東人の出戻り浜生活近隣散策習志野市(5)

習志野の近代

 
 京成の大久保駅から日大生産工学部の方に続く商店街の中に、「お休み処」というものがあり、その中に習志野の歴史についての説明や地図、写真等が掲示されていた。
 
 日本大学や東邦大学のキャンパスも、かつては騎兵連隊のあった所とのこと。

習志野の近代

 ことし市政50年を迎える習志野は徳川幕府直轄の放牧場だった歴史を経て、明治5年に日本国軍隊が創設され、習志野に騎兵隊の四個連隊が設営され、続いて騎兵砲連隊、鉄道連隊も設営され、習志野は他にみない一大軍都を形成しておりました。

 日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争に従軍した陸軍部隊と共に、明治、大正、昭和にわたって発展した習志野は昭和20年8月の敗戦で崩壊しましたが、やがて日本大学、東邦大学、千葉工業大学のキャンパスが広がる学園都市として発展してまいりました。
 その後埋立地への団地建設や習志野高校の二度に亘る甲子園優勝の名声と重なって人口が飛躍的に増大し今日に至っております。
 
     
騎兵第13連隊の跡地にある
東邦大学キャンパス
現在の日本大学生産工学部には
騎兵第14連隊があり、後に戦車第2連隊となった。
騎兵第15連隊の跡地は
東邦大学付属中・高校・習志野警察署などになっている。


 大久保にあった騎兵旅団司令部

騎兵連隊・旅団司令部跡

   
 大久保の八幡公園には、煉瓦の門柱が残り、公園内に「騎兵連隊・旅団司令部跡」の説明があった。
 

騎兵連隊・旅団司令部跡

 
 明治初頭より旧陸軍の演習が行われていた小金原は、同6年(1873年)明治天皇行幸の祭に「習志野原」と命名されてから、周辺に軍隊が急速に創設され、それにともない拡張されてきました。
 明治32年、日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設され、同34年には大久保に転営して、現在の東邦、日本大学付近に第13・14連隊からなる第一旅団と、東邦中学校・高校附近に第15・16連隊からなる第二旅団がおかれました。
 さらに、八幡公園・習志野郵便局の地に旅団司令部がおかれました。
 日露戦争(明治37〜38年)の折には、両旅団が派遣されましたが、満州事変(昭和6年)・支那事変(同12年)には第一旅団が派遣されました。この頃より軍隊の機械化がすすみ、騎兵連隊は装甲部隊に最編制されていきました。
 第二次世界大戦後、連隊跡は学校に、旅団司令部本部の建物は郵便局になり、八幡公園にあった司令部の講堂には、私立大久保保育園が開設されました。この保育園は昭和24年(1949年)津田沼町に移管されて、本市第一号の公立保育所となり、昭和40年、泉町三丁目に移転しました。
 昭和56年12月
習志野市教育委員会
 


習志野騎兵旅団発祥の地

騎兵第一旅団司令部跡

軍馬之碑