説教ノート
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先週(6月29日)の説教から 「からだのよみがえり」 carnis resurrectionem コリントの信徒への手紙一一五章 三七〜四四節 横田勲『傍らに立つ者�』 使徒信条講解25 そこでは大泉教会の子どもとの合同礼拝で話さ れたものになっています。私の場合もそうなの ですが、このような合同礼拝ではどうしても子 ども向けに話をしてしまいます。大人たちの前 で「私は今子どもたちにこんな風に話していま すよ」と実は大人たちに言い聞かせている。す ると大人たちはいつもとちがってまさに「大人」 になっていく。彼らは話の直接の対象者にさせ られている子どもたちを柔らかいまなざしで見、 一人奮闘して冷や汗をかいている説教者を眺める。 子どもたちの方は多分、学校の授業参観と同じ ような意識になっている。授業や話の中身はど うあれ、そこに起こっている〈非日常にして、 いびつなる事態〉を大人が思い込んでいるより ずっと的確につかみ取っているというわけです。 三〇年ほど前、私の恩師がドイツに留学して いたとき、小さな町の教会に出席していたそう ですが、そこの礼拝は毎日曜が子どもと大人の 合同礼拝だったというのです。というより、牧 師は講壇に立ってごく普通に大人たちの眼を見、 大人たちに向かって語る。子どもたちは当然の ように黙って座っているというのです。つまり そこに座って、何百年も続いてきた〈事態〉を 受け入れる。そうやって彼らはくり返し礼拝を 守ってきたというのです。〈我々もそうしなけ ればならないとは言わない、ただ、彼らはそう いう積み重ねの中で教会を続けてきている、こ の差を埋めることは一朝一夕ではできない、自 分は、そういう積み重ねの一端をこの国のなか で果たしていきたい〉とその先生は言いたかった と私は受けとめています。一つの見識だと思い ますし、恩師がその後因襲の強い地方に移られ て三十年以上そこで孤高に伝道し、そのような あり方を実行しているのだと思うと、合同礼拝 のことであれこれ考えることもないかとためら います。 その上で敢えてこれについて述べておきます。 近代社会は、子どもに限らず、一人一人の人間が、 平等にそして自由に選びとり感じとり表現する 存在であると承認しあって成り立っています。 子どもとは単に未成人ではない、子どもには子 どもなりの世界があるのだという黙認があります。 けれども、実際には、ほとんど空文化しています。 でも建前上この理念でやり続けてきています。 子どもの前では子どもにあわせて話をしなけれ ばならないと思い込んでいます。子どもには子 どもの世界があるのだからそれを尊重しようと いうわけです。しかし、これらみな、子どもか ら発信された言葉のように見えて、実はよく考 えてみると、大人から出た、大人のための、大 人の世界の言葉です。子どもの世界の言葉をオ レは解かっているんだと言わんばかりに、もの わかりの良さそうな顔をして子どもに近づき話 しかけ、子どもの世界に介入、いや子どもの世 界を作ったのは彼・彼女なのだから介入もクソ もないのだけれど、とにかくそうやってよって たかって子どもをいじくって子どもをダメにし てしまう大人には注意した方がいいよ。そうやって 彼らは百パーセント子どもを手許に引きつけ管 理しようとしているのだと、言ってやりたいのです。 というわけで、結論めいたことを言えば、子 どもと大人の合同礼拝をしっくりとしようとい うのは無理なこと、むしろ、ぎくしゃくしなが らでも、そのいびつさをしっかり感じ取りなが らやっていこうということなのですが。 それで、本題に入らなければならないのですが、 説教ノートとしては字数もつきて、本題は次回 のところと一緒に記すことにします。
