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甲府

 

武田信玄像

 甲府駅の前に、武田信玄の像が建っている。
 どっしりとした体格の人物として描かれている。
 
 昭和63年放送の大河ドラマでは、中井貴一が武田信玄を演じていたが、そのイメージとはだいぶ違う信玄像である。

武田信玄

 武田信玄は、大永元年(1521)11月3日甲斐守護信虎の嫡男として生まれた。幼名を太郎といい、天文5年(1536)で元服、将軍足利義晴の一字をもらって晴信と名乗る。入道して信玄を称するのは、永禄2年(1559)頃からである。
 天文10年(1541)、父信虎を駿河国へ追って甲斐の領主となった信玄は、躑躅ヶ崎館を拠点として近隣に勢力をのばしていく。その最大領域は、本国甲斐を始めとして、駿河一円、信濃の大半、上野・遠江・三河の各数郡さらに美濃・飛騨・越中の一部に及んだ。この広大な領国の形成は、駿河の今川氏、相模の北条氏、越後の上杉氏などの戦国大名との抗争を通じてなされたものであるが、数ある戦いの中で、特に天文22年(1553)から永禄7年(1564)にかけて前後5回の対戦があった上杉謙信との川中島の戦いは著名である。
 信玄は民政の上でも多くの実績を残している。領国経営の拠点としての城下町”甲府”の整備、寄親・寄子制による家臣団の編成、「甲州法度之次第」(信玄家法ともいう)の制定、信玄堤の築造などの治水事業、黒川金山(塩山市)などの金山の開発と甲州金の鋳造、甲州枡の制定、棒道の建設など道路・伝馬制度の整備、等といった各方面にわたる幅広い活動によって富国強兵を図った。その多くは、今も信玄の偉業として人々に語り伝えられている。
 元亀3年(1572)10月3日、信玄は最後の征途についた。12月22日には遠江の三方ケ原で徳川家康を破り、士気大いに上がったが、病すでに重く、翌年4月12日帰国途中の信州駒場(下伊那郡阿智村)で死去した。時に53才。塩山市の恵林寺と甲府市岩窪町に墓が残る。
 
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甲府城跡

 山梨県の甲府駅の近くに石垣が見え、その上にオベリスクのようなものが建っているのが見える。
 ここが甲府城の城跡であり、舞鶴城公園という名前がついている。
 オベリスクのようなものには、「謝恩碑」と書かれていた。

県指定史跡 甲府城跡
舞鶴城公園

 
 甲斐国は、天正10年(1582)武田家滅亡後は、織田信長・徳川家康(城代平岩親吉)の時代を経て、天正18年(1590)豊臣秀吉の支配となり、羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長親子により治められました。
 甲府城は慶長5年(1600)頃に浅野氏により完成したと考えられます。関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍継嗣)ら徳川家一門が城主となり城番・城代制がしかれました。
 宝永2年(1705)には、徳川以外の大名として武川衆出身の柳沢吉保・吉里親子が城主となり、この時期に城下町も大きく発展しました。柳沢氏の大和郡山移封後は、甲府勤番制となり、また、大火にもおそわれ、次第に壮麗な姿は失われていきました。
 明治時代には廃城となり、建物はほぼなくなり、葡萄酒醸造所が造られるなどして、明治37年(1901)に舞鶴公園として解放されました。
 大正6年(1917)には払い下げを受け県有地となり、戦後の市街地復興に併せて公園整備を進め、昭和39年(1964)に都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定され、昭和43年には県の指定史跡となりました。その後広く県民に利用されてきましたが、施設の老朽化などの理由により、昭和60年代に入り公園の改修を求める声が高まってきました。
 そこで山梨県は、平成2年から舞鶴城公園整備事業を実施し、石垣の改修、園路・広場の再整備、堀の浄化、占用物件の移転、門(鍛冶曲輪門・内松陰門・稲荷曲輪門)や堀の復元、稲荷櫓の建設などを行いました。
 またそれに伴う発掘調査で、本丸や天守台の周辺からは金箔を貼った鯱瓦、鬼瓦が多く出土しました。
 

稲荷櫓

 
 城内の鬼門(北東)に位置することから良櫓ともよばれ、江戸時代には武具櫓として使われていた建物です。明治初年まで残っていたことが古写真などでわかっており、発掘調査でも2どにわたり建物を建築した痕跡(遺構)と、土地の平安を祈るための輪宝(地鎮具)が6点見つかりました。
 今の建物は、この遺構や残っていた絵図や史料などをもとに、できるだけ当時の姿に復原したもので、平成16年に建築しました。
 

