説教ノート 2003年9月から12月分
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先週(12月21日)の説教から マタイ福音書一章一八〜二五節 「神は我々と共におられる」 久保田文貞 初期クリスチャンたちは、ナザレ出身のイエス を、ユダヤ教黙示文学の伝統の中から生まれた キャラクターの一つであるメシア(油注がれた 王=キリスト)という称号で呼びました。さら に「神の子」という称号でも呼びました。古い ユダヤ教の伝統では、「神の子」とは神の御心 の通り生きる者のことを意味しただけですが、 これによってイエスが父なる神と同格の子であ ると表明したのです。ならば、その生まれは?と、 アリバイ工作したくなる。そこでルカとマタイ の両福音書のはじめに残されているようなクリ スマス説話が創られたと推測されます。マタイ 伝の著者はさらにイザヤ七章一四節のインマヌ エル、ヘブル語で「神は我々と共におられる」 という意味の語をイエスに対する称号として提 案しています。ただし、これは普及しませんで した。 ですが、あのイエスにおいて「神が我々と共 におられる」と的確に言い表したことの意味は 大きいと思います。イエスの称号すべてについ て言えることですが、メシア(油注がれた王)、 主、神の子など、どれもみなこの世の権力者が 絶対的な権力を手にしたとき、自分の称号とし て使わせたくなるものばかりです。つまりイエ スに付された称号は、絶対的な力、権威をもっ て支配するという意思を表示するものなのです。 ただし、それらの称号をイエス自ら使ったもの はほとんどありません。ただ例外は「人の子」。 それももともとは黙示文学の一キャラクターで したが、「一塊の人間の子」ぐらいの意味を持 たせてそう呼ばれるのを許したらしい。 いずれにせよ、イエスに付けられた称号が動 かぬものになっていくのは、イエスの死後のこ とです。ナザレ出身の大工のせがれイエスがど のような生き方をして、十字架刑という最悪に 不名誉な死に方をしたのは、ご存じの通りです。 彼が向かった先は、神の義を求めて厳格な宗教 生活をしている人々の方ではなかった。彼が向 かったのは、人々からそして神からも見放され たと考えられていた病人のそばであり、あるい 悪霊に取り憑かれているとして町から追放され ている人、ユダヤ教父権社会の中で夫をなくし た女、立ち帰る道を閉ざされた遊女、ユダヤ人 の裏切り者として神の恵みのらち外とされてい た人々。彼は彼らに神の恵みが実現していくこ とを真剣に求め、その人々の間で食事をし、酒 を呑み、話をしたりする、そしてそのような中 に神の国があると宣言する。そういう人でした。 彼は、その故にこの世界に秩序を定着させよう と躍起になっている連中から憎まれる。彼はそ の憎悪を一身に負って処刑された。そのような イエスをキリストと呼び、神の子と呼ぶ。その ようなイエスのまわりでインマヌエル「神が我々 と共におられる」と言う。 しかし、インマヌエルがちょっとでも誤用さ れると最悪のことになります。神が自分のやっ ていることを支持してくれている(=インマヌ エル)と錯覚する権力者の場合、特にそうです。 例えば、現在のアメリカ大統領ブッシュ、彼は 聖書をいつも持ち歩いていると聞きました。重 要な決断をするときは神に祈るそうです。そう やってタリバン政権下のアフガンを攻撃し、フ セイン政権下のイラクを攻撃しました。たとえ 問題のある政権でもそこに集められている人間 はアフガンの民であり、イラクの民です。戦争 は確実に彼らの生活を破壊し生命を抹殺します。 パレスチナの民衆を寸断し、テロ撲滅を名分に したい放題をしているイスラエルも同じです。 ここでも彼らはまさに「神われらと共にます」 という確信の元で圧倒的な武力で抵抗する人々 を封じ込め、抹殺しようとしています。 イエスをキリスト、主、神の子であるという 表明してきた教会は、これら強圧的な力の支配 と共犯関係に入ったり、それに荷担させられて いることに対して、明確にNOを言っていくよ り他に道はないでしょう。クリスマスの物語にも、 それがあのイエスの誕生を祝う限り、力の支配 に対するNOと、まさに反政治的な政治=〈平和〉 〈反戦〉が、通低音として響き渡っているのです。
先週(12月14日)の説教から イザヤ書二章一〜五節 「パレスチナに平和を」 久保田文貞 紀元前八世紀、預言者イザヤの活動した所は、 南王国ユダ、実際にはエルサレムを中心とし た都市国家です。当時は、現在のイラク付近 にあったアッシリア帝国が強大となり、周辺 を席巻していきました。北王国イスラエルを はじめ、ダマスコなど小都市国家は、同盟を 結んで対抗しますが、アッシリアによって滅 ぼされてしまいました。ユダの王ヒゼキヤは アッシリアに反旗を翻したり、あるいは屈服 したり、様子を窺いながらその難局をかいく ぐろうとしましたが、結局は高い代償を払わ され、それでなんとか存続したという具合です。 これが紀元前七三〇年代から七〇〇年ぐらい にかけて、イザヤが預言活動していた頃の状 況です。 イザヤは王に接見可能なエルサレム神殿付 の預言者だったらしい。国際情勢の情報もい ち早くつかめる位置にいたらしい。ある意味 では恵まれた位置にいたわけですが、預言者 たちには自分がどんな身分であろうと、どん な位置にいようと、神の言葉として聞いたこ とを語るのです。それが周りの人々にどんな に認めがたいことでも、そしてそれがどんな に自分の立場を悪くするものでも、そのまま 語らざるを得ない、そういうぎりぎりの所に 身を置いていたのです。イザヤもそういうひ とりでした。 二章一節以下の預言が、いつ語られたか特 定できません。しかし、いずれにせよ、ユダ 国を取り巻く現実の情勢は、「主の神殿の山 は、山々の頭として堅くたちどの峰よりも高 くそびえる」などと言えたものではない、そ れとは正反対のものでした。そのような状況 の中で、「主は国々の争いを裁き、多くの民 を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし…」 と、非現実的な言葉を語るのです。人々は アッシリアの圧力の前に、屈服するという現 実的な選択をするより仕方がないと滅入って いるところに、なにを根拠にそんな夢みたい なことが言えるのか、それとも「終わりの日」 というからにはこの国の命運がつきたとでも いうのか、と詰問して当然です。預言者とい う輩は、根本的に現実認識がずれている、み んながこれでいけそうだとほっとしていると 逆にものすごい悲観的なことを言う、そうか と思うと、次にはみんながもうだめだとやけっ ぱちになっていると極楽トンボみたいなこと を言う。そのエネルギーの元は何か。たぶん それが〈神の言葉〉と応えるでしょう。 〈神の言葉〉のどうしようもないズレ! 私たちは預言者の言葉から、直接に私たち の時代になにか役立ちそうなものを引き出し て応用するのはやめたほうがいい。あまりに 時代が違いすぎます。国という言葉を便宜的 に使ってきましたが、ほんとうは〈国家〉と いうものの意味も役割も機能も私たちが イメージする国家とは異種なもの、また預言 者というと私たちの世界では宗教家という分 類を受けることになりますが、〈宗教〉とは 近代の国民国家を形成したのと同じ原理の下 で勝手に腑分けしたカテゴリーにすぎません。 そこでひとつだけ、なんとかこの二千年以上 をワープする横滑りに堪えそうなものが、 「〈神の言葉〉のどうしようもないズレ」と 前に言ったものです。 例として使うことの不謹慎さを感じながらも、 どうしてもイザヤが活躍した場所と同じ場所 ゆえに私の頭の中で連合してしまうので言い ますが、現実としてあのテロリズムが対抗し あって泥沼化し、出口のないパレスチナ人対 イスラエルに〈平和〉をなどとどうして軽口 をたたけるでしょう。もとはといえば、欧米 諸国がユダヤ人を迫害してきた良心の呵責に 堪えきれず、無理矢理パレスチナ人を追い出 してシオニストに土地を提供したことにつき るのです。欧米諸国が世界に形成を迫った 〈国民国家〉と同じ原理がユダヤ人を差別し 迫害する、その後ろめたさが今度は欧米の他 者アラブに多大な譲歩を迫る、それに反発す ると欧米は彼らを叩く。こういう図式のくり 返しです。あの九・一一以降とくにアフガニ スタン、イラクがクローズアップされています が、根っこはパレスチナ問題と同じ、欧米型 近代〈国民国家〉の強引な押し付け、形の違 う社会・文化・歴史を津波のように壊してし まったことに対する抵抗です。 大切なことは、ヨーロッパ・アメリカ型の 近代国民国家の原理でなにもかも焼き直そう としないこと。それぞれの場所や時には、ほ かの何にも変えがたい生き方があることを知り、 それらの人間が互いに出会うことを喜ぶこと。 今さら何を言うと叱られるかもしれませんが、 このようなズレを大切にしたい。私は、それ がイザヤから学ぶことだと思います。
