東人の出戻り浜生活諸国点描山形県


山形県


米沢   伝国の杜(米沢市上杉博物館) 【新着】(2009/11/24)
  上杉鷹山像 【更新】(2010/04/08)
  旧米沢女子高等学校 【新着】(2010/05/04)
     
寒河江   寒河江という地名の由来 【新着】(2010/08/17)
  丑町 滝田門観音堂 【新着】(2010/10/31)
  熊野神社の「大かつら」 【新着】(2011/01/02)
  陽春院 桑名藩士の墓 【新着】(2011/01/30)
→諸国点描に戻る
  

伝国の杜(米沢市上杉博物館)

  
 2009年に米沢で仕事があり、夕方、上杉神社方面に歩いていった。
 上杉神社の手前に、やや立派な建物があり、「伝国の杜(米沢市上杉博物館)」と記されていた。
 時間が遅く、入館する余裕は無かったが、丁度、NHKの大河ドラマで直江兼続が主人公の「天地人」が放映されていた時期であり、「天地人博2009」(平成21年1月24日〜平成22年1月11日)が開催されていた。
 この時期、「かねたん」というキャラクターの絵が街中や土産物などで見られた。愛の字の兜をかぶった犬のキャラクタとのこと。

→戻る
 

上杉鷹山像

 
 伝国の杜(米沢市上杉博物館)は上杉神社への参道の脇にある。
 参道には、上杉鷹山の像があった。
 「成せばなる・・・」の格言は、上杉鷹山のものであった。





上杉鷹山公

 上杉家十代上杉鷹山公は、困窮、崩壊寸前の藩を復興させた江戸時代随一の名君として知られる。
 14歳の時から、折衷学派の儒者細井平洲に師事し17歳で藩主となるや、大倹令・産業開発・藩校興譲館の設立・綱紀の粛正などを断行する。
 凶作に備え、城下や村々の蔵にもみを備蓄し、天明の飢饉には領民に配り一人の餓死者も出さなかったと伝えられる。
 11代治広公に家督を譲るとき民主主義の原点を示した「伝国の辞」を与えた。
 米国第35代大統領ジョン・F・ケネディは政治家で最も尊敬する人は、上杉鷹山公であると述懐したことはあまりにも有名である。
 
 鷹山公が家臣に示した和歌
 なせば成る なさねば成らぬ何事も
  成らぬは人のなさぬなりけり

 は万事についての可能性を示す遺訓である。
 
 平成6年(1994年)5月吉日
米沢松岬ライオンズクラブ
 



上杉鷹山公

 (上杉家十代)窮乏の淵にあった米沢藩を、卓抜な発想と大胆な政策によって再建した江戸時代随一の名君として知られる。宝暦元年(1751)7月20日高鍋藩主秋月種美(3万石)の二男として誕生。幼名松三郎または直松。母は秋月藩黒田長貞の娘春姫。 春姫の母は(上杉家五代)上杉綱憲の娘である。宝暦10年、上杉重定(上杉九代)の養子に迎えられ、明和3年治憲と改名。翌4年17歳で米沢15万石の藩主となる。
幼少から折衷派の儒者細井平洲に師事し、実学一致の経世論を身につけた。藩主となるや大倹令・産業開発・藩校興譲館の創立・政務の革新等を断行し、隠居後も政務に参与して再建に努めた。米沢織・米沢鯉・深山和紙など鷹山の興した産業は現在に伝承されている。天明5年(1785)養子治広に家督を譲って隠居し、鷹山と号した。民主政治の原点を示した「伝国の辞」は、このとき新藩主治広に与えたものである。文政5年(1822)3月12日没。春秋七二。上杉家廟所に眠る。

追文
アメリカ合衆国第35代大統領J.F.ケネディが、日本人記者団の質問に「日本の政治家で最も尊敬しているのは上杉鷹山である」と答えたとは夙に有名である。
さらに最近では、わが国の行政改革の先駆者としての公の名は高まるばかりである。 わが郷土米沢が世界に誇れる偉人をさらに永く、広く人に知らしめるため、ここに「上杉鷹山公像」を建立したものである。

 平成4年5月
米沢中央ライオンズクラブ
姉妹クラブ 上越中央ライオンズクラブ
 
→戻る
 

旧米沢女子高等学校

   上杉神社方面に向かう途中、古風な建物の学校を見かけた。
 これは、九里学園高校という共学の私立高等学校であるが、昔は米沢女子高等学校であったとのこと。

 この建物は、昭和10(1935)年に建てられた洋風建築で、1997年に国登録有形文化財に指定されていた。


→戻る