PERU ペルー

クスコのインカの遺跡アルバムへ


当日の日記

11月6日 昼前に甲板に上がると禿山の島が目の前に見えた。天然の防波堤・サン・フロス島で本船はカヤオ港に入港態勢である。
少し前ににイルカの大群が見れたらしいが残念ながら一足遅れてしまった。カヤオ港のターミナル売店でアルパカのせーターとTシャツを買う。16:45集合して晩餐ツアーでリマの中心を通り、東南海岸地区バランコ地区にあるLA CANDELAIAと言う店に行って、ペルー伝統ディナーと舞踏ショーを楽しんだ。
ガイドの話ではリマは大変治安が悪く、一人でバス停にいても数人の悪がきに囲まれて持ち物を強奪される危険がある。
夜一人で帰宅するには名のあるタクシーを電話で呼んで貰う。流しのタクシーは危ない、また運転手とて乗客に襲われることがある。
送迎のバスも車内の明かりは消して走っている。フジモリの問題がある時期なので目立たないのが一番らしい。
停泊中の船で寝る。

11月7日 4:10 集合 マチュピチュのツアー、バスでホルヘ・チャベス空港に行きクスコへ飛ぶ。クスコ空港からバスでサン・ペテロ駅へ、クスコは標高3,300mの高地なのでゆっくり歩く。ビスターカーを蒸気機関車が牽引する。4段スイッチバックでクスコの町を見下ろす山を越えてマチュピチュまで下る。アグアスカリエンス駅からバスで空中都市マチュピチュ遺跡へ登る。アンデスの山を渓流が削ったX字谷をいろは坂で上る。絶壁の谷を見ていると霧雨もあってか桂林のようだ。遺跡入り口には立派なレストランがあり、昼食とトイレを済ませると、嬉しいことに晴れ上がってきた。
いよいよ遺跡を歩く、まず左手方面の高いところへ上がるとインティファタナと呼ばれる柱のような遺跡に出る。日時計と考えられているが、このような日時計は遺跡のあちこちにある。それは雲の位置によって日時計が使えないときの予備で、時間の正確な計測は暦を作るのにとても大事なことだったようだ。
すぐ横に関所の建物跡があり復元されている。マチュピチュ山の東から入るインカ道の入り口である。ここから下りてワイナマチュピチュと呼ばれる山方面の神殿や住居跡、段々畑などを見て回った。コンドルの神殿、水道など素晴らしい遺跡にはなぞが多い。一説によれば、インカ以前の高度技術文化の遺跡の上にレベルダウンしたインカなどの遺跡が構築されていると言う。それも氷河時代以前の未知の文明だったと言う説までもある。
遺跡の広場にリャマが放牧されている。リャマは清潔な動物で遺跡を汚さないとのこと。
帰途もビスターカーで晴れていたのでアンデスの雪山がよく見れた。列車の中でアルパカのセータを売るショーがあったが、月明かりの雪山ばかり見ていた。
クスコの手前の駅でバスに乗り継いでレストランに急ぐ。スイッチバックは見晴らしいが時間が掛かるので終点まで乗らない。
レストランでは「クイ」というモルモットの肉やアルパカの肉が名物で民族音楽や舞踏もあるが、高地のせいか食欲がなくクイは余り食いたくなかた。それでもビールとコカサワーだけは飲んだ。

11月8日 ホテル・リベルタードはクスコ最上級でカテドラルのそばにある。インカの神殿をスペインが破壊してその石組の上にキリスト教の教会を建ててしまった所だ。クスコの町の道路や建物の下部はインカの石組が残っている。
バスでクスコの丘の上のサクサイワマン遺跡に行く、ガイドブックにはインカがスペインと戦うために造ったとあるが、ガイドの説明によればもともとは神殿でスペインとの戦争で砦になってしまったのだ。嗚呼悲しいインカの最後!
さらに上になぞの遺跡があり、建設された目的が解明されていないそうだ。さらにその上の丘にインカ道の関所の遺跡があった。
市街地のホテル付近に戻って、カテドラルを見学した。インカのピコチャ神殿をスペインが破壊してその石組の上にキリスト教の教会を建てたが、下部の石組みの保存がよく、インカの文化をよく伝えている。カテドラルの下にはアルマス広場があり、クスコの観光の中心になっている。
典型的なインカの石壁も同じところにあった。かみそりの刃が入らない精巧な石組みである。
空路リマに戻る。急激な高度変化で耳が痛い。何度もつばを飲み込んだ。
リマのミラーフローレンス地区でインディアンマーケットで買い物。夜9時出港

ペルーのガイドとフジモリ前大統領

クスコでは日本語が話せる現地人ガイドが付いた。インディオの血が多い混血の女性で非常に熱心にガイドしてくれた。日本語は3週間しか習っていない。日本大使館と有志などで創った日本語学校に入ったが、生徒が少なすぎて廃校になってしまたからだ。しかたがないのでフランス語と英語を大学で学びガイドの資格を取った。、日本語を覚えたくてガイドの仕事をしながら独自で勉強したと言う。
町で日本人を捕まえては日本語の1節を教えてもらい、帰りのバスで暗唱して、翌日にはその文節を使って、日本人に話しかける繰り返しだったと言う。なんという健気さか、感動のあまり涙が出てしまった。
現地のケチュア語はウラル・アルタイ系で日本語と文法が同じで、単語も似たものがあるらしい。この点は有利だったのだろう。
あるときフランス語のガイドをしていたら、別の日本人グループが買い物に困っていた様子なので手伝ったら、大変感謝され日本に招待旅行をプレゼントされた。日本流の大変忙しい1週間の旅行だったが楽しかったと言う。日本語でガイドができるようになった幸せですと言い切った。
彼女が言うのには日本人は礼節を尊び、まわりの人に気配りができる美徳を持っているが、ペルーの人にはそれがない。インカの時代はその美徳があったのだが。

折しも、フジモリさんがチリーで身柄を拘束されて、身柄の引渡しを要求するデモとフジモリを支持する政党の集会が繰り返されていた。彼女以外のガイドもフジモリ贔屓で、絶望的だったインフレを抑え、教育に熱心だったフジモリを待望している。
ピースボートではフジモリの人権問題を取り上げ、裁判にかけろと言う主張が大勢であるが、それでいいのだろうか、アングラ経済、マフィア等がはびこるペルーを立て直すには、それだけの指導力(強権)が必要だったと思っている。
吉川英治が描く三国志で劉備が蜀を乗っ取ったあと、丞相・孔明の余りにも厳格すぎる執政に、もうすこし穏やかにできないものかと注文をつけるくだりがあり、孔明は「前帝があまりにも甘い政治で蜀の国はダメにしてしまった。これに代わる政権は厳しすぎる位で丁度よいのです」と答えている。これを全体主義というのかも知れないが、多くの国民はフジモリで幸せになりたいのだ。改革を嫌う抵抗集団はどこにもいるものなのである。

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