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八戸


八戸駅 【新着】(2004/09/06)
えんぶり 【新着】(2004/11/20)
天長地久七福神 【新着】(2005/01/01)
八戸城跡 【更新】(2004/10/04)
旧川内屋橋本合名会社社屋 【新着】(2004/10/10)
朔日町 【新着】(2004/10/15)
   
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八戸駅

   東北新幹線の終点の八戸駅は新しい駅である。
 かつては、尻内駅という駅であり、東北新幹線が開通するにあたりここが八戸駅となった。
 八戸駅に隣接してユートリー(八戸地域地場産業振興センター)やホテルがあるが、駅の周囲はやや寂れており、古くからの八戸の中心は、ここから八戸線で二つ目の本八戸駅の周辺になる。

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えんぶり

   八戸駅の改札口には、「えんぶり」と書かれた人形が展示されている。
 
 「えんぶり」とは、約八百年の伝統のある八戸地方の行事で、重要無形民俗文化財となっているものである。
 古来、八戸地方の農家では、小正月の夕方、その年の豊作を祈願して「えぶり」という農具を手に持って舞ったことから、「えぶり」が訛って「えんぶり」になったといわれている。
 
 毎年 2月17日〜20日の4日間 、八戸市中心街にて開催される行事であり、2月17日早朝、長者山新羅神社に集い、舞を奉納、行列を組んで市内を練り歩き、そのあと各戸を回り祝うという。  

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天長地久七福神

 八戸駅前にユートリー(八戸地域地場産業振興センター)がある。
 ユートリーの建物内には、地場産品の展示・販売・実演場や催物に利用できるホール、伝統工芸室、研修用の会議室や宿泊施設などがあるという。
 ここの一階には土産物が売られているが、同じフロアに、賑やかな人形が飾られていた。
 「天長地久七福神」と書かれた説明があった。
 

題名「天長地久七福神」

 
天長地久即ち
 天は永遠(とこしえ)に、地は久しく永久に国土が豊かに栄え、両陛下の万歳を寿ぐ(ことほぐ)言葉である。
 福の神である七福神が、豊かな海の幸を漁(すな)どり、内裏(だいり)さま、おひなさまにお祝いを申し上げている場面である。
 女官や、楽人(がくじん)、舎人(とねり)なども、祝いの唄に、
 たのしいおどり、
 恵比寿様にはめでたい大鯛(おおだい)が網にかかり、七福神もみな、豊かな海の幸に、人々の幸せと、国土とゆたかな発展そして両陛下の長寿万歳を祝っている。
 この山車(だし)は平成2年7月に三沢市で開催された「全国豊かな海づくり大会」で両陛下に御高覧戴くため特別に制作した。
 
八戸三社大祭の由来
 二百七十年余の歴史と伝統を誇る東北地方屈指の華やかな祭り。
 江戸、京都方面から買い入れた人形を台の上にのせ、掛け声も勇ましく練り歩いたのが事の起こり。
 時代とともに趣向と工夫をこらし、各町内が絢爛豪華さを競って山車づくりをするようになった。
 山車の題材は、主に神話、伝説、歌舞伎物、史実、童話や妖怪物等で子供から大人まで毎年新しい趣向の山車がたのしめる。
 お囃子(はやし)の大太鼓、小太鼓の勇ましい連打と絶え間ない笛の音色に加え、引き子の元気いっぱいの掛け声が独特の情緒をかもし出している。
 
 三社とは、おがみ神社、新羅神社、神明宮のことである。
 この祭りの日程
 7月31日に行われる前夜祭、市庁前に出し集結(午後6時から)
 8月1日のお通り、神輿と山車の合同運行(午後3時から)
 8月2日中日(なかび)、山車の合同運行(午後6時から)
 8月3日のお還り、神輿と山車の合同運行(午後3時から)
 
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八戸城跡

 本八戸駅の近くの小高い岡の上に三八城(みやぎ)公園があり、かつてはここに八戸城があったという。
 公園には、南部藩の初代城主 南部直房公の像が建っている。
 
 

