東人の出戻り浜生活産業遺産「開国と近代化の道」ウオーク(2)

「開国と近代化の道」ウオーク(2)


奉行所跡


 川間ドックから西側に入った所に、住友重機械工業川間社宅がある。
 
 この社宅は、昔の奉行所があった敷地をそのまま引き取って作られ、周りの小さな堀と石垣は当時のものが残されている。
 


奉行所跡


 享保5年(1720)に奉行所が下田から浦賀へ移されました。
 その業務は、船改めをはじめとして、海難救助や地方役所としての仕事などを行いました。
 また、文化・文政(1804〜1830)のころから、たびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防備するため、海防の最前線として、さらに重要な役割を果たすようになりました。
 享保5年から、江戸幕府が終わる慶應4年(1868)までの約150年間に、奉行は2人制の時期もありましたが、初代の堀隠岐守から最後の土方出雲守まで53人が勤めました。また奉行所には、与力10騎・同心50人の役人たちも勤めていました。
 現在では、奉行所を取り囲む堀の石垣と、表門の前にかかっていた石橋の伊豆石が4-5枚あるだけで、当時の様子を偲ぶことは難しくなっています。
 
浦賀観光協会

愛宕山公園

 
 奉行所跡から北西方向に向かうと、住宅地ではあるが、急峻な坂道となる。
 
 この坂を登りつめた高台からは浦賀湾を見渡すことができる。
 

 反対側に降りる道の辺りは、愛宕山公園として整備されている。
 

 市制施行70周年記念
 横須賀風物百選
咸臨丸出港の碑

 嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船四艘を率いて浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが江戸の近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
 7年後の安政7年(1860)、幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ホーハタン号で新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は、万が一の事故に備えて、軍艦奉行木村摂津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下九十有余名の日本人乗組員で運行する咸臨丸を従わせることにしました。
 1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は、品川沖で碇を上げました。途中、横浜で、難破した米測量船クーパー号の船員11名を乗せ、16日の夕刻、浦賀に入港しました。
 それから二日間、食糧や燃料、その他の航海準備作業が行われました。
 意気天をつく若者たちを乗せた咸臨丸は1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を、39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。米国での大任を果たした咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは家々の空高く鯉のぼりの舞う万延元年(1860)5月5日でした。
 この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として咸臨丸太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向かい合うように、ゆかりの深いこの地に建てられたものです。
 なお、ここ愛宕山公園は、明治26年開園の市内最古の公園です。また、後方に建つ招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。
 

中島三郎助

 明治2年(1869)5月、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが函館郊外の五稜郭近くで行われた。この戦いで浦賀奉行所与力・中島三郎助親子は戦死した。三郎助の23回忌にあたり、彼の功績と名誉を浦賀の町に末永く残すことを目的に、彼とともに激動の明治維新期を生きた友人、知人達によって建てられたのが真向かいにある中島三郎助招魂碑である。碑の篆額(題辞)は三郎助と公私ともに親交があり五稜郭でともに戦った榎本武揚が記し、激動の時代を象徴するような彼の人生を表したのは当時の外務官僚の田辺太一である。また、この碑の除幕の日、初代の中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、三郎助の意志を継いだ近代造船所を浦賀の地で開業することが決定した。
 
中島三郎助略年表
文政4年(1821) 浦賀奉行所与力・中島清司の次男として誕生、母は浦賀奉行所与力・樋田仲右衛門の娘
天保6年(1835) 浦賀奉行所与力見習勤として出任
嘉永6年(1853) ペリー来航 応接掛として乗船
嘉永7年(1854) 鳳凰丸竣工
慶應4年(1868) 開陽丸で江戸脱出
明治2年(1869) 千代ヶ岡砲台で息子恒太郎・英次郎とともに死去
横須賀市
 

与謝野夫妻の文学碑

 
 碑のうたは、昭和10年3月3日与謝野寛(号・鉄幹)、明子夫妻が同人たちとともに、観音崎、浦賀、久里浜を吟行した折り詠んだものである。思いのほかの寒さであったためか、寛は同月26日肺炎で没しているので、これは生涯最後の歌の一つといえる。
 寛は、明治6年2月26日京都市左京区の願成寺に与謝野礼巌の四男として、明子(本名・志よう)は同11年12月7日に大阪府堺市の菓子商鳳宗七の三女として生まれた。
 明治25年上京して落合直文の門下に入った寛は、32年の秋に「東京新詩社」を設立。翌年4月には機関誌「明星」を創刊し、ひろく青年層にロマンチシズムを鼓吹して、短歌の革新に貢献した。一方、寛の歌に深く心をうたれた明子は、新詩社社友となって「明星」2号に短歌を発表。以後毎号同誌に投稿する。
 明子が、明治33年8月に講演のため来阪した寛をその宿に訪ねたのが、2人の最初の出会いであった。やがて恋愛の進展に伴い、34年6月明子が上京、この秋正式に結婚した。
 同年8月に出版された明子の第一歌集「みだれ髪」は、世の注目を浴び、新詩社黄金時代の幕開けとなった。2人は、明治三十年代の詩歌壇を主導して、浪漫主義文芸の花を咲かせ、石川啄木、北原白秋、高村光太郎、佐藤春夫、堀口大学らの俊英を輩出した。
 代表作として、寛に「東西南北」、「天地玄黄」「紫」「鴉と雨」、明子に「みだれ髪」「小扇」「舞姫」「伯桜集」がある。
 
横須賀市
 

浦賀ドック


 「開国と近代化の道」ウオークの最後のポイントは、追浜駅近くの住友重機内にある「浦賀ドック」であった。
 
住友重機の工場内にあるため、普段は立ち入りできない場所であろう。
現在は使われていないドックが残されていた。

昭和52年市制施行70周年記念
横須賀風物百選

浦賀造船所

 
 浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工業株式会社追浜造船所浦賀工場です。
 創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。
 この造船所は、明治29年、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め、翌30年6月21日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は百万円でした。
 そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。
 一方造船界は、技術面や設備面で大きく立ち後れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もその中の一つで、ドイツ人技師ポーケルを月給約百五十円で雇いドックを築きました。
 明治35年10月15日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を浸水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、14艘目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送り出しました。
 この浦賀造船所で建造した艦船は、戦前・戦後を通じ約一千艘にのぼります。現在もなお技術革新の旗手として、新しい船を造り続け、造船の浦賀の象徴として、いまなお地元市民に基盤を置いています。