 創建は元和6年(1620年)で天明3年(1783年)に落雷によって破損し、現在のものは嘉永元年(1848年)に大掛りな補修をしたものである。
 門を入った溜まり場を枡形という。
 
 ■構造形式/ 高麗門、本瓦葺、柱真々5.26m
 ■昭和42年解体修理 
 
→戻る
  

大手門桝形の巨石
 

 大手門枡形は、大阪城の正門の防御施設として、特に立派な石垣で築かれている。
 大手門正面の見付石は表面積29畳敷(48m2)、推定重量108tもあり城内第4位の巨石である。また、左手の巨石はおよそ23畳敷(38m2)、85tで第5位にあたる。これらの巨石はいずれも、豊臣時代のものではなく、徳川時代の大阪城再築の時に、瀬戸内海の島々から運ばれてきたものである。担当大名は、最初は熊本藩主加藤忠広でのちに久留米藩主有馬豊氏が築き直した。 
 
→戻る
  

 千貫櫓(奥)と多聞櫓(手前)

重要文化財 千貫櫓
 

 大阪城の大手口を守る重要な隅櫓の一つで、元和6年(1620年)に創建されたもので、昭和36年(1961年)の解体修理の際、土台の木材から「元和六年九月十三日御柱立つ」の墨書が見つかり、この建物の棟上げ式の日がはっきりした。
 現存の城内古建築物の中で乾櫓とともに最も古いものである。
 名称の由来については織田信長軍の石山本願寺攻めの時、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、あの櫓さえ落とせるなら銭千貫文与えても惜しくはないと話し合ったというエピソードが伝えられている。
 
 ■構造形式/二重二階本瓦葺
 ■面積/一階 199m2 二階 143.32m2 延 342.32m2
 ■昭和36年解体修理
 
→戻る
  

石山本願寺推定地

 
 明応5年(1498)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大阪に大阪坊舎を建立した
 これは現在のところ「大阪」の地名が史料上に現れる初例である。
 「天文日記」によると大阪坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。
 その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大阪の重要性が増すとともに、天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き討ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
 石山本願寺周辺は、山科と同様な広大な寺内街が造営された。この造営が現在の大阪の町並の原形となったと考えられる。
 その後十一世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鶯森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。
 一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大阪城が建設される。この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。さらに大阪夏の陣ののち徳川大阪城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。
 このような状況のため、石山本願寺跡の精確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。  
大阪市教育委員会
 
→戻る
  

重要文化財 桜門
 

 豊臣時代にも本丸の正門は桜門と呼ばれていた。桜の馬場という地名も知られている。
 おそらく、この付近に桜の並木があったと思われる。
 桜門は、徳川時代の本丸再築の寛永3年(1626年)に築かれたが、明治維新の城中大火(1868年)で焼失した。現在のものはその後明治20年(1887年)に再築されたものである。
 なお、門の両側の塀は明治維新のとき焼失したままになっていたものを、昭和44年(1969年)の桜門修理の際、復元されたものである。
 
 ■構造形式/高麗門本瓦葺 柱真々5.15m
 ■昭和44年解体修理
 
→戻る
  

銀明水井戸の井筒
 

 この井筒は、現在の市立博物館裏北隅にあたる、本丸御殿下台所裏にあった銀明水井戸の井筒を昭和6年(1931年)の天守閣再建にあたって、敷石とともにそのままこの地に移して飲料水井筒としたもので、水は水道水を使用している。
 名前の由来ははっきりしないが、本丸内の金明水に対してこの名がつけられたものと推定されている。
 
→戻る