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《説教ノート》 先週(6月22日) の説教から マルコ福音書2章 1〜12節 「罪の赦し」 remissionem peccatorum 横田勲『傍らに立つ者�』使徒信条講解24 をもとに。「神が主イエス・キリストの贖いの 業を通して罪を赦してくださるということ、そ れは聖霊、神の恵みの力としての働きによるも のです」とここでも横田はオーソドックスに徹 しています。しかし、「〈罪の赦し〉を信じる とはそこからから…なにか気の利いた人生観を 引き出すことができるような前提ではなく、た だ感謝と喜びのみが伴うものであるのです。感 謝と喜び、歌と踊りと行動を生み出すようなも のでない「罪の赦し」、それは発音だけの、ヌ ケガラのようなものです。」この辺り、とても 彼らしい。三年ぐらい前だったか沖縄に行った おり、彼が宜野湾センターの二階で焼酎をしこ たま飲んでずっと踊りこけていたのを思い出し ました。 再び彼は疑似正統主義者に戻ります。聖書に おいては、罪とは「徹底的に神への違反のこと」 と規定します。「罪というとき、社会、つまり 周りの人を見て、後ろ指さされないように、と 考えるのではなく、神の求めに対して正しいか どうかから判断します。」この考え方は結果的 に次のようなクリスチャンの姿勢を生みます。 「人様がどう見るか、ということを考えに入れ ません。人の和というよりも、神の前に立つ私 という、孤立した姿勢を要求します。」「キリ スト教信仰はよく言えば人を自立させます。悪 く言えば孤立させ、一見変わり者のように見さ せてしまいます。」確かに、この国のクリスチ ャンとして思い当たる節がありますが、それで ほんとうに自立しているのだと胸を張ることは とうていできません。 では罪とは具体的にどのようなものか、古代 ユダヤ教は旧約聖書の中に六一三の律法を数え 上げました。そこに示されている「神の戒め」 に違反することを罪と考えたわけです。しかし、 そのほとんどが「もし〜すれば、罪とされる」 という決議論的な法解釈に足をすくわれ、いわ ゆる「律法主義」を生み出しました。 イエスは、この煩雑な法と法解釈を「神と人 とを愛するという二つの戒めにまとめ」てしま います。これは単に六一三の戒めを二つにした という問題ではなかった。実質的に法の支配と いう発想を解体させたというべきです。法とい う緩衝帯なしに人は直かに「神の前に立つ者と してその時々の判断と真実を求められる」とい うことでしょう。 横田は、創世記三章の蛇の誘惑による堕落物 語を素材にして、罪の具体的表れとしての高慢 ・虚偽・怠惰について書いています。まず高慢 について、「蛇の偽りによって、…神のように 善悪を知る者となった」「自らを神のごとく思 いこみ、まことの造り主を仰がなくなる」その あげくが「偶像崇拝」だというのです。この議 論には、まず人には誰が神かを判定する能力が 備わっているということが前提になっていま す。これ自体がすでにものすごい高慢さを宿し ています。しかし、その高慢さは糾弾されない で、「あなたこそ神、わたしはあなたに従いま す」と謙遜の鏡のように言わしめる。何ものを 神とするかという高慢なる決定権が組み込まれ ていながら、その高慢さを押し殺してたどり着い ている謙遜です。ここにある種の虚偽の原型が 忍び込んでいると言わざるをえません。高慢に も神に反抗することが罪だという規定の下では 人は二重にも三重にも罪の連鎖にからめ取られ て行くでしょう。キリストはその連鎖を断ち切 ったとパウロ風にまとめることになるのでしょ うが、そしてそれがキリスト教なのでしょうが、 私としてはそうまとめたくありません。わが師 匠には申し訳ないけれども、マルコ二・一以下 にでてくるような「子よ、あなたの罪は赦され る」という言葉の意味するものは、あのユダヤ 教とキリスト教に共通する罪のシステムにはめ 込まれていた人をそこから外しとってしまうこ と、そのようにして法と罪のシステムのそここ この間に遊びを作っていくことだと理解しま す。システムを管理し維持する側の者にとって はやっかいな抵抗勢力になるでしょうが、私に は、これは十字架と死に行きついてしまったイ エスの生き方そのものが指し示しているものの ように思えてなりません。