12月7日説教より 詩篇六二篇 「沈黙して神に向かえ」 久保田文貞 〈わが魂はもだしてただ神を待つ。わが救いは 神から来る。〉(口語訳) 救い主到来を待ち望む時の言葉のようです。 ただし、直訳すれば新共同訳のようになります。 〈わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神 にはわたしの救いはある。〉いずれにせよ、こ の詩人は、亡き者にしようとして人に襲いかか り、身を起こそうとするとまた押し倒そうと、 口先では祝福の言葉を語りながら、腹の底で呪っ ている、そういう輩が渦巻く人々の間で、断固 神に信頼し、沈黙して神の救いを待とうと言う のです。彼らのするように、力に依存し、人か らむさぼり取り、力のゲームに心を奪われない、 そのためにする謀りごと、談合、饒舌を閉ざし て、神にのみ希望をおこうと言うのです。そし てただ神にのみ向けている、沈黙せる魂に対し て、きっと神は語りかけると。その時、神から 聞いたことは、力は神のものであること、慈し みは、神のものであること。 詩篇の中には、神に向かって救いを求めて叫 ぶ声もある(七七篇など)。神に嘆きの言葉を うめく詩もある(七四篇など)。神に向かって 沈黙するか、声を上げるか、人間の行為として 見れば、一八〇度異なることですが、実はどち らも心を神に向けて、神が語り出すことを待ち、 神が救いの業を始めることを待つという点で同 じだと思います。神という〈他者〉が語りだす のを待つということが、この沈黙の値です。 さて、わたしは、ここで、この沈黙の値を抱 えたまま、「他者が語り出すのを待つ」人間の 問題をもっとよく見るために、あえて神を括弧 に入れて考えてみます。そのためにまず〈言葉〉 の問題に触れておかなければなりません。私た ちは、言葉やそれと密接に関係する映像などを 介して、例えば今のイラクの状況について表現 されたことを了解します。そして自衛隊のイラ ク派遣に反対だとか、賛成だとか表明し、ある いは無関心を決め込んだりします。とにかく言 葉を介して世界を知り、言葉を使って世界に応 いきます。この時、自分ではたわいもない賛成 者のひとりだ、反対者のひとりだ、無関心派の ひとりだ、とかるく振る舞っているようでいても、 実はそうやってひとりの人間として世界に向き あっている以上、あの米国大統領ブッシュがこ れに向きあっていることと少しも変わりないの です。彼はその言葉一つで莫大な金を動かし、 世界最強の軍隊を動かすことができるという意 味で、特別な存在であることは認めますが、 言葉を介して世界に向きあっているという点で は基本的に私たちと変わりないです。ここでブッ シュを私たち庶民のレベルに引きずり下ろそう として、いるのではありいません。むしろ私た ちひとりひとりを高めようとしています。もち ろん彼のような権力者としてではありません。 言葉を介して世界に関わる人間は、言葉の持っ ている対象物を把握し支配する魅力についつい 惹かれてしまいます。それに取り憑かれると、 すべてのことを理解しようとし、すべてのこと におせっかいをしようとする。待つことができ なくなる。他者が語り出すこと、他者が動き出 すことが待てなくなる。他者がほんとうに何を しようとしているのか、何で一見して「無謀な」 為政者の下で動こうとしないか、何で黙々とた だ自分の生活に専念しているのか、そういうこ とが全部見えなくなってくるのです。 ブッシュに代表されるこのスタイルを確実に 後追いしているのが小泉首相であり、日本の為 政者であり、日本を背負っていると思い込んで いる経済人たちであり、科学技術者たちの一部、 自分を聡明だと思い込んでいる知識人たちです。 共通することは、他者の語り出すことが待てない、 動き出すことが待てない、ゆっくりと生活して いる人たちがもどかしくてたまらない、という ことです。 現実にはあの人たちを引き留めて、他者が語 り出すことを待つ在り方を理解してもらうこと は不可能に近いというのは、一見冷静な判断で すが、それはあまりに上辺のだけの権力や財力 に目を奪われすぎている。世界に向きあう、他 者に向きあう根本的な在り方の束は、そんなも のよりずっと将来性があって強いと思います。
11月30日の説教から ガラテヤ書一章六〜九節 「伝道について」 久保田文貞 プロテスタント・キリスト教が明治期に欧米 から伝えられて、日本での布教が始まりましたが、 その布教活動全体を「伝道」と言ってきました。 ですから、一つの教会が建てられて、その地域 にキリスト教の福音を伝えることも伝道といわ れますし、キリスト教を知らないあるひとりの 人にキリスト教の信仰を伝えることも伝道と呼 んできました。その中身はといえば、聖書に示 されているようにイエスが救い主=キリストで あること、そのことによって明らかになる真実 を伝えることだと教えられてきました。 その場合に、新約聖書の使徒行伝に書かれて いますが、何よりもパウロが地中海沿岸の諸都 市をめぐってキリストの福音を伝えたこと、そ して彼の手紙にはその伝道の言葉が直に書かれ ていて、そのことがストレートに近代日本での 当然のようにして伝道の手本になっていく。そ のことに誰も疑いを挟まなかったと思います。 しかし、一九七〇年の大阪万博に日本のキリ スト教はこれぞよい伝道の機会とばかりに、各 国や大企業の展示館に肩を並べてそこにキリス ト教館を出展するということになりました。こ れに対して、そもそも福音を伝道するとはどう いうことなのか、それに対する反省と批判の声 が挙がりました。大阪万博は内外に日本の技術 と経済を誇示するショーです。「大東亜戦争」 を引き起こして連合軍によってボコボコにされ た日本がそれから二五年ほどでなぜそこまで立 ち直れたか、ひとつは朝鮮戦争やベトナム戦争 の特需、つまり冷戦構造下、前線のちょっと内 側で輸出を拡大し資本を蓄積することができ、 その間技術を磨くことができたということです。 もう一つは、冷戦構造の緊張が戦前の日本が近 隣諸国に犯した行為の謝罪と賠償責任を封印し てしまったこと、日本の経済復興は決してお祭 り騒ぎをして喜べるようなものではなかったの です。ちょっと冷静に歴史の現実を考えてみれ ばその問題性が分かるはずなのですが、それが 見えなかった。 万博キリスト教館問題であぶり出されたことは、 日本のキリスト教が戦後、なんの反省もなく、 ただ棚ぼた的に与えられた好機をうまくつかん でとにかく「伝道」をすればよいと考えるだけ だったということでしょう。これは、戦後日本 の政財界が火事泥棒のように振る舞ったことと 同じです。