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徳島県/徳島市


徳島城址 【更新】(2005/07/10)
   
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徳島城址

 徳島駅の裏側(北側)に徳島城址がある。
 
 電車の待ち時間に歩いてみた。

徳島城鷲の門

 徳島城(別名 渭津城)は、天正13年(1585年)に阿波に入国した蜂須賀家政が築城した屋形造りの平山城であった。幕藩時代を通じ蜂須賀家が14代にわたって居城し、二百八十余年の間、阿波・淡路両国25万7800石を支配した。
 鷲の門は、この徳島城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、その造りは脇戸付きの薬医門であった。
 幕府に鷲を飼うからと申し立て建造したところから鷲の門の名があると伝えられている。 廃藩置県の後、城郭の建造物は取り壊され、唯一残された鷲の門も昭和20年(1945年)7月4日早暁の徳島大空襲によっって焼失した。
 現在の鷲の門は、平成元年(1989年)9月27日、徳島市制百周年を記念して、吉井ツルエ氏(徳島市出身)より復原寄贈されたものである。
徳島市
 

徳島城


 徳島城は、天正13年(1585年)に阿波国(17万6千石)の領主となった蜂須賀家政(1558〜1638)によって建設されました。築城にあたっては、天下人豊臣秀吉の銘により伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力しました。
 徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城でした。徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸、南麓の御殿(一部は現徳島城博物館)、西麓には隠居した藩主等の住んだ西の丸からなる平山城でした。
 藩主が暮らしたのは、天守のある城山ではなく麓の御殿でした。御殿は藩主の居間や藩主が家臣たちを引見する広間(121.5畳)や大書院(110.5畳)のほか、重臣たちの詰めた部屋のあった「表」と藩主の側室・子どもとその身の回りの世話をした女中たちが住む「奥」に分かれていました。「奥」は藩主とその家族以外の男子は入ることができませんでした。
 藩主の居城として徳島藩のシンボルであった徳島城は、明治になると役目を終え、明治8年(1875)に解体され、現在では石垣や表御殿の庭園を残すだけとなりました。
 
   徳島城址の中に、徳島市立徳島城博物館がある。
 徳島藩と蜂須賀家に関する歴史資料が展示公開されているようであるが、中には入らなかった。

 徳島城址の中に、徳島城を築城した蜂須賀家政の銅像が建っていた。
 

蜂須賀家政公銅像

 
 蜂須賀家政公(藩祖)は、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定の大功により阿波一国をたまわり、天正14年(1986)に一宮城から中世に築造された渭津城を修築して徳島城とし、藩政の中心地とした。入国の後は、藍、塩などそれまで阿波になかった産業を取り入れ、新しく製塩、製藍など工業を起こし盛んに日本中に売り広めた。また、全国でも有名な阿波踊りも家政公時代に始まったと伝えられる。
 戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝公(家祖)の銅像が立っていたが、戦時中に供出されてしまった。それが昭和40年(1965)に裃姿の家政公の銅像に生まれ変わった。
 ・台石  高さ2m。幅1.8m
 ・銅像  約2m
 ・竣工 昭和40年1月1日
徳島市公園緑地課
 
 徳島城址の中に、蒸気機関車が保存・展示されていた。


ICテンダ機関車 8620形式 68692号

全長 6m765    石炭積載量 6t
全巾 2m581    水槽容量 120m3
全高 3m785    動輪直径 1m60
運転整備重量 82.33t    使用圧力 12.0kg/cm2
空車重量 60.04t    ブレーキ装置 空気ブレーキ
最高速度 90km/h    シリンダ直径・行程 470×610mm
馬力 650馬力    製造年月日 大正12年1月6日

走行行科/3,1769439科 地球約79周
使用期間/自 大正12年11月6日〜至 昭和45年1月7日

製作所/日立製作所
 

竜王さんのクス

 
 「竜王さんのクス」は、城山で最大のクスノキの古木で、樹齢推定600年くらい。昭和9年(1934)の室戸台風で倒れた。
 この大クスから西へ100メートル、低い石垣の上の小平地に竜王神社があったことから、「竜王さんのクス」と呼ばれている。竜王神社は、明治8年(1875)の徳島城取り壊しのとき、眉山の麓にある伊賀町1丁目の国瑞彦神社に合祀された。
樹齢  推定600年程度
樹名  クスノキ(もくれん目・くすのき科・クスノキ属)
暖地に自生及び植栽される常緑高木。高さは20m以上、直径2mに達する。
 
徳島市公園緑地課
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