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先週(6月15日)の説教から 第一ヨハネの手紙一章3,4節 「聖徒の交わり」 久保田文貞 横田勲『傍らに立つ者�』使徒信条講解23 をもとに。
credo・・・sanctorum communionem sanctorumは、「聖なる」という形容詞の複数形 というだけ。それが「聖なる人々」か「聖なる モノ」一般か明記されていません。ただ、前に 触れたように「聖」は人間にかかるにしろ、モ ノ(恵み、真理、救いのようなものになるでし ょう)にかかるにしろ、それ自体が聖性を持っ ていない、あくまで「聖」とは神との関係性に おいて「分離された」ものというほどの意味と 考えれば、「聖徒」でも「聖なるモノ」でも基 本的には問題ないと横田は言っています。 そして「交わり」。これについて横田は「何 かオツに構えていて、教会が本来持っている豊 かな、生き生きとした、生活の臭い、体臭が感 じられない…、私は「交わり」なんていうと狭 いなあーと感じてしまう」と書いています。集 合論の「交わり∩」と「結び∪」を上げて、こ こに出てくる「交わり」communioは、AかつB かつCというようにA,B,Cに共通なところ で一致する何かではなく、むしろAもBもCも というように、A,B,Cをそのまま全部受け 入れる「結び」のことだというのです。「結び」 という数学用語は英語でjoin といったと思いま す。上手だとか、下手だとか、資格があるとか、 ないとか、そんなこと問題ではない、Join us そ れが、ここのcommunioということだというので しょう。 「聖徒の交わり」とは具体的になにか」 �「主イエスとの出会いに招かれている。」「把 握すること、つかむことならひとりでもできま す。つかまえられることに気づくには他者の証 言が必要なのです。それが教会で聖書について 学ぶということなのです。」 �「人は、聖徒の交わりとしての教会で礼拝を 守ることに招かれている。礼拝とは、主イエス が招きパンをさく食事の変形したものです。礼 拝を守ということは同時に形を造るということ です。」いっしょに賛美歌を歌うこと、主の祈 りや、信仰告白のような同じ言葉をもとめるこ とがその形だと言います。「隣の席にいる人に いらいらしながら、しかし、そこで共に神によ ってつかまえられていることに気づくのです。」 私としては横田さんのこれらの言葉にいささか 辟易しているというのが正直なところですが、 最後の文みたいのが、はさまっていたりして、 ほっとし、横田さんマジックにかかってしまい ます。 �「人は教会で祈ることへと招かれている。」 「密室で祈ることと同時に、祈りあうことが求 められている。」そして牧師としてのひとつの 経験が語られています。幼い子二人を残して若 い母親が亡くなった。葬式をしなければならな いのだが、「何をどう語りうるか全く見当もつ かなかった。ただ挫折感、虚脱感だけがあった。 …朝、無力感につつまれて、定めに従って朝の 祈り会の場に出ていった。…聖書を読む気は全 くなく、まして祈るなんていうことから離れき っていた。…無感動に発音しただけだった。初 めは確かにそうだった。しかし、いつの間にか、 引きずり込まれ、涙がポタポタ落ちていくのが 判った。その箇所は、(申命記八・一〜一〇)」 「みんなと一緒に祈ってください。どんな短 い言葉でもいい。…祈れなかったら祈るフリを してください。それもできないのだったら、そ の場にいるだけでいい。」「ただ、主イエス・ キリストの〈そば〉にいなさい。それは、主イ 、エスの体に連なることです。「聖徒の交わり」 とは多分このことでしょう。」 これがこの説教の結びの言葉になっていま す。祈れない者、祈らない者も、祈りの場に招 かれてある。神に頭を垂れるなんてできそうも ないと言うものも、礼拝に招かれてそこにいる。 そういうのが「聖徒の交わり」だと言うのです。 裏を返せば、祈れる者だけの祈りの場、礼拝が 好きでたまらない連中だけの礼拝、それは「聖 徒の交わり」になっていないということなので しょう。こんなガス抜き装置や、不完全維持装 置がそこかしこにはめ込まれていて、一見かく も正統的な説教書が固まらないで呼吸ができて いるという感じです。