甲府城の石垣

 
 甲府城の石垣は、戦国時代末期の先端技術である穴太積みと呼ばれる技法で構築されたもので、城石垣としては、東日本では屈指のものです。
 穴太積みとは、自然石もしくは荒割石を用いて高石垣を築く技法で、その特徴は、大小様々な石を組み合わせて積み上げ、さらに石の隙間には小さい石をしっかり詰めることで、強固な城壁としての石垣を積むことです。
 この技法でつまれた城石垣の代表的な例としては、織田信長が築いた安土城(滋賀県)、豊臣秀吉が築いた石垣山一夜城(神奈川県)・名護屋城(佐賀県) などが挙げられます。
 しかし、この穴太積み石垣については、現在でも多くの謎を秘めており、それぞれ石垣勾配の決め方や、大小の石材の積方順序、石垣裏の構造など、いまだ解明されていないことがあります。
 この石垣は、穴太積み技法の調査を行いながら、可能な限り当時の姿に復元修理を行ったものです。
 
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甲斐 善光寺

   甲府から身延線で二駅目に善光寺という駅がある。
 善光寺といえば、長野のお寺と思っていたが、甲府にも善光寺があった。
 武田信玄が、川中島の合戦にて信濃善光寺が焼失することを恐れ、甲府に建立したものとのこと。
 甲府でも最大級の寺院である。

 (国指定文化財 建造物)
善光寺山門付棟札

  指定年月日 昭和30年6月22日
  所在地  甲府市善光寺三丁目36番1号
  所有者 善光寺
 
 五間三戸の楼門で、入母屋造りの構造を示すこの山門は、江戸時代中頃の宝暦4(1754)年の大火により、本堂とともに焼失したが、本堂に先立って再建され、昭和4(1766)年に上棟式がおこなわれた。
 両脇に仁王像を安置し、二階部分は、手すり付きの板廊下がめぐらされ、内部には仏壇が置かれている。巨大な漆塗の丸柱と白壁。銅板葺の屋根などからかもし出される雰囲気は、本堂の壮大な建築によく調和した山門ということができる。
 
  昭和63年3月
甲府市教育委員会
 


お咳婆さんの石

 この大きな石は「お咳婆さんの石」と呼ばれています。
 いつの時代からか、百日咳など咳に苦しむ者が、全快したら飴を奉納する約束をして祈願すれば、効験が著しいと言われておりました。
 同様に信仰されてきた石は、甲府市千塚など各所にもあるといわれております。
 

定額山浄智院善光寺由来

 
 定額山浄智院善光寺は、武田信玄公が、永禄年中 川中島の合戦の折 信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ 本尊阿弥陀如来その他 諸仏 寺宝 六梵鐘に至るまでことごとく甲斐に招来し、大本願第三十七世鏡空上人を開山に迎え 信濃善光寺開基本田善光公追葬の地 ここ板垣の郷に新たに建立せられたものである。
 その後 江戸時代にも歴代国主の帰依と保護を受け 浄土宗甲州触頭として 金堂 山門 三重塔 鐘楼をはじめ本坊三院十五庵の大伽藍を有し 荘厳を極めるに至った。
 
 ところが 宝暦四年二月 門前の農家の失火により類焼し、堂塔ことごとく烏有にきしてしまった そこで 中興癡誉 性誉両上人が再興勧進に奔走し 三十有余年の歳月を費やして 寛永八年八月 金堂が落慶した
 これが現在の伽藍で 昭和三十年六月 金堂 山門共に重要文化財に指定され 同三十二年より五年間にわたり大修理が行われた 金堂は日本有数の大建築として著名である。
 本尊は 建久六年 尾張の僧定尊が霊像により造立した金銅善光寺式一光三尊阿弥陀如来像で 重要文化財の指定を受けている このほか文禄年間 甲斐国主浅野長政公が他寺より動座した 木造阿弥陀三尊像二組も それぞれ重要文化財である。
 また 県指定文化財の 木造源頼朝像 木造釈迦涅槃像 当麻曼荼羅図 梵鐘など多数の寺宝を所蔵している 寺域には 文禄二年 朝鮮の役で戦病死した国主加藤光泰公の墓所などもある
 当山に 創建以来 時に盛衰はあったが 全国の深い尊信を集め 今日に至っている。
 

やまなしの歴史文化公園  北山野道

 里垣の伝説
 
 甲州善光寺の棟木

 昔、遠光寺村というところに、お琴という美しい娘がおりました。
 お琴には、夫となるべき若者がいて、二人は仲むつまじく過ごしておりましたが、ある青い月のきれいな晩に、若者は、「私は、高畑村にある大きな柳の木の精です。あす善光寺の棟木になるため切り倒されてしまうので、お別れしなければなりません」と涙ながらに言いました。
 そして「私は切られても、千人二千人の力では動きません。もしあなたが来て声をかけてくれたら、動きましょう」と言いのこすと、すうっと消えてしまいました。
 さて、そのあしたのこと、柳の大木は切り倒されましたが、いくら人夫を増やしても動きません。そこで、お琴が泣く泣く今様をうたうと、柳の大木はするすると動いたということです。
   
甲府市・甲府市教育委員会
 
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