 八戸城跡の中に三八城神社という神社があり、そこに弁慶石というものがあった。 

義経北行の旅案内板について


 この地方には、源九郎判官義経が平泉を脱出し、北へ向かったという語り伝えがあり、八戸市内にも義経の北行にまつわる伝説を裏付ける多くの地名や品々が残っている。
 これらの紹介が歴史ロマン散策の資となることを願って市内伝説の足跡十六カ所に案内板を設置した。

三八城山と弁慶石


 義経が、高館の御所から見渡して、馬淵川の東の野原を京が原ヶ原と名付け、また京ヶ原の北の州崎を京ヶ崎と命名したのが、今の三八城山である。足下のこの大きな石は、弁慶石と呼ばれ、昔は境内南側のコブシの木のあたりに置かれていたという。
 石のところどころが、人間の大きな足形のようにくぼんでいるのが、力自慢の弁慶が岩にしるした足型といわれている。
社団法人 八戸観光協会
 
 

 八戸城跡から道路を隔てた所に古い門が残っていた。 

県重宝
八戸城角御殿表門

 
 ここは、寛政年間には角御殿(すみごてん)と呼ばれていた。寛政4年(1792)御者頭煙山治部右衛門がここに居住し、八戸城にふさわしい門と玄関を建てるよう命ぜられた。門はその5年後に建てられ、その時の棟札が残されているが、資金繰りの苦心談が八戸藩日記にうががわれる。
 
 昭和53年、風雪のため倒壊したとき、毘沙門天像が門の冠木の中央から発見された。像高3.6メートルの小さなものであるが、精巧な像で、棟札にも「奉修毘沙門天秘法」とあるから創建時のものであることが知られる。この寛政9年の棟札の他に、 嘉永4年(1851)、明治42年(1909)修理の棟札もある。
 
 昭和55年、創建当時の形に復原した。門の構造は棟門 といわれ、通常は二本の柱の上部を冠木でつなぎ、切妻屋根をのせるものであるが、この門の場合は、四本の柱を一列に並べて冠木でつなぐ大規模なもので、平衡を保つため裏側に二本の支柱を取付けるいる特異な構造となっている。
 
 昭和57年3月
八戸市教育委員会
 

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旧川内屋橋本合名会社社屋

 八戸の市街地を歩いていると、登録有形文化財の表示のある建物を見かけた。
 
登録有形文化財
第02-0002号
この建造物は貴重な国民的財産です。

文化庁

 
 


旧河内屋橋本合名会社 社屋
 

 大正13年の大火で市の中心街が焼失。河内屋も被災しましたが、営業再開のためいち早くこの社屋を再建。大火後の八戸復興のシンボル的な存在となりました。
 アールデコ調の洋館は昭和初期の建築様式を伝えるものとして、国の登録有形文化財となりました。
 
 
 

朔日町

 八戸の市街地の中で、一松堂医院のという所の前に町名についての由来が書かれていた。
 

「ここは朔日町(ついたちまち)」

 
 八戸の町は、かつて二万石の城下町でした。
 町の中には「日にち」のついて町名があります。
 その日にちの当日には、毎月「市」がたって、その町がにぎわうように、配置されたと云われています。
 ここ朔日町は、城下町の中心街に近く、元禄5年(1693年)に移転してきた来迎寺と共に、鍛冶屋や車大工、蹄鉄やさん等の職人の町でもありました。
 西どなりが六日町(通称さかな町)、東どなりが十一日町(通称塩を売る店のある塩まち)の間にあり、輸送業を営む人もいて栄えていました。
 戦後このあたりの様子は変わりましたが、ここには明治9年(1876年)に創設され、百二十年余りの歴史を刻む一松堂(種市)医院があります。医院は、五代にわtり家業を受けつぎつづけ、やさしい大黒様と因幡の白兎の絵は、医院のシンボルとして知られています。
 ここ朔日町の表通りは八日町です。八日町の八と朔日町の一をたすと、九になります。九は易学上で採鉱の数字と言われ、八戸の城下町の表通り裏通りの数字をたすと、九になるように配置されているのも興味深いことです。
 なお、「文久改正八戸御城下畧図」は、文久年間(1861〜1863年)に描かれたもので、現在八戸市立図書館に所蔵されています。
 
郷土史家  正部家 種康
 
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