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歴史の散歩道コース


 船橋市の街中の公園に「歴史の散歩道コース」という看板があった。
 マンションが乱立している船橋市であるが、古いものも散在しているようで、探訪していこうと思う。

歴史の散歩道コース

 船橋宿の中心は、船橋大神宮の門前町として発達した本町通りです。本町通りは海老川をはさんで五日市と九日市にわかれます。
 この地名は、昔、市がたったなごりですが、江戸時代には、旅籠や商店・民家がたちならんでいました。
 
 本町通りの北側にある御殿通りの名まえは、この道に面して将軍家の船橋御殿が建てられたことに由来します。
 この御殿に徳川家康と徳川秀忠が宿泊し、東金・佐倉地方に狩りに出かけています。
 現在、この跡地の一角に日本一小さな東照宮がまつられています。
 
 また本町通りの南側、本町3丁目西部には寺院が多く寺町になっています。
 さらに海老川河口は、河岸や漁港に利用されました。
 

船橋大神宮

 
 船橋市の街中を通る本町通りを東に進むと、大きな神社に辿り着く。
 ここが船橋大神宮であり、本町通りはこの神社の門前町として発達したものという。
 本町通りの少し北側に御殿通りと呼ばれる通りがあり、本町通りや御殿通りに沿って、古い神社などが点在している。
 


 船橋大神宮(意富比神社)由来
 
 景行天皇の御代四十年に皇子日本武尊が東国御平定の途次此の地に到らせられ、伊勢皇大神宮の御分霊を奉斎なされ、同五十三年に、天皇御東行の砌、日本武尊の御事跡を御追憾意富比神社の称号を賜る。
 後冷泉天皇御代天喜年間には源義家、頼義両朝臣当宮を修造せられ、亦、仁平元年には船橋六郷の地に御寄附の院宣を賜り、源頼朝之を奉じて当宮を再興、其の文書には船橋伊勢皇大神宮とある。
 日蓮上人は宗旨の興隆発展成就の為当宮にて断食祈願を行い、徳川家康公は仕須を寄せられ奉行をして本殿、諸末社を御造営せしめ 近く明治天皇陛下には習志野、三里塚へ御幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奉尊遊ばされる。
 
 現在の御社殿は維新の戦火に罹災後、明治七年に本殿、同二十二年に拝殿が竣工し以後大正十二年、昭和三十八年、同五十年に各々 社殿、末社、鳥居、玉垣等に至る迄の大改修或いは御神泉の奉納、灯明台(県民族資料指定)の修復等を経ている。
 
 昭和五十六年十月二十日  宮司  誌
 
 

市指定文化財(無形民俗)
船橋大神宮の神楽
1995年(平成7)6月26日指定

 平安時代の史書「三代実録」には「下総国意富比神」の名が見え、「延喜式」には「意富比神社」の名がある。この意富比神(おはひのかみ)は船橋大神宮(意富比神社 おふいじんじゃ)の前身である。
 神楽は正月、節分、10月20日の例祭、12月の二の酉に、境内の神楽殿で演じられ、4月3日の水神祭には船橋漁港でも行われる。伝えているのは船橋大神宮楽部の人達で古くからの習わしにより、谷津の人も参加している。
 現在伝えられている演目は次の10座である。
 @みこ舞  A猿田舞 B翁舞  C知乃里舞 D天狐舞 E田の神舞  F蛭子舞(恵比寿舞) G恵比寿大黒舞  H笹舞 I山神舞
 このうち恵比寿大黒舞は節分祭でのみ演じられる。
 使用する楽器は舞楽に用いる楽太鼓と大拍子(締太鼓)、笛 各1である。神楽の由来はよくわからないが、曲目の構成からみて、12曲を基準とする「十二座神楽」の系統であると考えられる。
   
船橋市教育委員会

 
 

千葉県指定有形民俗文化財 灯明台 一基
昭和37年5月1日指定

 
 意富比神社境内にあるこの灯明台は、古くから海上で生活をたてていた人々の神社信仰と航海の安全のため浄財を集めて建設されたという。
 明治13年10月から明治28年10月までの15年間にわたって点灯され、当時としては最も優れた私設灯明台の一つであっった。
 建築は木造三階建で高さは12メートル、一、二階は日本の城郭風の建て方、三階光源用の塔は、近代的六角形の洋式で和洋折衷形である。また、建物内に管理人を宿泊させる宿舎があるのも珍しい。
 光源は八分(約2.5センチ)の太いしんを使った石油ランプ三個を反射鏡で反射させたもので、6マイル(約10キロメートル)先までとどいたという。
 明治に作られた木造の灯明台では規模も大きく、東京湾最古のものであり貴重な文化財である。

 昭和57年3月4日
   
千葉県教育委員会
船橋市教育委員会
 

御蔵稲荷

   御殿通りに面した公園の隣に御蔵稲荷という赤く塗られた神社がある。
 
 祭神は宇賀總神(作物、食物の神であり、土地の守護神)
 徳川三代家光の正保年間に、飢饉に備え穀物を蓄えておく郷蔵が建てられ、この蔵(御蔵)のお陰で延宝、享保、天明の飢饉にも餓死したものはいなかったという。
 その後、御蔵は出水で消失したが稲荷祠の社殿として再建された。
 
 この近くに住んでいた太宰治は、この御蔵稲荷を好み、その作品にも書き残し、御蔵稲荷を背景にした口絵写真も使っている。

船橋御殿跡と東照宮

 御殿通りから北に入る路地の奥に小さなお宮があり、「船橋御殿跡と東照宮」の立て札が立っていた。
市指定文化財(史跡)
船橋御殿跡と東照宮

1965年(昭和40)3月17日指定

 
 徳川家康は狩猟を好み、各地に狩猟用の「お茶屋」又は「御殿」とよばれる休憩所や宿泊所を建てさせた。
 慶長19年(1614)家康は上総土気、東金で狩猟を行ったが、船橋御殿の建造もその頃であろうと推定される。
 家康は元和元年(1615)11月ここに宿泊した。家康の宿泊はこの一回だけであったが、秀忠はその後狩猟のたびに立ち寄ったと考えられる。
 将軍家の東金狩猟が寛永7年(1639)頃に終止した後も船橋御殿は存続していたが、寛文末年頃(1670年代)に廃止となったようである。
 船橋御殿の面積は約404アールで海老川西側の土手に囲まれた地域であった。
 その後、この地は大神宮宮司の富氏に与えられ、開墾されて畑地となった。
 東照宮は富氏が建立したもので、この場所が御殿の中心であった場所であると伝えられている。
1992年3月
船橋市教育委員会
 

厳島神社

   本町通りに面したところに、「厳島神社」と書かれた小さな神社を見かけた。

 広島県宮島の厳島神社から分神したものらしい。
 
 
 


商店

   本町通りは、江戸時代には、旅籠や商店・民家がたちならんでいたというが、今ではビルが建ち並び、その面影を残す物は数少ない。
 
 そのような中で、古い木造の商店を数カ所残っているのを確認した。
 
 
 


道祖神社

   船橋駅の南側、細い道を抜けたところに道祖神社という神社がある。
 詳細は不明。