先週(6月8日)の説教から エフェソ書2章14〜22節 「聖なる公同の教会」
ヘブル語の「聖」カードーシュはアッカド語 とカナン語から伝わっているもので、語義は二 説あります。一つは「隔離する」もうひとつは 「光り輝く、神の属する」ですが、いずれにせ よ「神にかかわり、神に属するもの」(横田) という意味でしょう。この「神にかかわる」つ まり「神に関係する」ということは、関わる人 間が〈聖〉性をもつようになるということでは ありません。聖なる神、絶対者なる神に関係す る者が、神と関係したからといって聖なる者あ るいは聖なる集団になってしまうということで はないのです。関係ということは、微妙です。 例えば、自分は神ではない、自分は聖なる者で はない、と言いながら(たいていのキリスト教 徒はそういうはずです)しかし、自分は聖なる 神の言葉を確かに聞いた、だからそれを実行す るというのはどうでしょうか。もちろん、こう いうのは、神と自分との距離が取れていない。 自分(たち)ではない他者なる神の言葉を、き ちんと距離を持って聞く、そういう自分(たち) を保持することがなくてはなりません。「距離 をもって聞く」とは、たとえ微力で知に疎くと も、自分(たち)の批判的な検証能力をかなう かぎり発揮して、聞き取らなくてはならないは ずです。つまり、「神の言葉」だからといって、 ただそれを鵜呑みし、硬直した「言葉」の奴隷 になることはない。鵜呑みしたものが「神の言 葉」の保証はない、むしろ自分で思い込んだ「神 の言葉」になっているということでしょう。こ こをはき違えると、敵を完膚無きまでに殲滅せ よと命じる聖戦思想・ホロコーストや、教会の 利害に反する者を異端者として平然と焚刑に処 した宗教裁判と同じ屋根の下にいることになり ます。 聖なる教会とは、神との関係に立っている教 会のことですが、それは教会が聖性を保有して 神の言葉、神の権威を輔弼できることを意味し ないのです。教会は、まさに神を礼拝するとい うように、神に関係する宗教行為を行いますが、 そのゆえに聖なる教会ということなのですが、 念を押しておかねばならないことは、だからこ そ、教会は聖性を保持しないということです。 神の言葉と、しっかりと距離を取る、つまり神 に向きあいつつも、あくまで神の他者として、 ふてぶてしくも神の言葉を、批判的に検証し、 そのようにして責任応答的に自らの言葉を選び 取る必要があります。 次ぎに「公同」とは、なにか。「公同」と訳 されたcatholicus(カトーリクス)という形容詞 は、ギリシャ語からの造語です。kat' holon、語 源的には「全体のため」「全体から」などとい う意味になりましょうか。「普遍的な」という 意味です。現代の教会一致運動(エキュメニズ ム)に結びつけることも可能でしょうが、もっ と大きな意味で、教会がすべての人々に開かれ、 すべての人々のために存在し、すべての人々か らなるということでしょうか。 もっとも前回、申し上げたように私たちはな にもかもすべて「使徒信条」で覆いつくそうな どと思う必要はないでしょう。あまり、ここで 大言壮語しないほうがよいかもしれません。そ こで、横田さんの言葉を借りてこう言っておき たいと思います。・・・「公同なる」つまり「す べての人々の」教会とは、「いかなる人をも排 除しない場所として主イエス・キリストの恵み を伝達するところ」、だから「公同なる教会を 信ず」とは、「わたしたちは教会がそのような 教会でありたい」という表明なのでしょう。(『傍 らに立つ者�』八二頁)
