東人の出戻り浜生活諸国点描秋田


秋田


かまくらの里 【新着】(2004/12/19)
かまくら館 【更新】(2005/01/31)
旧日新館 【新着】(2004/12/23)
横手城跡 【新着】(2005/01/02)
石坂洋次郎文学記念館 【新着】(2005/02/09)
   
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かまくらの里

   岩手県の横手市には、駅前に「北国のメルヘン かまくらの里 横手」と書いてあった。
 
 2月の中旬には「かまくら祭」というものも開催されるほどの、豪雪地域である。
 
  
 駅前に雪に埋もれた自転車があった。
 自転車で駅まで来ていた人も、雪が降り出すと自転車を雪解けまで動かせなくなるのだろうか?。
 
 そんな雪国の横手市内を歩いてみた。
 


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かまくら館

   市役所に隣接したところに「横手市ふれあいセンターかまくら館」がある。

 横手でも、2月の中旬の「かまくら祭」以外では「かまくら」を見ることは難しいが、ここには、マイナス10度前後の大きな冷凍室があり、中でかまくらの体験が、一年中できるようになっている。


かまくら館の中に、この地域に伝わる梵天というものが展示してあった。

梵天

 約二百五十年の伝統と伝えられる横手梵天は、市の東南3qほどの旭岡山に鎮座せる旭岡山神社初縁日(17日)の祭典に奉納する幣物の一種である。
 
 この神社は、今から千百八十年前(大同2年)坂上田村麻呂によってご祭神「天忍穂耳命(あめのあしほみみのみこと)」が戦勝祈願、地域開発のため勧請されたのに始まり、以来、勝運招福の心願成就の神として信仰を集めておる県内屈指の社である。
 
 梵天は、もともと祭りにあたって神霊が降臨するための標示物、依代(よりしろ)としての「ポデ」より出た言葉であり、それ自体神霊の宿れるものであって、大きな御幣形のものを意味するものである。
 幣は、神々に献ずる最上の礼物を意味し、元来、絹、木綿、麻等々を献ずることになっていたものであるが、時代の変遷とともに今日のように様々な布等にかわってきた。
 


梵天

 
 梵天奉納は予祝行事の一種であり、年の初めにあたり、五穀豊穣、町内安全、商売繁盛、交通安全、除災招福等々様々な願いがこめられ、無事奉納の際は、その年の幸運が授かるとあって社殿での押し合いは、先人を競っていやが上にも激しさを増す。
(旭岡山神社宮司)
     
 梵天コンクール2月16日 梵天奉納2月17日
 本体の高さ約5M 重さ30kg 直径約1.2M
製作 本町組
        
 
 
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旧日新館

 横手市の市街地から横手川を渡ると、「旧日新館」という標識があり、その方向に行ってみた。
 坂道を上がったところに旧日新館という明治期に建てられた、秋田県指定文化財となっている洋館があった。
 
 


旧日新館     一棟
 
昭和59年3月10日指定
所在地 横手市城南町7番1号
所有者 鶴岡功子

 旧日新館は、明治35年(1902)小坂亀松が横手中学校(現在の横手高校)の英語教師として赴任したアメリカ人チャールス=チャンプリンの住居として建てたもので、大工棟梁は藤村初五郎である。
 この建物は、木造二階建・建築面積98.0平方メートルである。屋根は寄棟造 柾板葺(現在は鉄板葺)で、棟端部などに鬼板をあげていた。外壁は下見板張りで、素木造の簡潔な住宅である。北側正面の玄関バルコニーの独特な柱頭飾りや上げ下げ窓の上部の櫛形、下部の繰り形状の飾りなど、デザインがすぐれている。内部は一・二階とも中央に廊下をとり、一階は応接室・食堂などとし、二階は寝室・書斎などの私的な部屋として利用された。狭い屋根裏にもかかわらず、小屋組の中央部には様式の工法を取り入れている。
 この建物は、県内に残る明治時代唯一の木造洋風住宅で、秋田県の近代教育・宗教・文化史上重要な遺構である。
 
 昭和60年11月
秋田県教育委員会
横手市教育委員会

 
 

横手城跡

 「横手公園入り口」の標識があり、そこから山道となった。
 山道を登り詰めると、横手城本丸跡の標識があり、そこには神社があった。
 
 また、本丸跡とは別の所に城らしき建物が見えたた。
 二の丸跡に建てられた天守閣様式の展望台で、中は郷土資料館になっているとのことであるが、近づこうとしても腰まで雪に埋まり先に進めなかった。
 人が通った形跡も無く、行けたとしても閉まっていたであろう。
 

朝倉城趾
 
 朝倉城は横手城ともまた後代に阿櫻城とも云い詩人は衡城とも言っているが室町時代の後期豪族小野寺氏が始めて此處に築城したのであります
 城主小野寺遠江守義道は関ヶ原の戦後徳川氏に石田方とみられ慶長6年(西暦1601年)所領を没収 石見国に配流されたのであります
 翌7年佐竹氏が水戸から秋田に転封されて入部した時城を築き替へ城代に伊達氏を後に須田氏次いで戸村氏が代々城代を勤めて二の丸におったのであります
 秋田久保田城の支城として県南の中心的守堡としての要衝の役割が大きかったのであります
 幕末戊辰の役には勤皇秋田藩は佐幕派の奥羽諸藩の軍が侵入し明治元年8月11日仙台庄内の軍勢が朝倉城に迫り防戦したのでありましたが遂に利なく寄手の砲火によって城は炎上勇士21名は討死に名城と言われた朝倉城は全く灰塵に帰し落城したのであります
 雄大な景観を有する古城の跡は現在の横手公園として四季の夫々の風趣を誇っているのであります
 
横手市
 
 
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石坂洋次郎文学記念館

   「青い山脈」や「若い人」などの文学作品を生み出した石坂洋次郎は、大正15年から13年間、横手高校で教員生活を送ったという。
 そのために彼の作品には、横手を舞台とした「山と川のある町」というものもある。
 
 石坂洋次郎文学記念館は、横手にゆかりの深い石坂洋次郎の文学の業績をたたえ、文化の振興をはかることを願って設立されたとのこと。
 
 行った時には、既に閉館していて建物のみを確認した。
 
 

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