さらに言えば、これは欧米植民地主 義がアジア、南アメリカ、アフリカなどで、彼 らに都合のいい「国民国家」づくりに率先して はまり込んでいった近代日本「国民国家」を土 壌にして、欧米植民地主義を伝道の機会と捉え てキリスト教を拡大しようとした安易さが引き ずってきた問題そのものといったところです。 私たちは、単純に「聖書に示されているように、 イエスがキリストであること、それによって明 らかになる真実」を伝えるとって、歴史と無関 係に、半ば開き直って「伝道」すればよいとい うものではありません。福音を宣教するキリス ト教自体が歴史の中でどのような役割を演じる ことになるか、知らなければなりません。殊に 近代社会の中にあっては、否応なくキリスト教 は近代国民国家の布置の中で、宗教というレー ルを走らされるのです。そして宗教的な観念の 上では、ひとり飛翔しているのだとどんなに思 い込んでいたとしても、実は国家を主導してい る支配層の支配に協力し共犯関係に立たされて しまっていると言わざるをえない。だから、自 分の信仰を宗教として受け入れることそれ自体 がすでにある種の敗北になってしまうという構 造の中を生きているのです。 私たちの信仰は、近代国家が指定席として 宛っている「宗教」という枠にかならずしも フィットしません。少なくともパウロが、ロー マ帝国公認「宗教」に収まっていたユダヤ教の 殻を破って、世界に向かってはじけていく言葉 を読むかぎり、去勢された宗教にはない躍動感 溢れる人間の生を感じてなりません。
11月16日説教より ルカ福音書4章31〜37節 「奇蹟物語について」 久保田文貞 福音書は、短い伝承断片を採取した福音書記 者が、イエスを十字架に付けられたキリストと して指し示すために書いた独特の文学です。そ こに採取された伝承断片の中に、イエスの奇蹟 について語っている短い物語群・・・病人や、 悪霊に取り憑かれた者を癒す物語や、嵐を鎮め たり、木を枯らしたりする自然現象の奇蹟の物 語があります。どちらもメシヤ・イエスに神の 霊力が働いていると一応言うことができますが、 いずれも基本的にこれらの伝承の発信元は、イ エスの周りに自然に集まってきたガリラヤの民 衆です。つまりそれらは自然発生的に伝えられ た民間伝承であって、後にイエス直系の弟子た ちとイエスの兄弟を中心にしてできたエルサレ ム教団から発信されたものではないと理解します。 もっとも、自然発生的にと言っても、ヘレニ ズム時代にキリスト教以外にも同じような形式 の奇蹟物語式がありました。共通することは、 まず、病人の症状とそれに付随することが語ら れます。いろいろな医師を訪ねて治療してみた が治らないとか、病は長期間に渡っているとか、 病気の深刻なことが語られたりします。次に奇 蹟行為者が現れる。人々は彼に治せるはずがな いなどと侮辱したりすることもあります。次に、 癒し行為、福音書の場合多くは、今日取り上げ た箇所にもあるように、「黙れ、この人から出 ていけ」とか「タリタ・クミ」というようなイ エスの言葉です。これに対して、ヘレニズムの 奇蹟物語では、奇蹟行為者は魔術的な動作をし たり、道具を使います。その次は、周りにいる 群衆たちの驚き、賞賛。次に、ある場合には癒 された者は家に帰る。つまり、ガリラヤの民衆 たちは、ヘレニズム世界の民間信仰に広まって いた奇蹟物語の様式に則ってそのような伝承を 語り伝えたということです。 しかし、これらの奇蹟物語伝承も、教会の手 で回収されると、イエスをキリストとする考え 方に伴ってくる〈神学〉的な意味づけが加わっ て来ます。この神学的な意味づけが、悪くて民 間伝承の方が正しいという単純なことは言えません。 病の過酷な社会的現実、そこから癒された人の 喜び、奇蹟行為者が病者に向きあう真実・・・ そこから離れて、民衆たちが奇蹟行為者を過剰 に崇拝してしまう。奇蹟物語伝承は、民衆たち の癒しを求める心情と奇蹟行為者に対する崇拝 を集めて、担ぎ回されていくわけです。このこ とは正当だとか正当でないの問題ではなく、ヘ レニズム時代の社会の事実です。ナザレ人イエ スも、病者に向きあい、病の過酷な現実を目の 当たりにして、何らかの形で病者を癒した、そ うして少なくとも癒された者があり、その事実 を目撃して者があり、イエスを賞賛するものが いた。ここまではヘレニズム一般の奇蹟物語の 現象と同じです。けれども、それだけではなかった。 イエスの場合、ただ超能力的な奇蹟を行う人で はなかった・・・。ここから始まる思考を、言っ てみれば広い意味での神学的思考ということに なるかもしれません。そして、それが教会的な 背景を持った者が行うと、教会という共同体の ドグマによって彩色されていくことになります。 このような神学的思考や教会的なドグマが、問 題とされるのは、得てして病や障害の過酷な現 実、あるいはそこにも確実にある喜び、出会い などを脱色し、単純なものにしてしまうからです。 もちろん言葉として語り伝えるのだから、どう しても現実の微細なことは漏れてしまうことは 仕方ないことです。けれども、神学的な思考や 教会的な言葉を始動させるとかならずあの大事 な物を忘れてしまうと初めから決めつけてしま うこともありません。ナザレ人イエスは、周り からどんなレッテルを貼られようと、とにかく 病や障害をもつ人々の現実にへこたれず、そし てかろやかに向きあうことをやめなかった。そ のような出来事をわかちあえるような言葉をつ かみとれるならば、それが神学的だ、教会的だ、 と言われようとかまわないと開きなおるよりし かたないと思います。
11月9日の説教より 創世記四章一〜一四節 「カインとアベル―兄弟殺し」 久保田文貞 神によって禁じられた木の実を食べ、人はタブー を破ることによって、責任を問われ、責任をとり うる主体となりました。同時に人は他者に責任を 転嫁する主体となり、そのようにして他者の主体 を知る者となりました。楽園から追放され神の直 接の庇護を手放すわけですが、そのことは見方を 変えれば神から離れて自立して生きることを意味 します。さらにそのことは人同士も引き離され分 断され、個々に責任応答性を背負わされて生きて いかなければならないということを意味します。 この分断された状態に逆らうかのように、男と 女は互いを性的に〈知り〉あい、その結合を祝福 するかのように、女から二人の子が産まれます。 一人目の子カインは、土を耕す者になり、二人目 の子アベルは、羊を飼う者になりました。二人は それぞれの献げ物を持ってくるが、神は「アベル とその献げ物に目を留められたが、カインとその 献げ物には目を留められなかった」というのです。 ここで、神ヤハウェは農耕者とその献げ物を嫌い、 牧羊者とその犠牲を好んだという伝統的な解釈が 頭をもたげてきて、急に興ざめがしてきてしまい そうです。確かにイスラエルの父祖であるアブラ ハム、イサク、ヤコブらは半遊牧的な牧畜生活を していたし、モーセ、エリヤ、アモス、エレミヤ など一連のイスラエルの預言者的伝統には、農耕 的な豊饒信仰に対決する砂漠的・遊牧的な倫理的 宗教へと人々を導いていくものがありました。 だが、この物語にヤハウェがアベルのささげ物 に目を留めた理由を暗示するものはありません。 ヤハウェが、農耕と牧畜のどちらか一方を選ぶは ずだというのは、基本的にカインの視点に立った 見方です。カインは、ヤハウェが自分の献げ物を 取るか、アベルの献げ物を取るか、その二者択一 に気を奪われてしまった。すでにそこから悲劇は 始まっていると思います。つまり、アダムとエヴァ が誘惑に負けて陥った破綻とは違って、こちらで は三角関係の問題です。カインとアベルと神の三 角関係において、カインは、神の視線が自分に向 けられなかったことに、無性に腹立ってしまう。 神の視線を自分の方に向かせるには、神をではな く、アベルを抹殺すればよいわけです。このこと は、わたしたちの周りでもよく見られる、兄と弟 の間で母親の愛をめぐって大なり小なり起こる悲 劇と地続きです。