東人の出戻り浜生活諸国点描沖縄県沖縄県(6)


沖縄県(6)


漏刻門

   次の門には漏刻門という名前がついていた。
 



漏刻門  Roukokumon

 
 漏刻とは、中国語で水時計という意味です。この門の上の櫓の中に水で時間をはかる水槽(水時計)が設置されていました。門をすぎた広場には日時計があり、その二つで時刻をはかり、太鼓をたたいて時を知らせました。
 別名「かご居せ御門」ともいいます。駕籠で登城することを許されている身分の高い役人も、国王に敬意を表しこの門で駕籠から下りたということからそのように呼ばれました。
 創建は15世紀頃。老朽化のため昭和初期には撤去されていたものを1992(平成4)年に復元しました。
 

→戻る
 

広福門


 次の門は、建物と繋がった門で広福門という名前がついていた。
 



広福門  Koufukumon

 
 「広福」とは「福を行き渡らせる」という意味です。
 建物そのものが門の機能をもっているのが特徴です。
 門の正門に向かって左側が、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座(おおくみざ)」、右側が神社仏閣などを管理する「寺社座」という役所になっていました。
 創建年は不明。明治末期頃に撤去され、1992(平成4)年に復元されました。
 
→戻る
 

奉神門

   広福門を入ると、下之御庭と呼ばれる広場に出る。
 下之御庭に出て左側に、正殿に続く最後の門である奉神門が設けられている。
 出入口は3カ所あり、中央の高い門は国王や身分の高い人たちが、左右の門は家臣たちが利用したといわれる。
 別名「君誇御門」。 



→戻る
 

首里森御獄

   奉神門の前に首里森御獄という拝所があった。


首里森御獄  Suimui-utaki

 
 首里森(すいむい)とは首里城の別称で、御獄(うたき)とは沖縄の聖地または拝所のことです。琉球の神話では、この御獄は髪が造った聖地であり、首里城内でもっとも格式の高い拝所の一つです。城内にはここをふくめて「十獄(とたけ)」と呼ばれる10カ所の拝所があったといわれています。
 国王が城外の寺社に出かけるときにこの御獄で祈りをささげ、神女たちが多くの儀礼を行いました。
 石積内の植物はガジュマルやクロツグです。1997(平成9)年に復元されました。
 

→戻る
 

正殿

   奉神門を入ると、御庭(うなー)という広場に出て、正面に正殿がそびえている。
 正殿の右側が南殿・番所、左側が北殿となる。
 
 正殿は木造三階建てで、一階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場、二階は「大庫理(うふぐい)」と呼ばれ、国王と親族・女官らが儀式を行う場であった。三階は通気のために設けられた屋根裏部屋であった。 沖縄戦を含めて、過去四回の焼失、再建を繰り返してきた。現在の正殿は1712年に再建され、戦前まで残っていた建物をモデルに復元したものとのこと。  



  
北殿南殿・番所
  正殿の内部には、南殿・番所から入ることができる。

正殿の概要

 正殿は「百浦添御殿」と呼ばれ、首里城の中心的な施設である。建物は3階建で、1階(下庫理)は国王みずから政治や儀式を執り行う場所、2階(大庫理)は国王や親族、神女たちが儀式などを行う場所、3階は通風を目的とした屋根裏部屋であった。
 正殿の建築は、ところどころに中国の宮殿建築の影響が見受けられるが、構造や細部の意匠に日本の建築様式を取り入れており、琉球独特の表現となっている。
 発掘調査から、14世紀末の創建と推定されている。その後現在の位置で数度の焼失、再建が繰り返されてきた。
 復元された建物は18世紀初めに再建され、沖縄戦で焼失するまで残っていた正殿をモデルにしたものである。
 

→戻る