東人の出戻り浜生活諸国点描広島広島(2)

縮景園

   広島城を出て、市内を歩いていると、広島県立美術館があり、その裏に縮景園というものがあった。
  行ってみたが、時間が遅かったのか、門が閉まっていて中には入れなかった。
 

名勝 縮景園

 縮景園は元和6年(1620年)広島藩主浅野長晟が別邸として築いた廻遊式庭園である
 作庭者は茶人としても知られていた家老上田宗箇であるが後の天明の頃(1783年〜88年)藩主 重晟が時代の趣好に合うように京都から名工を招いて修造させ ほぼ今日の規模となった。
 
 園の広さは約4万平方米 景観はどこらか眺めてもよく中国杭州の西湖に似ている
 幾多の景勝を縮めて表現している点に本園最大の特色がある そのため縮景園の称が生じたと云われ古くは御泉水又は東邸とも呼ばれていた。
 中央の大きな池は灌漑池中心をつらぬく石端は跨虹橋といい自然と人工の美の対照を示している その左右には十余の島々が浮かび周囲には かずかずの山渓橋 樹林 田園がたくみに配置され それぞれ雅名が付けられている
 
 日清戦争のとき大本営副営となったことがある
 昭和15年 浅野家から広島県に寄付され同年国の名勝に指定された
 昭和20年8月6日 原子爆弾の投下により壊滅状態となったが広島県では鋭意復旧整備につとめ多くの方々から名勝庭園として親しまれ 今日に至っている。
 
 昭和60年8月
広島県教育委員会
 

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雪椿の乙女

   縮景園の近くの道を歩いていると、この像が建っていた。
 「雪椿の乙女」というタイトルがついていた。
 
 この像が建てられた理由については不明であるが、調べてみると 北九州市戸畑区の美術の森公園やケアハウスボナール十和田という所にも同じ像があり、茂木弘行という彫刻家の作品とのこと。

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折り鶴の碑

   幟町中学校の校庭内の外から見えるところに「折り鶴の碑」とその説明があった。
 

折り鶴の碑

 この「折り鶴の碑」は、日本各地からだけでなく、外国からもヒロシマに寄せられるようになった無数の折り鶴にこめられた平和への願いを、広島の子どもたちが受け止めた証として建立されたものです。
 1955年、広島市立幟町中学校一年の佐々木禎子さんは、突然発病した原爆による白血病のため。12歳の短い生涯を閉じました。級友たちはその死を悲しみ、全国の子どもたちに呼びかけて、1958年、広島の平和記念公園に原爆の子の像を建てました。
 病床で生き抜く希望を折り鶴に託したサダコの物語は、やがて国の内外に広がり、多く折り鶴が広島に届けられるようになりました。
 それら折り鶴の一羽ずつにこめられた願いを、わたしたちは大切に受け継ぎます。
 そして、禎子さんの命日である10月25日には、ヒロシマの子どもの堅い意志をあらわすこの黒御影石の碑に折り鶴を置き、世界に平和を築く決意を明らかにします。
  2000年3月
広島市幟町中学校 生徒会
設計・製作 前川 義春
 

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広島世界平和記念聖堂

   原爆ドームとは離れた街中に広島世界平和記念聖堂があった。

 ここを訪れる人は少ないようであったが、アメリカの女子学生風の人が来ていて、カメラのシャッターを押すのを依頼された。

 日本人より外国人に有名な場所なのかも知れない。


広島世界平和記念聖堂
幟町カトリック教会
Hiroshima Wold Peace Memorial Cathedral


ローマ教皇 平和アピール(抜粋)


広島を考えることは、核戦争を拒否することです。
広島を考えることは、平和に対して責任を取ることです。
     
1981年2月25日
      
ローマ教皇 ヨハネ・パウロ二世
 


世界平和記念聖堂


 広島で被爆した主任司祭のフーゴー・ラッサール(帰化後の日本名・愛宮真備)神父が平和を訴える聖堂の建設を決意し、自ら世界を行脚し、募金を仰いで実現させた。
 1950年8月6日に起工し、1954年8月6日完成。設計は神父の熱意に感動し情熱を傾けた村野藤吾氏。建築面積1,230m2、延床面積2,361m2、塔の高さ45m、パイプオルガンはケルン市から 大小四ケの鐘はボフメル・フェラインからなど各国からの寄贈が多い。
     
 
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旧愛宕跨線橋

 広島駅の東側に愛宕跨線橋というものがある。
 この辺りは電車が頻繁に通り、踏切は閉まっていることが多い。
 人の通行のために設けられた跨線橋であるが、その橋脚の下に「旧愛宕跨線橋」の橋脚等が保存されていた。

 

旧愛宕跨線橋

 旧愛宕跨線橋は、鉄道の南北を連絡する歩行者専用橋として大正14年(1925年)に建設されました。
 昭和20年(1945年)8月6日に、原爆に被災しましたが、その後も風雪に耐え、80年近くの間、多くの市民の方に利用され親しまれてきました。
 しかし、老朽化が進んだことなどから、平成13年(2001年)に解体し、新しい橋に架け替えられることになりました。
 この架け替えにあたり多くの市民の方から「思い出多い跨線橋を部分的にでも保存してほしい」との声が寄せられたことから、旧橋のトラスと親柱の一部を保存することになりました。(右側)
   ※トラス:直線部材で三角に構成された骨組構造
旧愛宕跨線橋の概要 橋長 41.4m
幅員 3.0m
上部工 鋼トラス橋
下部工 鉄筋コンクリート橋台
完成 大正14年(1925年)

 
 旧愛宕跨線橋のトラス部分には古い鉄道レールが再利用されていましたが、解体した時の調査で、レールの刻印から約100年前にアメリカやドイツから輸入された、現在では貴重なレールであることがわかりました。(左側)
  右 カーネギー社製(アメリカ)
  左 ウニオン社製(ドイツ)   
平成15年(2003年)3月
 広島市南区役所
 
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駅前の友元さん

   広島駅の駅前に、狭い通路に沿って多数の商店が並ぶ「広島駅前愛友市場」がある。
 商店と並んででいる一つの区画は神社になっていた。 
 

駅前友元大明神
 (駅前の友元さん)

御祭神  「友元 明」毛利元就公の義弟で
強運、幸運の御神像
御利益   家内安全、商売繁盛、交通安全、
学業成就、招福、災難厄除け、他

 此の神社の由来は、慶安元年(1648)東照宮造営時、猿候川より使用資材の陸揚げ貯蔵と仕分け加工の場所、東松原町(現広島駅正面右位置)に安全を祈願し、当地に神社を祀り、銀杏の木を植樹したとされるが起源で、神皇産神、伊那弟伊那丹二柱の大神、泣澤女神、刺国若姫命、地代主神、そして此里を見守って下さる友元大明神、大正初期に友元明という人(毛利元就公の義弟)をご神体として迎えられ、七柱の神が祀られていました。
 現神像は1931年(昭和6年)旧糸崎鉄道学校校長さんが京都の職人に彫像させたものです。
 そして昭和20年原爆投下一ヶ月前に、信仰お守りしていたお祖母さんの根枕に神像が立たれ、疎開する様にお告げがあり、そして一ヶ月後町並の全てが破壊喪失しましたがこの大災難お免れになった幸運で強運の神様であります。
 

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