先週(6月1日)の説教から マルコ福音書4章35〜41節 「教会を信ず」 久保田文貞
credo in Spiritum sanctum; sanctam ecclesiam catholicam・・・ 使徒信条の第3項「聖霊を信ず」の後、 credo の目的語として「聖なる公同の教会、 …」と続きます。前にも記したと思いますが、 プロテスタント教会の一解釈としてcredo inが 支配するのはSpiritum sanctum まで、「聖な る公同の教会」は in の支配下にないとします。 つまりcredo sanctam ecclisiam cathoricam ; 前置詞の in がないと、「われは聖なる公同 の教会を」あくまで聖霊= 神の力の働きとして 「信じる」,つまり「神」や「キリスト」の場 合は、人格的に向き合い「信じる」わけですが、 「教会を信じる」というのは、そういう信じ方 とは違うというのです。横田さんの著書もこの ことに触れています。わたしもバルトの著書で このことを教えられ、若い頃ひどく感心したも のですが、しかし、今は、そこまで深読みして なにも「使徒信条」に寄りかかる必要はあるま いと思ってしまいます。伝統のラインでものを 考えてみること、あるいはそれらと対話しなが ら考えていくことにそれなりの意義を認めたい と思いますが、伝統に拘束されることはないと 思います。 さて横田さんの議論は、次のように運びます。 「教会が聖霊の働きであると本当に信じられる か」と、それに対して日本基督教団の汚点をそ の設立当時から現代までの歴史を振り返ってえ ぐり出しています。そしてマルコ4章35節以 下の「嵐の中の教会」論へと入っていきます。 「周囲が順調に動いているうちは、まるで自分 が船を動かすものであり、主役であるように思 っているのだが、いったんことが起こると、一 切の原因を他人のせいにしてしまう傾向」を教 団の姿の中に二重写しにして見ています。「教 団が、そして各個教会がみじめであること、そ れを別に不思議がる必要はありません。私たち と共におられる主イエスは、やせこけており、 手足に五寸釘のあとがあり、脇腹に槍のあとが あり、傷だらけの、人々の嘲笑にさらされた主 イエスなのです。もし教会が主のからだである なら、教会の、教団のみじめさを嘆く必要はあ りません。それは当たり前のこと、当然のこと なのです。主イエスが共に、傍らにおられ、主 イエスは、決して私どもを見捨てたまわないと いうことで十分なのです。問題は教団が自らの みじめさに目をつぶっているということです。」 その後、けっこう乱暴に、「教団は分解して もかまわない」「必要なら、主イエスは、この 地上の教会を破壊したもう」「それらのことは、 教会の頭である主イエスがなさることで、私た ちの領域のことではありません。」と言い放って います。そして「ひとりびとりは、自分に与え られた課題を肩をいからせず、また怠惰にな らずやってゆけばいい。教団の、教会の運命は 主が決めて下さる。粉飾せずに、かっこつけず に現実をありのまま見つめ、ひとつひとつてい ねいに反省し対処してゆけばいい。必要なのは、 ただ主イエスヘの信頼だけなのです」と。 この横田さんの教会論の一断面に、ちょっと 私の疑問を差し入れておきます。�自分の現実 をありのままに見つめられない教会(教団を含 む)が反省などしようはずがない、むしろ開き 直って「かっこつけ」「粉飾する」わけで、こ のことにどうやって出口がつけられるのか。� ここにも書いてあるけれども、例えば教団はア ジア侵略に手を貸し、キリストの名で戦争を支 持し、戦闘機を寄贈し参加している、このよう な「みじめ」な歴史に対しても、「自分の現実 のありのままを見つめ丁寧に反省し対処してゆ けばいい」と言って、肝心なのは「ただ主イエ スヘの信頼だけなのだ」ということなのか。果 たしてこれら「みじめ」な事柄に対して「丁寧 に反省し対処してゆけばいい」とぐらいに言っ ておいて、その道筋が開けてくるのだろうか。 意地悪く言えば、「丁寧に反省し対処する」主 体の誠実さだけを残すばかりということになら ないか。�。初めに書くべきだったが、マルコ 4章以下は、教会批判というより、あくまで弟 子批判つまり教会のリーダーへの批判が主要な モチーフだろう。「嵐」を教会の「みじめさ」 の喩として用いるのはどうか。 以上は私の疑問です。師にぶつけられないの が残念です。
