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  三原港【新着】(2007/05/09)
     
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三原城跡

 地図を見ると三原駅の北側に三原城跡と記してあった。
 ここには天守台があったようで、石垣が残っていた。
 
 その後、三原の街中でも、三原城の石垣跡を随所で見かけた。
 三原城を突っ切るように鉄道や駅が作られ、三原の街ができたものであった。


天守台石垣         (館町)

 日本一の規模を持つこの天守台は広島城の天守閣なら六つもはいるという広さを持つ。三原城が造られた1567年より約10年後に信長によって安土城が造られ、初めて天守台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に流行しました。然しこの三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想のない時代だったと考えられます。山城から平城に移行する時代のごく初期の城築です。
 この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。しかも余人は真似るべきではないと言われた「アブリ積み」という特殊の工法は、古式の石積形式を四百年経た今日まで立派に伝えております。
 1707年の大地震では、城内を役夫2万5千人を動員して修理した。しかし破損箇所は・・「元のごとく成りがたりしを、伝右衛門(竹原市下市)をして築かしめられけるに、遂に築きおさめければ・・・」とあるが、これは東北陵面のことと推測します。
 

国史跡
小早川氏城跡三原城跡
昭和32年12月11日指定
所在 三原市 館町・本町・城町


 三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆晃が、永禄10年(1567)沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで、天正10年(1582)前後と、慶長元年(1596)のころ偉容を整えたといわれる。
 城は、海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えることから浮城とも呼ばれた。
 小早川氏のあと福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地となったが、沼田川の堆積作用などを理由に変更され、建物・樹木などが競売に付された。その後、鉄道が本丸を貫き、明治27年(1894)6月には、三原駅が開業した。
 今では市街化がすすみ、天守台とそれをめぐる濠、船入跡、船入櫓跡及び本丸中門跡を残すのみである。 
三原市教育委員会
 

 天守台とは三原駅を挟んで反対側にも、石垣が残っていた。




本丸中門跡


 さらに駅から離れた三原港寄りの所にも、石垣の跡が残っていた。

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聖トマス小崎像

   三原港近くの石垣跡の前に、「聖トマス小崎像」が建っていた。


聖トマス小崎少年について

 
「私のこともミゲル父上のこともご心配下さいますな。天国の全き幸福を失わぬよう努力なさいますよう。人からいかなることを受けようと耐え、すべての人に、大いなる 慈悲をかけられますよう。
    陰暦12の月2日 安芸の国、三原城にて」

1597年、豊臣秀吉のキリシタン弾圧において長崎西坂の丘で処刑された殉教者26人の中に、14才のトマス小崎がいた。

京都から長崎へ護送される途中 三原にて伊勢の母マルタに書いた別れの手紙の一部である。処刑後父ミケルの襟元から発見され、その訳はローマに保管され日本26聖人の一人として、世界の人々にあがめられている。

このけなげな少年の心を末永く伝えるために、城址に近いこの地に碑を建立した。
   1993年1月17日
三原カトリック教会
 

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三原港

 
 三原港は駅の近くにあった。
 フェリーが着岸していたが、これには「向田」と書かれており、佐木島を往復するものであった。
 
 三原から出ているフェリーには以下の航路があるようだ。
 
 三原−伯方島(熊口)−今治
 三原−佐木島(鷺)−因島(重井)
 三原−佐木島(鷺)−因島(重井)−因島(土生)−生名島(立石)
 三原−佐木島(向田)
 三原−生口島(沢)−生口島(瀬戸田)−大三島(井口)
 三原−佐木島(向田)−生口島(沢)−生口島(瀬戸田)
 三原−大久野島− 大崎上島(鮴崎・一メ目・天満・沖浦・明石)−大崎下島(大長)

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