黒船はどうやって日本に来たの? 〜捕鯨の街と日本との意外な関係

 

 突然ですが、日本人に「歴史上のアメリカ人で知っている人を挙げてください」という質問をしたら、1位は誰になるでしょうか? ブッシュ大統領はまだ「歴史上の人物」じゃないですよ。
 ケネディ? リンカーン? エジソン? アインシュタイン? エルビス・プレスリー?

 私は、意外に黒船の「ペリー提督」なのではないかと思っています。日本史にも出てきますし、開国を迫った黒船のインパクトもあります。また、黒船来航という史実が、彼が「アメリカ人」である印象をより強めていると考えられます。

 さて、そのペリーですが、彼が日本に来たわけは、大きく分けて2つあると言われています。1つは、アメリカ製の繊維を有望市場としての中国へ進出するにあたり、その寄港地(補給基地)として日本が絶好の地理的位置にあったこと、もう1つは、北太平洋における捕鯨船の漂流船員救助と船舶の寄港地を求めたとされています。

 現在は「反捕鯨」の急先鋒であるアメリカですが、19世紀には、照明用などの油を採取するため、世界最大の捕鯨国でありました。その、最大の捕鯨基地が、東海岸のマサチューセッツ州にあるニューベッドフォードでした。1850年代、アメリカ西海岸はようやく開拓がはじまった頃で、アメリカの大陸横断鉄道や太平洋航路は整備されていません。もちろん、パナマ運河などというものもありません。それどころか、メキシコとの戦争に勝利してカリフォルニアがアメリカ領土となったばかりです。ですから、軍事基地は東海岸にありました。ニューベッドフォードを出た捕鯨船は、アフリカの南端(喜望峰)を回り、インド洋に進出していました。インド洋で鯨資源が枯渇しはじめた1850年代には、地球をぐるっと回った北太平洋も漁場となっていました。


ペリーの「黒船」の航路図


 ペリー自身も、日本まで太平洋を渡ってきたわけではなく、1852年11月にバージニア州のノーフォーク(現在も海軍基地があります)を出港したあと、ケープタウンやスリランカ、上海などを経由し、約半年かけて浦賀にやって来ています。上海寄港後沖縄や小笠原諸島に寄っているのは、捕鯨船の補給基地の確保という意図を裏付けるものと言えるでしょう。 なお、ペリー本人は、ニューベッドフォードの南西30kmほどにあるロードアイランド州ニューポートの出身であり、この地には彼の銅像もあります。

 さて、捕鯨問題を主目的にやってきた黒船ですが、当のアメリカではその後、1859年にペンシルベニア州で石油が発見され、優れた照明用燃料として急速に普及していきます。対して、アメリカの捕鯨産業は19世紀末にかけて衰退へ向かうこととなりました。
 往時を知るものとして、ニューベッドフォードには現在、世界最大の捕鯨博物館があります。
http:// www.whalin gmuseum.or g/

 もう1つ、幕末、漁に出て漂流しているところをアメリカの捕鯨船に救助された「国際人」ジョン・万次郎は、この地で学んでいます。その縁で、彼の出身地である高知県土佐清水市とニューベッドフォード市は姉妹都市になっています。

 

   
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