鉄骨造地上二階建築面積23.45m2 高さ9m
江戸時代、江戸の市中には火災の早期発見のため多くの火の見櫓が立っていました。高さ三尺(約9m)ほどの櫓の上部には早鐘が取り付けられいち早く火災の発生を知らせてくれました。 深川の南部にも佐賀町下の橋際(佐賀二)富吉町(永代一)門前仲町などに火の見櫓が立てられていました。 なかでも門前仲町の櫓は今の門前仲町の交差点付近かつての富岡八万宮一の鳥居近くにありました。周辺は永代寺富岡八幡宮三十三間堂といった江戸名所が集まり現在同様に門前町としておおいににぎわっていた場所です。 この櫓は深川の繁華街を守ると云う大きな役割をはたしていました。「災害のない街」を願う気持ちは今も昔も変わりません。 深川江戸資料館 久染 達夫 文平成14年3月 |
門前仲町の富岡八幡宮の東側に、八幡橋として現在でも使用されている橋がある。 これが旧弾正橋で、国産第一号の鉄の橋とのこと。 当初は京橋楓川(東京都中央区)に架けられていたが、関東大震災後に現在地に移設されたという。
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清洲橋 昭和3年竣工。自定式吊橋。橋長187m。 震災復興事業によってはじめてこの地に架設された。 清洲橋のモデルは、当時世界一美しいといわれたケルンの吊橋。 工事では、地盤が悪いのでニューマチック・ケーソン(圧搾空気潜函)工法が採用された。技術指導のために、アメリカからお雇い外国人3人を招聘、機械も中古を輸入して架設した。 優美な下垂曲線を描く清洲橋は女性的な橋といわれ、男性的な橋といわれる永代橋と対をなしていた。しかもこの二つが隅田川の第一・第二橋梁となって、対比的な演出として帝都の入口を飾っていたのである。 隅田川橋梁では一番コストがかかり321万円、ついで永代橋であった(292万円) 。 |
萬年橋 昭和5年竣工、橋長57m、タイド・アーチ。 小名木川の第一橋梁。アーチ部分がトラス構造となっている。 この橋も震災復興橋梁だが、東京市で架設している。 アーチ部をトラスにするのは東京市が多く、国である復興局は充腹アーチ(アーチ部分が鉄板)とした。 東京市と復興局では、河川の第一橋梁の橋のデザインを変え、これによって船頭さんが帰る河川の目印(河川のゲート)にした。 |
新大橋 隅田川では歴史的には3番目に古い橋。 現在の橋は明治45年の橋を昭和51年11月架替。斜張橋、橋長170m。 樺島正義設計、田島せい造装飾設計 老朽化したとの理由で架け替えられたが、実態は斜張橋というあたらしいタイプの橋を架けたいという理由で、隅田川で一番古かった新大橋に目をつけられたようだ。 二径間連続で、隅田川で最初の斜張橋。タワーの位置にバルコニーを設け、ベンチを設置。高度成長期以降につくられた橋で、バルコニーを設けられた初期の橋。 タワーの下部には、旧新大橋のレリーフが設置されている。 左岸下流側の橋詰広場には、川側の一部を見晴台とし、旧橋の親柱を中央に設置、柵も旧橋の高欄を利用してつくられている。旧橋の遺構を残した初期の例。 |
日本橋 明治44年竣工。2連の石造アーチ橋、橋長 49m。 樺島昌義、米元晋一構造設計、妻木頼黄装飾設計。 近代的な設計理論で設計された橋。 東京で最初の双御影石の橋で、全国的にもめずらしい。九州では黒っぽい凝灰岩。 日本橋の橋のあんこ部分は、ふつうの石橋とちがい、コンクリートと煉瓦が中に入っている。コンクリートはキーストーンから橋台側、煉瓦はキーストーンから真ん中部分にある。 関東大震災では、火の燃えた船が橋脚でつっかえ、アーチの裏側とアーチリングの一部、橋脚の一部に被害がみられる。 昭和39年のオリンピックのときに、日本橋川の上に高速道路が建設されたが、今ようやく日本橋側の高速道路を撤去しようという動きがでてきた。 電飾灯がつけられ、ライトアップがおこなわれた。白い御影石に反射して、夜間景観を演出。これにならったのが、震災復興橋梁の石積みブロックのコンクリート・アーチ橋と考えられる。 |