さらに、一般にAがBをおしの けて、Cの関心を取ろうとするAを軸にして捉え る人間関係の在りようの基本的なものです。それ が単なる排除か、あるいは殺人まで至るものにな るかということは、関係性の問題から言えば大き な違いはないと言えないこともありません。 これに対して、いや、カインが心に懐いた嫉妬 が問題なのではなく、後戻りできない決定的な排 除、そのためには殺人が一番手っ取り早いが 、 そのような専横的な排除が問題なのだとも言えます。 冷静に考えれば、Aのように自己中心的に考え ないで三人全体の利益を図れば何の問題もない わけです。しかし、そういうオルタナティヴ、第 三の道をカインは神に求めることができなかった、 それがリアルな人間の問題と言えば問題です。 恋愛に関わる三角関係の場合を考えればすぐ分 かります。そこでは基本的に三者が融和してそれ 以上突き進めない、まさにリアルに奪い取るより ないわけです。これが楽園とは違う、生きていく ためにリアルに第三者を排除していかなければな らないという、城外乱闘の生き地獄の絵です。 なんとかして城外=楽園の外のまま、オルタナ ティヴを見つけられないかというのがわたしたち の宿題です。
11月2日の説教から 申命記一八章九〜一四節 「居場所について」 久保田文貞 永眠者記念礼拝について週報に書いた文にも とづいて話します。 これは、二つの文からなっています。 ひとつは、「教会では亡くなられた方々を、 神さまの恵みの「証人」として覚えこの日をそ の方々に囲まれてあることを喜び感謝する日で あります。」 この文を書くとき、念頭にあったのは、ヘブ ル人への手紙一二章一節です。「こういうわけで、 私たちは、このような多くの証人に雲のように 囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、 からみつく罪とをかなぐり捨てて、私たちの参 加すべき競走を、耐え忍んで走り抜こうではないか。」 ここでいう「多くの証人」とは実は、旧約聖 書に出てくる代表的な登場人物のことで、ノア、 アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ギデオン、 バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルなど。 一見するとこれらの人々は、いずれもものすご い業績を残した人、英雄です。けれども、どの 物語も、実はその人の力・能力によるものでは ありません。彼らについて書いているヘブル書 一一章を読むとすぐ分かることですが、彼らの 業績はみな「信仰によって」なのです。ざっと 数えて、一九回出てきます。これはpistis信仰 という語を与格dativeの形で文の冒頭に置いて います。文体としては異様なものです。ヘブル 書の著者は、これらの名のしれた偉人達の業績は、 ただ「信仰によって」生まれたものにすぎない と印象づけ、彼らはどの人物も実はただの一塊 の人にすぎなかったと言いたいのでしょう。偉 人達はただ一一章一節「望んでいる事柄を確信し、 まだ見ていない事実を確認」して生きたという 点で評価されるだけです。つまり彼らには、誇 れるものは何もなかった。ただあるのは、神へ の信頼だけであった。 ここにいう「証人」とはそういう風に生きた 人たちのことです。神を疑うこともあった。神 などいないと言い切ったりすることもあった。 ヘブル書の著者は、「走り抜こうではありま せんか」と読者に向かってネジを巻いていますが、 ラハブや、三二節に出てくる人々は何も四六時 中週信じまくっていたというのではありません。 ほんの一時かもしれぬが、彼、彼女らの人生の 大事なときに神に信頼を寄せた。それでいい。 神はそれら信頼に応えて、確実に人々を神の恵 みの方に引き寄せ、神の恵みの中に置く。「感 謝」とはそのことの感謝だと思います。 もう一つのセンテンス。 「また、神さまが、すでに亡くなられた方々も、 またいま生かされてある者も、すべての人々に 「宿るところ(居場所)」を用意されているこ とを感謝する日であります。」 死がなぜあれほどの脅威をもって私たちを捉 えるのでしょうか。死が、肉体も意識もすべて 終結させるという通俗科学的かつ合理主義的な 見方に立っているからだと思います。それに対 して、死がいっさいの終結だとは考えない捉え 方がありました。体は朽ちても霊は朽ないと。 どちらが正しいか、という議論はむなしいものです。 少なくとも科学的な判断で、肉体は意識とふか くかかわるということには反対できません。科 学的に定義された肉体と意識のかぎり、死がそ の終結になるというのは科学的に正しいと言って もよい。しかし、その科学的正しさで人がほん とうに納得するかというとまた別な問題だと言 わざるをえません。 ただ、生きるにしても死ぬにしても、大切な ことは、〈居場所〉だとおもうのです。もちろ んそれは「死に場所」のことを言っているので はありません。科学の認知する死に私たちが納 得できないのは、あたかも〈死〉はこの世界に 居場所を認めないという宣言でもあるかのよう にふるまうからです。自分でもかなりきわどい ことを言いそうだと思いますが、あえて言います。 キリスト教(新約聖書文書のある一部)は、復 活の「教理」において踏み込んでしまったように、 〈死人〉たちにも居場所があることを前提にし ています。居場所さえあれば、それからでも何 とか関係性が作れそうな気がします。最悪なのは 〈死者〉たちの居場所を完全に抹消してしまう ことではありませんか。
10月26日説教より
ヨハネ福音書一章二九〜三四節 「〈世の罪を取り除く子羊〉とは」 久保田文貞 聖書の世界における罪とは、神が人間に与え た法に違反することです。その場合の法とは、 いわゆる十戒を中心とする古代イスラエルの法 (トーラー)のことであり、イエスの時代にな ると、宗教上の権威者がそれを解釈したものを 含む法全体のことです。ということは実質的に、 それに基づいて制度化されたユダヤ教の全秩序 を含む法体制のことです。それに違反するもの は罪になります。当然のことですが、そこにも 重い罪と軽い罪があります。軽い罪は、自分で 神殿に申告して相当の犠牲等を納めればチャラ になります。死罪に規定されているような重い 罪は、容疑が確定すれば犠牲による贖罪は適い ません。その限りこの法体系も実際の運用は けっこう常識的になされていたのです。 しかし、職業や身体の原因でどうしても違反 覚悟で生きていかなければならない人が出てき てしまう。そういうのは救済のシステムが通用 しないわけです。みんなが神の救済を求めて同 じ向きを向いているユダヤ教社会にあって、反 対を向いて生きていかなければならないことに なります。福音書に出てくる罪人というのはそ ういう存在です。その場合の罪とは、内面の心 理の問題ではありません。社会のシステムとし て、そこから捨てられるという事態を意味します。 このような事態の中で、イエスはガリラヤ地 方の小都市カペナウムを拠点として、罪人と呼 ばれた人々の方へ向きました。イエスのメッセ ージは、次のようなものでした。終末論的=究 極的なものが今、この世界に差し迫っている。 その現れとしての〈神の国〉〈神の恵み〉は、 ユダヤ教社会が排除した〈罪人〉たちの間でこ そ出来事として起こりつつあるとして、イエス はその中にいっしょに自分の居場所を作ったと いうことでしょう。ご存じのように、ユダヤ教 上層部、指導者らは、このようなイエスのやり 方にがまんできない。それが一部の攪乱に済ま ないものであることを直感的に見抜いていく。 彼らはイエスを文字通り抹殺しました。 イエスが処刑された後、彼を信頼してきた人々 は、彼のその生き方、死に方に、神から神の恵 みの実現のために派遣されてきたメシアを読み とりました。