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仙巌園

   
 島津家の別邸跡を中心とした庭園で、19代島津光久が万治元年(1658)に別邸を構えたのが始まり。
 桜島を築山とし銀江湾を池に見立てた借景庭園であり,中国龍虎山の仙巌に因んで「仙巌園」と名付けられた。また、海の近くであることから「磯庭園」、「磯公園」とも言われている。
 
 幕末には28代当主・島津斉彬がこの敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を造るなどの近代化事業(集成館事業)を起こした。
 安政4年(1857)日本で初めてガス灯が点灯した場所とのこと。
 園内には反射炉跡、発電所跡、等の史跡が保存されている。
 また、隣接した所には尚古集成館があり、島津家伝来の史料等が展示されている。

   
 仙巌園の入口の近くに反射炉跡があり、その前に大砲が置かれていた。
 この大砲は模型とのことであった。
 

 仙巌園を管理している島津興業では反射炉で作られた大砲を復元し、2006年6月2日から公開されているという。
 復元された大砲は、150ポンド砲という150ポンド(70kg)の砲弾を発射するもので、口径28cm、全長4.56m、射程距離は3kmであったという。
 1863年の薩英戦争で英国艦隊7隻を砲撃して、2隻に損害を与えた大砲とのこと。
 


反射炉跡

反射炉の建造と集成館

 
 アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたという情報は島津斉彬に大きな衝撃を与えました。
 嘉永4年(1851)、薩摩藩主となった斉彬は、日本が西欧諸国の植民地にされるのではないかという危機感を抱き、海洋に多くの領地を有する薩摩藩こそ、「大砲と船」に象徴される軍備の近代化と産業育成に力を注ぐべきだと考えました。、
 反射炉は鉄製の大砲を鋳造するために築かれたもので、嘉永5年に着工し、安政3年(1856)ようやく鉄製砲の鋳造に成功しました。また反射炉を中心に溶鉱炉やガラス工場など様々な工場が整備され、これらの工場群は「集成館」と命名されました。
 生麦事件に端を発した文久3年(1863)の薩英戦争では、イギリス艦隊7艘を相手に、ここで造られた大砲が大活躍しましたが、その後解体され、現在は基礎部分だけがのこされています。
 

大砲を造った反射炉

 反射炉は、火床(ロストル)で燃料(石炭または木炭)を燃やし、その熱を壁に反射させ炉床の銑鉄を溶かす施設です。日本では主に大砲鋳造のために築かれました。
 現在残されている遺構は、安政4年(1857)5月に完成した2基目の反射炉の基礎部分であると考えられ、2炉を備えていました。数万個の耐火レンガを使った炉の重量に耐えるため頑丈な石組がなされています。また、湿気があると炉の温度が上昇しないため、炉全体にすのこ状の石組を設けて空気層をつくり、炉の周囲には地下水を断ち切るための溝が掘られていました。

 
炉の構造

 炉は内部が耐火レンガのアーチ積みとなっていました。
 炉内は、左側が出湯口側で、溶けた銑鉄が流れ出るところ、右側が燃料を置くところです。
 炉床の下には通気用の炉下空間(空気層)があり、また炉床はレンガの段敷によって勾配をとっていました。
 
 

御殿

 磯の御殿は、万治元年(1658)、19台島津光久が御仮屋を建てたのが始まりとされています。その後、屋敷の南側に一亭を構え、落成の日に鶴が亭前に舞い降りたことから、喜鶴亭と名付けられました。以後、この御殿は島津家の別邸として使用されてきました。
 明治4年には、廃藩置県がおこなわれ、島津家の居城であった鶴丸城が島津家の手を離れたため、島津家の鹿児島での生活の場は磯に移りました。そして、明治17年には、磯の御殿は大規模な改築を行い、その改築の費用は当時のお金で、三千五百三十五円二十一銭六厘だったといいます。明治21年には、29代島津忠義が、この御殿に住み、一時本邸として使用されていました。
 現存する建物は明治17年の約二分の一で、25部屋余りとなっています。庭園に面した部分は、当時当主であった忠義が使用していた部屋で、寝室、居間、謁見の間など8部屋余りからなっています。
 
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尚古集成館

 
 仙巌園と隣接した所に尚古集成館がある。
 尚古集成館は、28代島津斉彬が西洋の技術を導入して造った工場群で、現在の本館は機械工場の建物で、1962年(昭和37年)に国指定重要文化財に指定されている。
 尚古集成館は、1923年(大正12年)に開設された博物館で、館内には、薩英戦争絵巻や薩摩とイギリスそれぞれの砲弾、薩摩切子など島津家伝来の史料を中心に約1万点が収蔵されている。
   
 パンフレットより

「島津斉彬の集成館事業」−日本を強く豊かに−

 
 時代を見据え、技術立国日本を目指した、斉彬の思い

 
 1840年代、薩摩藩は開国・通商を求めるヨーロッパ諸国のはげしい外圧にさらされ、いちはやく近代化に着手しました。
 特に、嘉永4年(1851)、薩摩藩主となった島津斉彬は、ヨーロッパの国々のような強く豊かな日本を夢見て、集成館事業というひじょうにスケールの大きな近代化産業を推進しました。
 集成館事業は、鹿児島県城下郊外の磯に築かれた構造群「集成館」を中核に、製鉄・造船・造砲・紡績・機械・印刷・出版・教育・製薬・精糖・ガラス・ガス・医療などさまざまな分野にわたっています。
 幕府や他藩の近代化が、軍事力の強化を主体としていたのに対し、集成館事業の場合は産業の育成や社会基盤の整備にまで及んでいました。
 人々が豊かに暮らせるようになれば自然とまとまる。人の和はどんな軍備よりも勝ると斉彬が考えたからです。
 斉彬は幕府や藩といった枠を越え、日本人が一丸となって近代国家を築くべきだと主張していました。集成館事業は、薩摩藩だけでなく、日本全体を生まれ変わらせたいという斉彬の思いのこもった大きな事業だったのです。