先週(5月25日)の説教から 使徒行伝2章1〜4節 「聖霊を信ず」久保田文貞
「われ聖霊を信ず」Credo in Spintum sanctum という語句に特徴的なことは聖霊を、神や主イ エスと同等な人格的な他者としていることです。 横田は、聖霊をもっぱら「神の力」の働きとし ていますが、聖霊の人格的な他者性に触れてい ません。「われ聖霊を信ず」とは、「聖霊を信ず」 と告白する人間に聖霊が一人の方として向きあ っていることを表現しているのです。 つまり、聖霊はわれわれに知らず知らずのう ちにひたひたと押し寄せてきて〈私〉を取り囲 み、〈私〉を虜にしてしまうような、一方的か つ人間が反抗できないような、神的な力なので はない。それは、あくまで〈私〉に向き合い、 それに向かって「私はあなたを信じる」という 関係にたてるような他者なのです。「われ信ず」 とは、〈私〉は〈あなた〉をかぎりなく信頼す るという表明ですが、同時に〈私〉と〈あなた〉 の間の距離を持ち続けるという表明を含んでい るのです。 というわけで「われ聖霊を信ず」という表明 は〈私〉と〈霊〉はべったりと一致してしまわ ないという意味を持ちます。つまり〈わたし〉 と〈あなた〉は互いに同化してしまわない、〈わ たし〉と〈あなた〉ば非対称の、異なる存在で ある。つまり聖霊が〈私〉を捕らえて〈わたし〉 を同化させ、洗脳してしまうような関係をく私> と〈聖霊〉の間にとることはないということで す。 他者なる〈聖霊〉は〈わたし〉と非対称という こと。 このことを忘れてしまうと何が起こるか。〈聖 霊〉のもと諸個人のつぶが揃えられ、一つの企 画の中に押し込められる。実際にはこの粒のそ ろった諸個人は〈聖霊〉のもとを離れるや、政 治的な利害の中で規格化され、去勢された〈市 民〉の一優等生になるのです。みんなの中心に いる大文字的な〈主体〉のまわりで、そのコピ ー版としておそろいの小粒な小文字の〈主体〉 になっています。クリスチャンはこの収まり方 が実にうまいというわけです。もちろん実際に は差異はなくなったわけではありません。差異 はありながら、差異が覆い隠されてしまってい ることに何の疑問も持たずいるわけです。 〈聖霊〉と〈わたし〉が非対称であるとはこ のことを承認しないあり方をすることです。そ れは〈私〉と〈あなた〉の非対称な他者性を再 現して、その差異を直視するところからやりな おすということです。そこで、立ち帰るべきこ との一つは〈主体〉ということをあまりに自明 なこととして、安易にそこから出発しないこと、 〈私〉とはそう簡単にひとつの統一した主体と してく他者>に向きあうことができるような 存在ではないこと。この〈主体〉の危機はく他 者>の方でも起こっているだろう。〈主体〉と いう人格的な統合の失調、失敗がひろくおこっ ていること。 「われ聖霊を信ず」で始まらなければならな いことは、統合に失敗し失調状態にある〈私〉 の破れを繕い、覆い隠すことではなく、失敗し たまま、失調したまま、非対称のままでいいと いう他者〈聖霊〉に、失調しているいびつな〈わ たし〉がいびつな全身全霊をもって応じること でしょう。そしてそのことは、同時に非対称な 他者〈人〉との間で、同じようにして応じるこ とでしよう。
《説教ノート》 ピリピ人への手紙一章三〜五節 「人との関係を大切にすること」