その時、特に彼の弟子を自認して きた人々の間で、彼があのように殺されてしま ったことの責任の一端が自分たちにもあると懺 悔=告白した。こうして自己を抉りだし、内省し、 結果としてより強靱な内面・主体が産み出され、 その後の教会では懺悔=告白する主体の生産が 目的化しました。この副産物をプラスに評価す る傾向が強いのですが、わたしはむしろそれの マイナス面を強く感じます。主体はどんなに強 靱で深いものになろうと、それ自体は目的でも 何でもない。神の恵み・神の国・福音は、捨て られた者に向かい、彼らを招き、彼らをそのま までよいと宣言するイエスの周りで実現してい くのです。その彼をメシア=キリストと呼ぼう と呼ぶまいと、またどのように主体を磨き上げ てその出来事に参加しようと、本当はどうでも いいことです。しかし、告白することによって つかみ取った主体の強靱さ、内面の深さを、善 意から、「どうか、お役に立ててください」と 差し出す好意や敬虔さが、あの人々に「そのま までよい」、「あるがままでよい」と呼びかけ たイエスの、せっかくの声を邪魔しかねない。 その限りで、マイナスなのです。 そのようなわけで、わたしは、罪の自覚、罪 の意識というのを、お薦めするつもりはありま せん。申告できた罪などたかがしれている。問 題なのは、人と人との自由な関係を、束縛や屈 従に置き換え、信頼を不信に、優しさを冷酷さ に変えてしまう事態として罪です。これは精神 的な問題ではなく、現実の人間関係の事柄の問 題です。このような罪の事態は、私たちの意識 ではどうしようもない、「世の罪を取り除く」 「子羊」の管轄であり、お仕事だと思います。
10月19日の説教より エペソ書三章一〜一三節 「回収されないもの」 久保田文貞 キリストに出会い、キリストの中にあることを 神の恵みだと知った上で、その至福にいつまでも 酔いしれていられないと思い始めたクリスチャン たちは、自分たちの外側に異邦人が存在すること の意味を問い始めます。かつては自分も「肉の欲 に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するま まを行い、ほかの人々と同じく、生まれながらの 怒りの子であった」(2:3)が、神はあえてそのよう な自分を憐れんでくださり、救ってくださった(2:5,6)。 この自分に起こった展開が、救われた者たちの外 側に存在する異邦人たちの間に起こらないでよい だろうか。「異邦人が、福音によりキリスト・イ エスにあって、私たちと共に神の国をつぐ者となり、 共に一つの体となり、共に約束にあずかる者とな る」(3:6)、こうして今では異邦人が中心となって いる教会がそこここにある。これがエペソ人への 手紙が成立している背景です。 「万物の造り主である神の中に世々隠されてい た奥義」とは、つまり旧約以来イスラエルの民の 歴史を貫通している秘密とは、神の恵みについて 熟知しているはずのユダヤ人が救われるのではなく、 神の恵みに一番縁遠かった異邦人がキリストに よって救われることだというわけです。 このダイナミックな捉え方自体は、パウロの名 を堂々と借りて書いているだけあって、どうして なかなかパウロ的です。しかし、問題があります。 これはすでにパウロの時からあった問題ですが、 それから一世代たって避け難くなっている問題です。 ・・・ユダヤ人の外部・異邦人として救われた者 たち=教会は、今や救われた者たちの内部を構成 する。ではその外部は、君たちにとっての新たな 異邦人ではないか、つまり君たちは新たなユダヤ 人ではないか。神の奥義がいつも異邦人への救い というベクトル(奥義)を持っているとしたら、 今や君たちのベクトルは、そのベクトルの反対の ものではないか。かつてユダヤ人が否定されつつ 異邦人の救いが達成されたように、今君たちは新 たな異邦人のために否定されなければならないの ではないか・・・ 形式論理的にはそういうことになります。しかし、 それではキリスト教として現実に成り立たなくな ってしまうから、神の奥義のさらなる展開の連鎖 を断ち切ってしまう必要があります。「天上にあ るもろもろの支配や権威が、教会を通して、神の 多種多様な知恵を知るに至るためであって、私た ちの主キリスト・イエスにあって実現された神の 永遠の目的にそうものである。わたしたちは、彼 に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に 近づくことができるのである。」(3:11) 気持ちは分からぬでもないが、これでは、内部 を捨てて外部に救いをもたらしたキリストによる 神の恵みの奥義は、封印されてしまいます。あの ようなダイナミズムは記念碑の中に納められて礼 拝の対象となるだけ。今後は、せっせと教会の外 部を内部へと回収するだけ。つまり異邦人を 「悔い改め」させてキリスト教徒にするという人 口政策だけがお仕事になるというわけです。もち ろん記念碑の中に格納されたダイナミズムは、毒 気を抜かれ人畜無害を証明されたかぎりのミニチ ュア版として活用されるのですが。 タテマエから言えば、こうしてキリスト教は神 という中心から世界を内部に取り込む方へ踏み出 したわけですが、現実に世界を取り込みきれるも のではない。つまりもう一方の側から言えば、国 家・権力がキリスト教を回収し取り込んだという ことです。キリスト教が持っている、外部を内部 に回収しながら、毒気を抜いていくシステムは、 国家が普遍的に支配するための装置として使えた ということです。そこではお互いさまというか、 今風に言えば重層的だったということです。 もちろん、わたしはこういうキリスト教にはか なり否定的です。ただ、そのようなキリスト教も、 封印したつもりになっている奥義を解いてしまう 者を抹消しきれないという点で愉快に思っています。
10月12日の説教から ルカ福音書四章一六〜三〇節 「故郷からの脱出」 久保田文貞 イエスは荒野の試練を受けた後、ガリラヤに 戻って公的な活動を始めます。これは共観書 (マルコ、マタイ、ルカ)に共通します。けれ ども、その実質的な開始を、自分の故郷ナザレ の会堂に置いたのはルカ伝著者の手によるもの です。ちなみに、イエスが故郷のナザレで説教 したところ、人々の冷視にあったという物語は マルコでは(6:1-6)宣教活動の一エピソードと して置かれています。そこでは「預言者は自分 の故郷、自分の親族、そして自分の家以外のと ころならば、尊ばれないことはない」という言 葉が中心になっています。当時のユダヤ教文献 などにも類例がなく、イエス死後に成立する原 始キリスト教団にとってあまり都合のいい言葉 ではなく、現代の聖書学者の通説ではイエス自 身の言葉とするのが有力になっている数少ない 言葉です。ここには、家族・親族・故郷の枠を 飛び出す普遍的な言葉(預言、思想など)を弄 する者と、その家族・親族・故郷との、どうし ようもない切断面が露出しています。このイエ スの言葉を参照しながら、思想家にとって、こ の切断面を、自分の思想の展開、表現の中でい つも保持し、あの冷たい視線を常に感じ取って 置くことの大切さを訴え続けたのは、現代日本 の思想家吉本隆明です。このことは、別に大思 想家だけの問題ではありません。キリスト教信 仰などと言って、その周辺で疑問に思ったり、 吾が意を獲たりなどと考えている擬似思想家、 小思想家つまりは私たちみんなに共有するとこ ろがあるでしょう。これまでの多くが〈思想〉 と相容れない〈家族〉を切り捨てて思想をたて る道を選んできました。思想のために直接に故 郷を捨てたものもいるし、家族を捨てたものも いる、しかし、ほんとうはもっとあいまいなず るい捨て方をします。〈思想〉の上でだけ〈家族〉 〈故郷〉を捨てる。〈思想〉から〈家族〉の目 線を完全にカットする云々。このことは、だか らどうするのだということではないでしょう。 