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大阪城(2)


天守閣
 

 現在の天守閣は、昭和6年(1931年)に大阪市民多数の浄財をもとに、「大阪夏の陣図屏風」の豊臣時代天守閣図をモデルに、鉄筋コンクリート造りで復興されたもので、わが国の天守閣復興の第1号である。
 最初の大阪城天守閣は、天正11年(1583年)に豊臣秀吉によって創建されたが、大阪夏の陣(1615年)で焼失した。二代目は寛永3年(1626年)に徳川幕府によって現在の天守台の位置に築かれた。しかしこれも寛文5年(1665年)に落雷で焼失し、その後長らく大阪城には天守閣がなかった。
 現在のものは史上三代目にあたるものである。
 
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「残念石」
両横に鎮座している
 この石は元和6年(1620年)から始まる大阪城修復の時 天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石としての念願かなわず、いまなお数多く残されていることから「残念石」と呼ばれいる。
 この大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さな石は豊前細川忠興の手になるものである。
 これらの石を、小豆島青年会議所が創立十周年記念事業として、「島は一つ」の社会活動の実践に、大阪青年会議所は商都大阪の復権を願い、「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共同事業として当時を再現し、小豆島頼子の地に運び据えたものである。
 昭和56年7月19日
(社)大阪青年会議所 (社)小豆島青年会議所
 
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封印石広場  
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豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地  
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極楽橋
 

 山里丸と二の丸をむすぶ橋で、もとは幅3mの木造橋であった。
 徳川時代の嘉永3年(1626年)に創建されたが、明治維新の城中大火(1868年)の祭焼け落ち、そのままになっていた。
 その後昭和40年(1965年)に鉄筋コンクリート造りで復興された。
 この橋の名称の由来は、大阪本願寺時代(16世紀)にまでさかのぼると推定されており、「豊臣時代大阪城本丸図」にもこのあたりに木造橋が描かれている。
 昭和58年(1983年)、橋の高欄と橋面修理が行われた。
 
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青屋門
 

 大阪城の非常口とも言うべき門で、徳川時代の元和6年(1620年)頃創建され、算盤橋と称する引橋(押出し、引入れ自在の装置)が架かっていた。
 この門は、昭和20年(1945年)8月に大空襲の被害にあい大破したが、昭和45年(1970年)に大阪市が残材をもって現状のものに復元した。
 青屋門の名称の由来は大阪本願寺時代、この門外付近に青屋町があったことによるものと推定されている。
 
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