東人の出戻り浜生活産業遺産「首都と橋の歴史」ウオーク(3)

「首都と橋の歴史」ウオーク(3)


日本橋

 
 ”「首都と橋の歴史」ウオーク”は、次に新大橋を渡った後、水天宮の前を経由して三越前駅の辺りで、日本橋に立ち寄った。


 日本橋
 
 明治44年竣工。2連の石造アーチ橋、橋長 49m。
 樺島昌義、米元晋一構造設計、妻木頼黄装飾設計。
 近代的な設計理論で設計された橋。
 東京で最初の双御影石の橋で、全国的にもめずらしい。九州では黒っぽい凝灰岩。
 日本橋の橋のあんこ部分は、ふつうの石橋とちがい、コンクリートと煉瓦が中に入っている。コンクリートはキーストーンから橋台側、煉瓦はキーストーンから真ん中部分にある。
 関東大震災では、火の燃えた船が橋脚でつっかえ、アーチの裏側とアーチリングの一部、橋脚の一部に被害がみられる。
 昭和39年のオリンピックのときに、日本橋川の上に高速道路が建設されたが、今ようやく日本橋側の高速道路を撤去しようという動きがでてきた。
 電飾灯がつけられ、ライトアップがおこなわれた。白い御影石に反射して、夜間景観を演出。これにならったのが、震災復興橋梁の石積みブロックのコンクリート・アーチ橋と考えられる。
 

 
 日本橋の近くに「日本国道路元標」(道路元標複製)というものが展示されていた。
 「複製」となっているが、本物は橋の中央、道路上にあるらしい。

 日本橋は、東海道(国道1号線)の起点となっていることは知っていたが、
 他に
 
 国道 4号線(至青森県青森市)、
 国道 6号線(至宮城県仙台市)、
 国道14号線(至千葉県千葉市)、
 国道15号線(至神奈川県横浜市)、
 国道17号線(至新潟県新潟市)、
 国道20号線(至長野県塩尻市)

 等の街道の起点でもあるとのこと。



常磐橋

 
 ”「首都と橋の歴史」ウオーク”は、三越と三井本館の間から、日本銀行前を経て、常盤橋を渡った。


 常磐橋
 
 明治10年竣工。2連の石造アーチ橋。
 熊本の石工が架設したが、高欄は鋳鉄と大理石の親柱でつくれた和洋折衷の様式。
 車道は歩車道の分離があり、縁石部分が少し突出している。舗石の並べ方も歩道部分と車道部分とで変え、歩道部分は布積み風、車道部分は谷積み風に斜めに敷いてある。
 橋のアーチ壁部分(スパンドレル)は、アーチを基本に同心円状に積み、二つの同心円が重なる橋脚上では曲線が入った菱形石を積み、石工の技巧の高さを示す。
 橋台部分も城石垣のような勾配と曲線が入った積み方をなす。
 震災復興事業で、古橋保存の意味をこめて残された。
 


常磐橋

 この橋を常磐橋といい三代将軍家光の頃までは、大橋とも浅草口橋ともよばれました。 しかしその名はよくないので改名するよう、町年寄の奈良屋市右衛門は自宅に寄宿していた浪人に頼んで、橋の名を考えてもらい、常磐という名を献じました。「金葉集」の大夫典侍の歌に”色かへぬ松によそへて東路の常磐のはしにかかる藤波”とあり、その歌の心を松平の姓にかけためでたい名です。なお常盤と常磐の文字のちがいがみられます。
 橋詰に北町奉行所があったこともあります。
 関東大震災後下流に常盤橋が架けられました。
 現在の石橋は枡形に使っていた石を用いて、明治10年(1877)に改築した都内随一の貴重な洋式石橋です。橋の銘板には常磐橋とあり城門の枡形の一部も現存しています。
 
平成3年3月 
千代田区教育委員会
 

 常橋の下流には常橋、上流には新常橋がある。
 常橋も、元の木橋は「常橋」であったが、石橋にしたときに「皿」だと割れやすいので、「石」にしたという説もある。



皇居正門石橋

 
 ”「首都と橋の歴史」ウオーク”は、オフィス街を抜け内堀通りに出た。
 大手門前を通り最終ポイントの皇居正門石橋に着いた。

 皇居正門石橋(二重橋)
 
 明治20年竣工、橋長 46m、2年の石造アーチ橋。
 久米民之助設計、河合浩蔵。
 近代的な設計理論で設計された橋。
 親柱と橋脚上の束柱に電飾灯を設置、電飾灯の台座部の4面には獅子の頭を彫刻している。
 至高のの動物である獅子は、勇猛果敢で威厳の象徴。皇居の入り口にあって、出入りのものを警戒するとともに、災難や苦難からも皇居を守る象徴である。
 

 この橋は「二重橋」と呼ばれることもあるが、本当の二重橋はさらに奥に架かっている鉄の橋のことで、「皇居正門石橋」が正式名である。

 
 
 こちらが本当の二重橋であるが、二重の橋では無い。
 
 昔は上下の二段構造の橋であったらしいが、新宮殿の工事用車両を通すために昭和38年に一段の橋に架け替えられたものとのこと。