手紙というものが成立するためには、発信人 と一人かまたは複数の受取人が必要です。もう ひとつ忘れてならないのは、手紙を送り届ける 制度です。通常この制度はあまり意識されませ んが、ほかの誰かが途中で開けてみたり、それ だけでなく途中で書き換えたりするようなこと がないという送り届ける制度への信頼が必要で す。この制度が確立しているかぎり、今日書い た手紙が数日後、あるいは数ヶ月後に遠くある いは近くにいる受取人に届こうと手紙は発信人 と受取人のコミュニケーションを立派に成立さ せると、みなされます。 送り届ける制度がそうとう重要なのです。そ れは郵便の制度が重要だということだけの問題 ではありません。開封されてから、その後何人 もの受取人が取って代って現れ、その後何年間 も読まれ続ける手紙があります。手紙を送り届 ける制度とは、手紙の文章をそのまま送り届け る制度のことであり、文章をそのまま維持して いく制度です。手紙はもしかしたら何年も地下 に眠り、そこで眠り続けるかもしれない。そう いうのはただ存在するだけ、それは送り届ける 制度の対象外です。送り届ける制度は、あくま で手紙が読まれる人がいることを期待して、組 み立てられているのです。つまりこの制度は受 取人がいることを求めるのです。ついにはこの 制度が受取人を作り出すと転倒した言い方さえ できようというものです。 この制度には、ほんとうは実体はない。郵便 局のような実体的な制度があるじゃないかと言 われるかもしれないが、この制度の本質は建物 でもない、実定的な組織でもない。手紙がかか れるべくして書かれたことを知っており、書か れることを求めており、その手紙が読まれるべ くして読まれることを知っており、読まれるこ とを求めている、そういう関係を維持している ような、発信人と受取人にも匹敵する制度その ものなのです。発信人が発する挨拶、祝福を受 取人が受け取って応える、そのような関係こそ まずは何をおいても手紙を送り届けている制度 に一番近いものでしょう。 ヨハネ福音書八章一〜一一節までの番外編の 物語、パリサイ人が姦通の現場を捕らえられた 女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに問 いを出した。こういう女は石で打ち殺せと、モ ーセは律法のなかで命じているが、どう考える かと。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書 き始めた。しかし、彼らがしつこく答を迫るの で「あなたたちの中で罪を犯したことのない者 が、まず、この女に石を投げなさい」と言い、 身をかがめて地面に書き続けた。するとパリサ イ人たちはいなくなり、イエスは女に誰も石を 投げる者はなかったか言い、「わたしもあなた を罪に定めない」と言う。 その時、イエスは何を誰に向かって書いたの でしようか、それとも自分のためのただのメモ だったのでしょうか。そんな問いは末梢的なこ とだ、大切なのは、罪と定められかねなかった 女をパリサイ人もイエスも罪に定めなかったと いうこと、イエスが地面に何か書いたというの は、物語の構成上のただの小道具にすぎないと いうのが正解でしょう。しかし、書くというこ とは自分のためのメモであろうと、何者かに向 かって書くのであり、手紙と同じように受取人 を求めて書く、書くと読むの制度の中のひとつ の事柄なのです。もちろん物語はそこに何が書 かれたか一言も言わないし、後半のイエスと女 のやりとりに及んでは、イエスが何かを書いた ことなど忘れられているのですが、しかし、何 者かに向かって確かに何かが書かれたのです。 読みようがない文章、解きようもない記号が、 しかしあの制度の下では、読まれるべくして書 かれたものとして読み手を求めているかのよう に、地面の上で開かれているのです。 (ここに書いた「説教ノート」は、むしろ説教 <後>ノートなのです。ヨハネ八・一以下の話 をしたら、後でHさんから「イエスは何を書いた のですか」と尋ねられました。即座に「分か りません」とお答えしたのですが、Hさんは納得 されなかったようです。私もいやな答をしたと 悔いが残ったので、改めて考えました。 それがこのノートになりました。)