東人の出戻り浜生活諸国点描京都府


京都府


京都市 琵琶湖疎水 【更新】(2006/09/06)
  坂上田村麻呂の墓 【新着】(2006/06/19)
  中臣遺跡 【新着】(2006/07/28)
     
→諸国点描に戻る
  

琵琶湖疎水

   
 京都の山科に移動した日に少し時間があったので辺りを歩いてみた。
 京都の地下鉄の東西線にて、山科から京都寄りに一駅隣の「御陵」まで地下鉄で行き、駅を下りると、琵琶湖疎水散策コースとの表示があったので、そちらの方向に歩いていった。
 坂道を登っていくと、永興寺の駐車場に出た。 
 その近くに、琵琶湖疎水が流れていた。 疎水は永興寺の辺りでトンネルの中に入っている。
  
 琵琶湖疎水に沿って散策道が整備されていた。
 流れの上流の方向に歩いていった。
 
 琵琶湖疎水は流れの速い水路で、直進したり。曲がったり、水路幅が少し広くなっている所もあった。
 
 疎水の途中にはいくつかのお寺に続く橋が見られた。
 これは、琵琶湖疎水が山の中腹を横切るように作られているため、山側に設けられたお寺の参道を横切ることになったものであろう。
 
 

→戻る
 

坂上田村麻呂の墓

 
 京都は史跡が至る所にあるが、仕事で出かけた所の近くの児童公園の中に、「坂上田村麻呂の墓」があった。
 
 場所は、京都の地下鉄の東西線 椥辻駅(山科区役所前)から西に徒歩10分ぐらいの所。
 児童公園には「坂上田村麻呂公園」とかの名前がついていて、墓の周囲は立ち入りができないように囲われていたが、周りでは子ども達が遊んでいる普通の児童公園であった。

 写真を撮っていると、子ども達に不思議そうに見られてしまった。
 
 墓は塚になっていて、田村麻呂は甲冑を身につけて立った姿で埋葬されているとのこと。

 坂上田村麻呂の墓
 
 この墓には、平安前期の武将坂上田村麻呂を葬っている。
 田村麻呂は、奈良時代の武将坂上苅田麻呂の子。
 延暦20年(804)、当時の日本では大きな問題となっていた蝦夷地を平定するため征夷大将軍に任命され、遠く陸奥に出兵し、これを治めて大変な功績をあげた。
 
 京都にあっても弘仁元年(810)の薬子の乱などに活躍し、官職は右近衛大将にいたった。
 弘仁2年5月23日死去、54才。
 この地で葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅によって甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺に収められ、平安京にむかって立ったまま葬られた。
 
 田村麻呂はまた仏教の信仰も深く、清水寺を創建したことでも有名である。
 
 なお、この墓地は、明治28年平安遷都千百年祭にさいし整備されたものである。
京都市
 
→戻る
 

中臣遺跡

   
 坂上田村麻呂の墓京の近く、勧修小学校の入口の脇に石碑が建っていた。

 
この
附近 
中臣遺跡
  
 「この附近」とは何とも漠然とした表現であるが、安祥寺川と山科川に挟まれた地域のようで、その中心にある小学校の敷地に石碑を置いたのだろう。
 
 旧石器時代後期から室町時代までの集落遺跡で、古墳や竪穴住居跡が認められたそうであるが、宅地開発が進んで、その面影は残っていない。
  

→戻る