すっきりさせないと気が済まないと思う人がい るかもしれないけれど、すっきりさせてはいけ ないところだと思います。 実は、結論から言うと、ルカ伝著者はその点 をすっきりさせようとした、つまり家族と信仰 の切断面を解消しようとしたということだと思 います。「預言者は、自分の郷里では歓迎され ないものである」という言葉を、ここではイエス の福音は家族と郷里を否定してそれを超えるも のとして理解しているということになります。 二五節以下の預言者エリヤと預言者エリシャの 故事(列王記上一七章以下、列王記下五章一四 以下)は、牽強付会の感がありますが、どちら も救済されたのは、約束されていたイスラエル の民ではなく、約束の外部にあった異教徒で あったということ、つまり約束の内部(家族、 親族、故郷)ではなく、その外部が救済を受け ることになったという自由な〈神の選び〉の相 のもとでこのことを解釈したわけです。という ことは〈神の選び〉〈神の恵み〉のもとに服す る福音の王国においては、人間の自然的な家族 はたとえ「主」の家族であろうと、その下位に 位置される、そして家族の存在理由があるとす れば、それは福音に奉仕する限りという考え方 につながります。しかし、ここが問題なのです が、一度否定された自然的な家族の絆が、ここ に息を吹き返し、さらに強固な家族観念がキリ スト教のもとに再編されかねないということに なります。とすれば、イエスが奇しくもかいま 見せたあの切断面はどっかに吹っ飛んでしまい ます。そこでは、〈思想〉が硬直化して、 家族・親族・故郷を序列づけ、従えることになります。 キリスト教というのは、ユダヤ教の偏狭さを 内部から引き裂いて、普遍的な救いをもたらし た宗教だということになっています。しかし、 それが何のことはない、外部をすべて回収して しまって、以後外部の存在を許さない、そして 内部の唯一の隠れ家であった私的なものも回収 しきった後、許可された〈私〉以外の居場所を 認めないという、そんな普遍宗教だとすれば、 できるだけ早く〈脱構築〉した方がいいと思い ます。わたしにはそれが現代のキリスト教のお 仕事のように思えてなりません。
先週(10月5日)の説教から マルコ福音書一四章二七〜三一節 「あなたを知らないと言う」 関秀房 今日の箇所は、イエスに、鶏が鳴く前に三度 私を否認すると言われ、ペテロがそれを否定す るというはなしである。そして一四章の六六〜 七二節ではイエスが予告した通りになる。 このはなしは預言(ザカリヤ一三・七)が成 就するため、又は信仰のないものを悔い改めさ せて信仰を得させるためのはなしなのか。「神 の救いの歴史からみるとき=救いが人のわざに よるものでなく、神のわざによることが明らか になるために=それはおそらくさいわいなこと であったし、そして疑いもなくそれが神の意志 であった。」(説教者のための聖書講解マルコ 福音書)と解説されるものなのか。 ペテロが考えていたイエスとその運動は、ユ ダヤ教が目指した神の国運動、つまりユダヤ民 族の救済であり、救い主(メシア)としてのイ エスでありイスラエルを解放し来臨を待望され ていた存在であったのだろう。それだからこそ その夢が破れたイエスに失望したのである。 マルコ福音書はイエスと民衆のいきいきとし た関係を描く一方、弟子批判が多い。その弟子 達も初めは民衆の中の一人として、いきいきと した者たちだった。毎日イエスと生活するよう になってイエスとの関係がどう変わっていった のだろうか。 私は教会関係の他に、死刑廃止国際条約の批 准を求める「フォーラム90」「無実のゴビン ダさんを支える会」東京拘置所のそばでビラを まく「そばの会」・・・等に関わっている。そ れぞれ運動の趣旨は違うが必ず中心になってそ の運動を支える人々がいる。一つの運動はその 思想性(目的性)と人間関係が大きく影響する と思う。「フォーラム90」の活動から活動の 具体的あり方を見てみたい。 リーダーは安田弁護士だろう。検察、中坊の 策略で被告の身でありながら死刑廃止に取り組 んでいる。刑事弁護もたくさん抱えているが、 民事にも精通している。依頼された仕事は手抜 きしないため、毎日夜遅くまで仕事をする。だ からといって近寄りがたいということはなく、 TシャツにGパンという弁護士である。フォー ラム90の会議でも人の意見をよく聞き、しか も運動にとってよいと思ったことは受け入れて いく姿勢がある。先生と弟子という関係ではなく、 意識、知識の差はあるが同じ仲間という視点が ある。世論では死刑廃止は少数派である。しか も死刑廃止までの道のりを議論すればまた意見 が分かれる。例えば終身刑導入を巡って意見が 分かれた。 フォーラム90は個別支援はしない建前であ るが、個別支援のグループとは密接な関係である。 九月一二日向井伸二さんが処刑された。教団の 牧師である向井武子さんは養子縁組をし義母と してこの事件と彼を受け止め支援してきた。未 だにショックから立ち直っていないと聞く。ま た死刑囚富山常喜さんは四十年間獄中から無罪 を訴え続けていたが九月三日獄死した。この死 は執行と同じである。世界は廃止国の方が多く なり韓国や台湾もその方向に進んでいる。ブッ シュが知事時代最も多い死刑執行をした。あた かも自分が神のごとくに振る舞う。死刑存置は 人権の意識を引き下げる。 ところで、イエスと弟子の関係は教える側と おそわる側になっていたのだろうか。しかも思 想(考え方)もずれてきていると思われる。こ れでは肝心なときあなたを知らないと言わせて しまうだろう。これはリーダーとしてのイエス の責任でもあろう。 今私たちが復活のイエスを強調することは新 たな神の国運動ではないか。そしてそれは今す ぐに来るものでない、天国のこととして理解す ればペテロのように否認せずにすむ。しかしそ れは一四章の六六〜七二節がまだこないだけで あり、鶏が鳴いていないだけではないか。 私は北松戸教会が好きです。教会に集う一人 一人が皆違うたまものをもっており楽しく語り 合えるからです。久保田牧師をリーダーにしつ つも、しっかりした理念、思想もありませんが、 本音で正直に自分たちが経験したことを語り合 えればいいのではないでしょうか。それがイエ ス運動(福音)の中身だと思っています。
9月28日の説教より 創世記三章一〜一九節 「楽園追放−−例外者になる」 久保田文貞 創世記一章から一一章に描かれている原初史の 一つ一つの物語は、文学的に神話のジャンルに入 ります。この「原初史」は、長い間伝承された神 話的な素材を使っているわけですが、それも一朝 一夕にできたわけではない。古代イスラエルの歴 史の中で何度か再構成されて時代時代に継がれて いく。そして今わたしたちが手にしているような 「五書」の中に原初史が最終的に位置づけられた のです。その時期は、イスラエルが国家として消 滅しバビロニアに強制移住させられた後、さらに 言えば、ペルシャがバビロニアを滅ぼしユダヤ人 が帰還を許されエルサレムを中心に復興が進んだ 後、つまりイスラエルの民がペルシャ帝国内の一 宗教団体として部分的な自治が認められた段階の ことなのです。ということは、彼らが現実的かつ 政治的野心をもぎ取られ、−−−しかし、このこ とは彼らがかえって政治的野心から自由になった ことを意味するわけですが−−−この世界と歴史、 そして人間を〈神学的〉に思索せざるをえなく なった結果の産物だと見てよいと思います。ここ で〈神学的〉といったのは、彼らが政治力を失って、 しかしそれだけにかえって世界大の事柄が見えて きてしまいながら、帝国から許可された「宗教」 として、それを観念的なものとして限定せざるを えない、そういう去勢された特殊思索としての 〈神学〉のことです。だが、このような、ある意 味で歴史に鍛えられた〈神学〉が再び支配権力と 結びついて別の展開をしていくということは、後 のユダヤ教やキリスト教の歴史が示すとおりです。 