東人の出戻り浜生活産業遺産「緑の大地を拓く運河」ウオーク

「緑の大地を拓く運河」ウオーク


 2006年11月18日、NIKKEI産業遺産ウオーキング大会 ”「緑の大地を拓く運河」ウオーク”に参加して、東浦和駅近くの見沼通船堀公園から川口緑化センターまで歩いた。

見沼通船堀 西縁第一の関

 
 ”「緑の大地を拓く運河」ウオーク”は東浦和駅近くの見沼通船堀公園からスタートした。

 スタートすると直ぐに、小さな川に沿った道に出た。
 このような小さな水路に船が通っていたのだという。

 
 少し行ったところに見沼通船堀 西縁第一の関があった。
 
 見沼通船堀とは、約3mの落差のある水路間を連結する日本最古の閘門式運河であり、規模は小さいが、同じ仕組みのパナマ運河より183年も前に作られたものとのこと。

史跡 見沼通船堀
− 西縁 −

    
一.指定年月日  昭和57年7月3日
文部省告示第115号

二. 指定範囲 下記指定範囲図参照

三.指定基準
特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準  史跡6(その他産業交通土木に関する遺跡)による。
四.説明
見沼通船堀は我が国最古といわれる閘門式運河の遺構です。
享保13年(1728)、徳川幕府は井沢弥惣兵衛為永に命じ灌漑用水である見沼代用水を開削しました。その3年後の享保16年、物資輸送を目的に、為永によって東縁用水、西縁用水とその中央を流れる芝川を結んでつくられたのが見沼通船堀です。
見沼風船堀は東西二つに分かれており、東縁側が約390メートル、西縁側が約650メートルあります。東西の各用水と芝川との水位差が3メートルもあったため、閘門を用いることによって水位を調整し、船を通しました。
通船の時は、堀の土手から船につけた綱を引いて通しました。この時、船頭はもちろんのこと、近所の人々の大きな助けが必要でした。

昭和57年12月
(改修平成10年10月)


文化庁
埼玉県教育委員会
浦和市教育委員会
 


鈴木家住宅

 
 鈴木家住宅という建物が、見沼通船堀の史跡になっていた。

 享保16(1731)年、鈴木文兵と実兄の高田重右衛門の両人が、幕府の許可を得て見沼通船事業に着手し、須戸橋(行田市地内)− 芝山伏越(南埼玉郡菖蒲町)− 見沼通船堀−芝川−荒川−江戸市中永代橋筋・神田川橋 を結ぶ舟運路を開設したという。
 
 各船に対する積荷や船頭の割り振り業務を担っていた役宅が、この鈴木家住宅とのこと。


水神社

 
 芝川に架かる橋の近くに水神社という神社があった。


水神社
所在地 さいたま市大字大間木

 水神社は、見沼通船堀が開通した翌年の享保17年(1732)6月の創建と伝えられている。
 祭神は罔象姫命である。本殿は大正12年9月1日の大震災により全壊し、同13年に再建さえたものである。
 享保16年、井沢弥惣兵衛為永によって開さくされた見沼通船堀が開通し、江戸と見沼代用水縁辺の村々との物資輸送が可能になった。船は代用水路縁辺の河岸で荷物(江戸時代においては年貢米が主であった)を積んで江戸へ行き、帰りは肥料、塩、酒などの商品を積んできた。荷物の積みおろしをする河岸場は、芝川と東西縁用水路沿いに59か所あった。八丁の河岸場もその一つであり、この附近には河川輸送にたずさわる人たちが住んでいた。
 水神社はそのような仕事につく人たちが水難防止を祈願して祀ったものである。
   昭和58年3月               
さいたま市
 


見沼通船堀 東縁第一の関


 芝川の東側にも、通船堀の関が残っていた。




通船のしくみ

 
 見沼通船に使われた船は「ひらたぶね」と呼ばれる平らな長さ11m、幅2mのもので約60kgの米俵100〜150俵積みの小型船でした。江戸からきた船が八丁河岸につくと船頭は、近所の人に声をかけて人々を集めます。およそ20人位の人々が土手から縄を引いて一の関まできます。一の関では水門から勢いよく流れ出る水の上を一気にひき上げます。このとき二の関は水位を保つために閉められています。船が一の関の中に入ると「枠ひ抜き」の人が角落板を一枚ずつ積み上げます。板を10枚近く積み上げると水位は二の関の敷板の高さまで上がり、二の関まで船はひかれ、一の関と同様に船は引き上げられ、水位が上がると船は代用水まで引かれ通船は終わります。
 代用水から芝川へ船が下がるときは、この逆の手順で行い、関に積み上げられた角落板が1枚ずつ鈎でかけられ、はずされて、落差を少なくして関を通過させていきます。
 このように通船堀に船を通すのは、大勢の人々と手慣れた船頭さんの力が必要でした。
 



見沼通船堀 東縁第二の関

   第一の関の東側近くに第二の関があった。
 この辺りには、運河の水は殆ど見られなかった。



見沼通船堀 東縁仮り締め切り

   見沼通船堀 東縁第二の関の東側に「東縁仮り締め切り」というものがあった。
 「仮り締め切り」の役割については、良く分からない。