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新潟県


上越市   高田城跡 【更新】(2005/01/18)
     
長岡市   西谷鉱泉 【更新】(2008/05/21)
     
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高田城跡

   
 新潟県上越市の高田に出かけたことがあった。
 雪の高田の街を歩いき、高田城に行ってみた。
 
 城址にある城らしき建物は、三重櫓というものとのこと。
 
 この三重櫓は、文書や古絵図、発掘調査による資料をもとに平成5年に復元されたもので、中は展示室と展望室になっているらしいが、行った時には開いていなかった。
 


 さらに奥に入ると、本丸跡の説明板があったが、本丸の跡地は、今では上越教育大学附属中学の敷地になっていた。

本丸跡

 
 高田城は慶長19年(1614)、高田の菩提が原の地を主郭に徳川家康の6男松平忠輝が築城した78万石の大規模な近世城郭であった。
 本丸は内堀(薬研堀)と塁に囲まれ、現状では堀幅40〜50m、平均水深5m程あり、塁は高さ10m前後で総長約1.000m、石を用いず2ヶ所の内桝形門と1ヶ所の内カギ形門を挟んだ囲み土塁である。
 現在の本丸内郭跡は東西215m、南北228mの広さで、この中に城主の御殿や多くの建物が存在していた。
 天守閣を造らず、塁上には南西隅の三重矢倉を「御三階」と呼んで城のシンボルとし、他に多門櫓2棟、矢倉台1ヶ所、御茶屋台1ヶ所などが設けられていた。
 この高田城も、寛文5年(1665)の高田地震、宝暦地震(1751)、善光寺地震(1847)及び享和2年(1802)の火災等にあい、その都度規模が縮小されたが、明治3年の火災によって再び焼失し、以後再建されなかった。
 高田城は、慶長19年から8家18代の城主が交代し257年間続いたが明治4年にその幕を閉じた。
 明治41年、第13師団入城の際に土塁の切りくずし等で城跡は変形したが、基本的な原形は保存されており、新潟県の史跡に指定されている。
 
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西谷鉱泉

   新潟県長岡市の西谷鉱泉の宿に宿泊した。
 
 その宿の玄関に、止まった時計が掲げてあった。


 平成16年10月23日 


 揺れに揺れた
  その時を刻み

 その後
  時を刻み忘れた
   時計です
 
 

 中越地震の被害の大きかった場所であり、近くで崖崩れの復旧工事が行われていた。
 この宿も被害を受けて修復してから再開したらしい。

 この中越地震の時には、千葉県の自宅に居たが、関東でも大きな揺れを感じた。
 確か、土曜日の夕方だったという記憶があるが、2004年(平成16年)10月23日(土)午後5時56分が発生日時であり、この時計もその時刻で止まっている。

 
西谷鉱泉の浴室前に、明治10年の日付の入った分析表と効能書きが掲げられていた。

 
 
 当時は、温泉の分析を警察部が行っていたらしい。
 
 陽イオン/陰イオンより、カチオン/アニオン の方が通じたのだろうか?。
 
 

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 当鉱泉は桃園天皇の御守宝暦年間の発見なり
  温度・華氏68度

入浴度数
 虚弱者及老人小児は一日二回・壮者は三回乃至五回

試験成績
 本鉱泉は無職透明にして微に硫化水素臭を有し
比重は摂氏15度に於て1.002を示し 反応は微アルカリ性なり
 今之れか分析を施行するに本泉1キログラム中含有する固形物の総量は0.2296にして其の「イオン」及塩類左の如し

(カチオン)カリウムイオン
0.0083
ナトリウムイオン0.0148
フェロイオン0.0005
マグネシウムイオン0.0030
カルシウムイオン0.0231
アムモニウムイオン0.00013

(アニオン)クロールイオン
0.0104
硫酸イオン0.0288
硝酸イオン0.0129
ヒドロ炭酸イオン0.0499
水硫イオン0.0096

以上「イオン」を結合せる塩類は左の如し
クロルカリウム0.0004
硝酸カリウム0.0210
クロールナトリウム0.0165
硫酸カルシウム0.0408
クロールアムモニウム0.0004
重炭酸カルシウム0.0449
重炭酸マグネシウム0.0180
重炭酸亞酸化鉄0.0016
水流化ナトリウム0.0201
ヒドロ硅酸0.0223
遊離炭酸0.0223
遊離硫化水素0.0036
ラヂウムエマナチオン5.4キュリー

以上分績によれば本鉱泉は硫黄泉に属し
医治効能概略左の如し

 胃病・リウマチス・ヒフ病
 子宮病・ぢ病・ゼンソク
 火傷・切傷一切
・其の他 マムシ・ドク虫にさされるに特効あり

入浴の際は冷水にて浴後首筋を冷すべし
以上


明治10年11月20日

新潟警察部
 
衛生部技師八十川栄太郎
 村田政春
  
 

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