二章三章の創造と楽園追放の神話的物語もその ような〈神学的〉思索の結果、神話の豊かな表現 (ほんとうはこの表現も自分では少し気持ち悪い のですが)を壊して人間と歴史の神学的な地なら しをしようとしているように思えてなりません。 というわけでわたしとしては勢い、原初史編者の 人間観や歴史観に対する透徹した〈神学的〉眼差 しと、後にその延長線上に立ち上げられたキリス ト教的な、神学そのものでもある創造論を、むし ろ内側から壊していく方に賭けたいのです。 さて、原初史編者は明らかに、エデンの園にお いて神と人間が安寧な関係にあったと想定してい ます。しかし、そこで人間は「神のように善悪を 知る者」ではなかった。ここで「善悪を知る」と は倫理的な判断力をもつというより何よりも、自 己とはほかの誰でもない自己自身に拠る以外にない、 つまり自己が他者に向かって応答=責任的な主体 を張るということでしょう。どう見ても神とアダ ムの関係は応答=責任的に対等な関係ではない。 関係という事柄は、大きいとか小さいとか、強い とか弱いとか、いろいろな限定を受けても、根本 的にこのような応答性において対等であるという 前提で成り立つものです。 神がなぜわざわざ「善悪を知る木」を園の中央 においたのかという問いは、キリスト教的には立 ててはならぬ問い、この物語に登場する蛇の懐疑 に通じる問いですが、それを断固封じるとすれば、 「園の中央にある木からは食べてはいけない」と いうあのタブーの二番煎じの愚を重ねるだけです。 ・・・人は蛇の誘惑を待つまでもなく、「神のよ うに知る者」となって園を早晩あとにすべきだった。 人は神の囲いの中にただ安住すべき存在ではない、 園から追放されようと、責任応答性を背負わされ ながら園の〈例外者〉として生きるよりない・・・ という通低音がオリジナルな神話の底に響いてい るように思えてなりません。もちろん〈例外者〉 〈城外追放者〉として生きるということは、そん なに格好良いことではありません。だから、人は あの時手にした〈倫理〉の決裁力を使って再び 〈城内〉を仮構し、今度は城内の秩序力を発揮し て他者を追放する側にまわるか、追放される他者 になるか・・・わたしなりに言えば、それがその 後の原初史と人間の歴史だと。 楽園追放の物語で傑作なのは、女が蛇に誘惑さ れるくだりです。男はその間「一緒にいた」 (六節)ことになっています。誘惑に負けていく(?) 女を傍で見ていて男は何も言わない。「ボーっと していた」のです。女から「あんたも食べなさいよ」 と言われて、男は女が死なないのを見て食べる。 これだけでもずるいやつだと思いますが、神がやっ てきて、「食べたのか」と問われると彼は「…女 が木から取って与えたので食べました」と答える。 最悪の責任転嫁だと思います。女も蛇に責任転嫁 をしますが、ハリウッドの映画なら女は男に蹴り を入れて立ち去るというところでしょう。この破 綻した男と女はその後も小島信夫ばりに「別れな い理由」をひっさげて城外で暮らすのです。
9月21日説教より ヨハネ福音書一章一九〜二八節 「告白という形」 久保田 文貞 洗礼者ヨハネの運動が大きくなってユダヤ当 局の調査団が彼の下に派遣された。それがユダ ヤ社会全体にどのような影響を及ぼすのか当局 として無視できないということなのだろう。 「あなたは何者か」という問いにヨハネが「た てた証し」はずなわち、「告白して否まず『私 はキリストではない』と告白した」と。人定質 問は執拗に続く。「それではエリヤか」「あの 預言者か」と、応えはみなノーである。「あな た自身を誰だと考えるのか」「主の道をまっす ぐにせよと荒野で呼ばわる者の声である」とイ ザヤの言葉を借りて応えた。 彼は、ユダヤ社会に通用する既成のキャラク ターに同定されることを否定して、ただ「主の 道をまっすぐにせよ」という「声」にすぎない と言ったことにも惹かれるが、今はそれをおいて、 「告白した」という語に注目しよう。「告白し て否まず『わたしはキリストではない』と告白 した」と二回も告白という語が出てくる。 新共同訳は「公言して隠さず、『わたしはメシ アではない』と言い表した」となだらかに訳し てしまったが、ここはたとえギスギスした訳に なるとしてもわざわざ二回も使った「告白」と いう語を残すべきだろう。「告白」という語が この福音書が読まれたヨハネの共同体にとって も、そしてその後のキリスト教会にとっても、 すでに特別な用語になっているのだから。 ヨハネ福音書に「告白」homologeinという動 詞が使われるのは、これ以外に九・二二と 一二・四二だけ。いずれも、ユダヤ人たちの前 でイエスをキリストと告白するという形で出てき、 しかもそのことによって「会堂から追い出」さ れる事態を引き起こすものとして使われる。 九・二二の物語では、特に癒された若者の両親 がユダヤ人たちを恐れてということになってい るが「あれはもう大人ですから、自分のことは 自分で話せるでしょう」と語っている。告白す るということは、それまで自分を規定したもの から自由になって、自分の意思で自分を形成し、 内面を掘り下げていく契機を持っている。告白と いう形式が、主体を作るといってもよい。 これと関連して自分を作るということは、自 分で居場所を定めることだ。洗礼者ヨハネは、 その点、特異な告白をした。「わたしはキリス トではない」という告白は自分の居場所を選び 取る前に、キリストの場所を〈あの方〉のため に準備した。そして自分は居場所とは言えない ような居場所=荒野から呼ばわる「声」とした のだから。後に洗礼者もイエスをキリストであ ると「あかし」=告白するが、この福音書が読 まれ聞かれる時代には、九章の例で言えば、こ のような告白は〈会堂〉=ユダヤ人共同体から の追放を意味した。そこでは教会とはユダヤ教 から閉め出された者たちが新しい集団に加入す るということになる。 しかし、告白によって、一度は共同体からの 追放という試練をかいくぐるまでの主体性を発 揮しながら、告白した者の集団の内部に入った まま守りの姿勢になってしまうとしたら残念な ことだ。その後のように告白しても共同体から の排除ということが大した問題でなくなれば、 告白とはその集団への単なる帰順を表明するだ けのこと。漢字の「告白」という語は、 〈ありのままを包み隠さず言ってしまう〉こと を意味するそうだ。包み隠さず言ってしまうとは、 そのことによって結果がどうなろうと、お上に 従いますという服従の意思表示というわけだ。 キリスト教も、近代市民社会も〈告白〉をポ ジティヴな概念とする。どちらも一見して隠し 立ての必要がなく、自由に告白できる居心地の よい空間であるが、よく考えてみるとどちらも、 もはや内部で内部に向かって告白するだけの同 語反復と自慰行為にすぎない。共同体から排除 されるどころか、「真の共同体」(?)に迎え 入れられるというリアリティを再現させるだけ の行為にすぎない。 告白することによって共同体を追放されると いうよりなにより、すでに共同体を別の理由で 現に追放され、共同体に向きあって生きている 者たちの言葉を聞こう、そして語ろう。
