東人の出戻り浜生活諸国点描鹿児島沖永良部島

沖永良部島とは?

 
 沖永良部島に出張することになった。最初は、どこにあるのか、どうやって行くのか、分からなかった。
 鹿児島県とは言うものの、与論島の次に沖縄に近い島であった。
 羽田空港からは直通では行けない。鹿児島空港でプロペラ機に乗り換えて、沖永良部島に向かった。
 飛行機は、奄美諸島の上空を通り、窓からの景色はきれいであった。
 
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沖永良部空港

   
 沖永良部空港に到着した。
 予想通りの小さい空港であった。
 誘導路は無く、着陸した飛行機は滑走路の先端でUターンして、滑走路を戻って空港ターミナルに移動して、停止した。
 当然、飛行機から降りたら、空港ターミナルまでは歩いて行った。
 ここまでは、地方空港でよく見られるものである。

 違っていたのは、預けた荷物を受け取る場所には、回転台が無かったこと。
 降ろされた荷物は固定された台に載せられ、そこから自分の荷物を受け取った。
 
 鹿児島からの飛行機は、ボンバルディアQ400で、標準で74座席の飛行機であった。
 沖縄からも飛行機は出ているが、セスナ機らしい。
 
 ホテルからの迎えの車で、宿に向かった。
 小さい島であるが、ホテルまでの道程は長く感じた。

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赤土

   
 沖永良部島も、沖縄と同じような赤土であった。
 沖縄では、珊瑚に被害を与えるとして、赤土を流出させないように条例で規制されている。
 
 この赤土は、富士山の火山灰と言われる関東ローム層に似ている。
 沖縄や沖永良部島の赤土も火山灰が積もったものであろう。

 しかし、沖永良部島や沖縄本島は珊瑚礁が隆起した島で、火山は無いという。
 
 どこの火山灰なのだろうか?
 遠方の火山灰が積もったものであるなら、この地域の海にも火山灰は降り注ぎ、珊瑚も赤土に埋まっていたであろう。
 
 赤土の起源について、現地の人に聞いても明快な回答は得られなかった。

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発電所


 
 変わった形の煙突が見えて気になった。
 これは発電所の煙突であると聞いた。
 
 沖永良部島では、エンジンで発電機を回して電力を供給しているとのこと。
 発電所には重油のタンクがあり、重油が燃料になっているようだ。
 
 ここも九州電力の発電所であり、鹿児島辺りから重油を運んできて発電しているとのことで、他の地域より発電コストは10倍位かかっているらしい。
 
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電力事業発祥の地

   
 沖永良部島の知名町の街中に、小さな公園があり、この碑が建っていた。
 かつて、ここに発電所があったらしい。

知名町での電力事業発祥の地

 沖永良部島では昭和2年に沖永良部電気(株)(初代社長=吉川前友氏)の設立と同時に発電所の建設(現在の古里)を進め、昭和4年11月に初めて「電灯の光」を見ることができました。昭和7年には知名村営となり、原田孝次郎氏が責任者となるとともに、昭和10年に発電所をこの地に移転し、以来平成10年まで沖永良部全島に電力を供給してきました。
 その間、経営は九州配電(株)、大島電力(株)、九州電力(株)へと引き継がれ、発電能力も年々増強されて島内全域並びに24時間送電(昭和41年)することとなりました。 平成10年に知名周辺の都市計画・街路事業の着工に伴い、当地の発電所も移転・解体することとなり、昭和52年から稼働していた新知名発電所に平成11年、全面移転することとなりました。
 この記念碑は、吉川前友氏や原田孝次郎氏をはじめ多くの先人達の偉業を称え、今日の本町発展の礎を築かれた御遺徳を後世に伝えるとともに、町制60周年の記念すべき年に街路「大山通線」の竣工を記念いたし、電力事業発祥の地としてこの地に建立いたしました。
 平成18年10月 吉日
知名町長 平安正盛
 

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 沖永良部島でこんな建築物を見かけた。
 東屋のように見えるが、屋根の部分が大きすぎる。
 
 これが沖永良部島の倉だと聞いた。
 高床式の倉ということだろうが、容れられるものは少なそうである。
 
 この地域独特の形式の倉ということだろう。
 

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屋子母海岸

   
 訪問先にて、昼食に案内されたのが、屋子母海岸にある民宿であった。
 
 珊瑚で囲まれた、美しい海であった。
 
 

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お墓

   
 沖永良部島でお墓を見かけた。
 
 形は少し異なるが、沖縄の墓のように、大きなものが多い。
 
 

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