東人の出戻り浜生活産業遺産「開国と近代化の道」ウオーク

「開国と近代化の道」ウオーク


 2006年9月16日、NIKKEI産業遺産ウオーキング大会 ”「開国と近代化の道」ウオーク”に参加して、横須賀の久里浜から浦賀までにある産業遺産を回りました。 

ペリー公園

 
 ”「開国と近代化の道」ウオーク”の最初のポイントがペリー公園。
 公園の中には、ペリー上陸記念碑とペリー記念館があり、ペリー記念館には、ペリー来航にかかわる史料や模型などが展示されている。


北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑

 
 1853年7月8日、浦賀沖に来航したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリー(Matthew C. Perry) は、7月14日、ここ久里浜の海岸に上陸し、大統領フィルモアの親書を江戸幕府に渡した。
 翌年、神奈川において日米両国間に和親条約が締結された。この一連の出来事は、幕府支配のもとに鎖国を続けていた日本を、世界へと引き戻す原動力となった。
 ペリー来航より48年後の1901年7月14日、米友協会の手によって、日本開国ゆかりの地として、ここに記念碑が建てられた。
 

浦賀灯明堂

 
 ペリー公園から北東に向かい、長瀬隧道というトンネルを抜けた所で右に入ると浦賀灯明堂跡に到達する。。
 灯明堂は江戸時代の灯台であり、東京湾の入口を見渡せる岬に建てられている。
 この岬には灯明崎という名前がついていた。


横須賀市指定史跡
灯明堂跡(浦賀灯明堂)
昭和43年2月10日指定

 復元なった浦賀灯明堂の建つこの場所は、江戸時代に浦賀港の入口、灯明崎に建っていた灯明堂の跡地である。
 灯明堂は、今日の灯台のような役割をする航路標識の施設であった。灯明堂は、慶安元年(1648)幕府の命によって、幕吏石川六左エ門重勝や能勢小十郎頼隆らが築造したと伝えられている。石垣を土台として、上に二階建ての建物があった。階下は番人小屋で、階上は四方を紙張障子とその上に金網をめぐらしてあった。その中には、直径36.4センチ、深さ12.2センチの銅製の大きな灯明皿が置かれ、一晩に灯心百筋と菜種油一升(1.8リットル)が灯され、その光は四海里(7.2キロメートル)に達したという。
 当初は勘定奉行の所管となっていたが、後に浦賀奉行に所管替えとなり明治になり神奈川府の所管となった。経費は元禄3年(1690)までは徳川幕府が賄っていたが、同4年からは東浦賀の干鰯問屋が一切を負担するようになった。
 明治5年(1872)4月に廃止になるまで、約220年間にわたって一日も休まず夜間の海上安全の守り役として活躍し、我が国の灯台史の上で極めて貴重なものである。建物は明治20年代まで残っていたというが風雨で崩壊してしまい、一抱えもある大きな石で高さ役1.8メートル、幅3.6メートル四方に組み合わされた「切り込みハギ石垣」だけが残された。
 灯明堂跡は大正13年3月国の史跡に仮指定されたが、太平洋戦争後解除され、昭和43年2月に市の史跡に指定された。この石垣を利用して、浦賀灯明堂が近代建築の技術の枠を結集して当時の姿そのままに復元された。
(起工 昭和63年10月、竣工 平成元年3月)
所在地横須賀市西浦賀町六丁目四六番地
竣工年月日平成元年3月10日
敷地面積2,724.95m2
建物面積9m2
建物構造鉄筋コンクリート二層平屋建
CRC製木目模様外壁
  
横須賀市教育委員会
 

川間ドック

 
 浦賀灯明堂から、来た時の道を戻り、そのまま北の方角に進むと Velasis Ciry Marina という名前のマリーナがある。
 
 ここの駐車場の脇に海水で満たされた長方形のプールのような所があり、これが昔の造船所の跡地である川間ドックである。
 
 

川間ドック


 (株)東京石川島造船所が、大型船の建造修理のため、当時、取締役会長であった渋沢栄一の提案により、明治28年(1895)10月に浦賀分工場として建設に着手し、同31年に営業を開始しました。
 同35年には浦賀船渠(株)が買収し、以後、同社の川間分工場になりました。


浦賀行政センター 市民協働事業・浦賀探訪くらぶ