9月14日説教より 「家に向きあう」 ルカ福音書10章1〜12節 久保田文貞 いわゆる一二弟子派遣の物語は、福音書の 上では、マルコ六章八節以下が最も古いのだが、 実際にイエスが語った言葉かどうか、議論のあ るところである。もっとも、これが史実かどう か争ったところで、ほんとうのところはわかりっ こない。ただ、最初期の、イエスの弟子を自称 するあるグループが、イエス語録の中にこのよ うな言い伝えを遺していたことだけは確かだ。 そのグループでは、ほんとうに伝道旅行に際し て「杖一本のほかには何も持たず」「パン」も、 袋も、帯の中に銭も持たず、ただわらじをはく だけで、下着も二枚は着ない」という規定を課 していたかもしれない。宗教社会学的に、その 時代、このような放浪のラディカリストが存在 したという説があるが、そのようなグループが 実在したというなら、彼らもやはり霞を喰って いくわけにはいかないから、そもそもの初めか らある種の支援者や、あるいはそういうラディ カルな形態をゆるすなんらかの仕組みがあった としか思えない。 イエスの時代からも、最初期の教会からも数 十年を経た、1世紀末のルカの歴史感覚は、イ エスが生きておられた〈キリストの時〉も、聖 霊に満たされた最初期の〈教会の時〉も、自分 たちが生きている時とは違う〈救済史〉の特別 な時であった。−−−もはやあの時から遠く隔 たった今、その特別の時に語られたラディカル な言葉を、真に受けてはいけない。現在は、あ のようにラディカルな形で始められた伝道の成 果の、こちら側にある−−−というわけだ。そ れがルカ福音書のスタンスである。 もちろん、そうは言っても、このラディカル な弟子派遣の言葉は、特別の時を過ぎたこちら 側にいる人々(それは私たちも入ることになる) にも意味がないわけではない。ラディカルな形 で派遣された弟子たちの言葉は、依然としてど こかの〈家〉(オイキア)に届くということ、 〈家〉の者はその言葉に対してなんらかの反応 をしないわけにはいかないという点では、 〈キリストの時〉〈教会の時〉と今とは本質的 に変わらない。あの特別な時のまっただ中にあっ ても、〈家〉は、それを無視し、日常を消費し て貪欲に生き続けられるところである。その意 味で〈家〉は、あの特別の救済史的な時も、ル カの時代の時も、そして今も、歴史を通底して いる場所ということになる。福音書の、とりわ けルカの図式から見ると、この〈家〉こそが福 音の標的ということになる。 だが、〈家〉の側から見れば、なんとも不愉 快なことだと思う。有無を言わさず、福音を受 け入れるか、受け入れないかの選択を迫られ、 その結果が、神の祝福を受けるか、呪いを受け るかするというのだから。(私としては、イエ スが人々にこのような踏み絵的な迫り方を促し たとは思っていない) ここで問題は、キリスト教の言葉が向きあう べきとしている〈家〉という前提だ。父がいて、 母がいて、子がいて、兄弟、姉妹などなどがいて、 いつどこでも、人間のなまの営みが確かに実在 している〈家〉。そこには、文句なく生きてい る人間がいる。そのような現実的で実在感ある 人間こそ、伝道の対象だというときの〈家〉。 この〈家〉とはほんとうにそんなに確かな実 在なのか。いつの時代、どこでも人間がいるか ぎり、この最小の社会単位だけは、変わらずあ るという前提は、案外、家を捨てた者や、家か ら捨てられた者たちのコンプレックスが作りだ している仮構的なものだ。現実の家や家族は、 普遍でも不変でもなく、たびたび変容に変容、 崩壊に崩壊を重ね、男と女の対の関係自体も変 形されて、ついには、男・女という二項図式も 毀れていく。 このような事態は、今に始まったことではな いかもしれない。例えば、イエスの時代、パレ スチナはローマ帝国の支配下にあって、大きな 経済変動の時、自営農が作る基本的な社会単位 としての〈家〉(オイコス)制度が崩壊した時 代であったという。結果たくさんの無産者が都 市に掃き出された。既成の家族のきずな寸断され、 それと対照的に保守主義が叫ばれ、原理主義が 跋扈する。だが、家がどんなに崩壊され、既成 の絆が寸断されようと、人は再び他者と関係し 他者と連帯して生きようとする。これだけは疑 えない。それを家族という喩で受けとめようと、 ほかの名で呼びかえようと。 そしてこれだけは言っておかなければならない が、ナザレのイエスは、そのような人々の間に いることと、神の福音の出来事(神の国)を受 け取ることとが重なって見えていたのだと思う。
先週(9月7日)の説教から
「二つのものを一つにしない」 エペソ書二章一四〜一九節 「実に、キリストは私たちの平和で あります。 二つのものを一つにし、ご自分 の肉において敵意という隔ての 壁を取り壊し,規則と戒律ずくめ の律法を廃棄されました。」 「キリストは双方をご自分において一人の 新しい人に造り上げる」 「両者を一つの体として神と和解させる」 「両方のものが一つの霊に結ばれる」 「あなた方はもはや、外国人でも寄留者 でもなく、聖なる民に属するもの、神の家族」 こういう言葉が、過剰に飛び交う場は、新しい メンバーが入会する儀式の場である。教会は入会 者を迎えて、ここではあらゆる差異が解消され、 一つになると宣言する。だが、そこに入会したか らと言って、現実には、この共同体の中だけで生 活するのではない(もっとも、エッセネ派や後の 修道院のように、外部と断絶した生活を志すもの もあるが)。家族もいるし、親族もいる。仕事も 続けなければならない。現実生活は差異を抱えて 生きていかなければならない。それだからこそ、 信仰の共同体に帰ると、一つであることがいっそ う強く求められ、意識される…。 エペソ書は、酷な言い方をすればパウロの名を 借りた偽書であるけれども、内容的にはパウロ自 身の手紙の言葉の中に、同じような言葉がいくつ も見られるので、重なるところが大きい。「二つ のものが一つになる」という言い方はとにかく信 仰共同体の形成期には、必然的に過剰な意味を帯 びるわけだ。 だが、更にさかのぼれば、ユダヤ教の中で、義 人と罪人、救われる者と滅び行くべき者が、差別 され、後者が排除されていた。ユダヤ人としてユ ダヤ教社会の中で生きざるをえない者に逃げ場が ない。そこが教会のような共同体とわけがちがう。 教会のようなところならば、いやなら行かなけれ ばよい。しかし、ユダヤ人社会では、罪人として レッテルを貼られてしまった者は、その内部にと どまるより生きる道はない。 ナザレ人イエスは、このような逃げ場のない、 それでいて差別され排除され抹殺されようとして いる人々のそばに自分の居場所を求めた。それは、 居場所がない人々の間で居場所を作ろうとする 捨て身の行動だったのだ。イエスの信念は、神の 〈よし〉(義)=神の福音は、そのような居場所 が実現されていくことにかかっていると踏んだこ とだ。 それは、ユダヤ人社会の間に、なにか新しい別 の共同体を作ることによって始まることではない。 一見して、逃げ場がない、隙間がないところに出 かけていって、彼自身の居場所を見つけようとす ることだ。そこでは先が読めない。勝ち目がない。 計算ができない。これという人間仲間を形成する というよりは、せっかくの共同性をぶちこわすよ うな現象をもたらす。 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもた らすために来たと思うのか。そうではない。 言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、 一つの家に五人いるならば、三人は二人と、 二人は三人と対立して分かれるからである。」 (ルカ一二・五一) 普通の解釈は、迫っている終末を迎えた事態を 予言者のように語った言葉ということになるが、 私には、そんな宗教家の苛立ちの言葉とは思えない。 そうではなく、「分裂」とは、イエスがあの居場 所を見つけようとして踏み込んでいくとき、どう しようもなくぶつかってしまう裂け目のことであ り、既成の共同体を割って、居場所をなくした人 々の隣りに見つけていく居場所のことだ。福音と はそういう居場所を神みずからが作っていく出来 事のことだ。 そのような新しい居場所に、それ以上のものを 期待してはいけない。「これこそ、ほんものの共 同体だ」とか、「二つのものが一つになる」とか。 気持ちは分からぬでもないが、どんなに美辞麗句 をもって飾り立てられようと、そのような共同体 は、もうひとつの堕落の形を加えるだけだ。