説教ノート

2004年 12月26日の説教から 「恵みと真理のクリスマス」 飯田 義也  私も職業的牧師でなくなり、よく調べた話は 無理になってきています。今日は、特養での実 体験からお話しします。  最近日本では、世を挙げてクリスマスです。 ちょっと前は、特養のデイサービスで クリスマ スを取り上げると、創価学会の人達が文句を言った ものですが、最近は聞きません。アメリカの陰 謀かどうかはともかく、少子化で子供のための 行事には力が入るようです。聖書で「民衆」と いって取り上げられる人々、抑圧も受けていた でしょうが、したたかでもあったのではないで しょうか。日本の「クリスマス良い取り」を見 ていると思います。  ヨハネ福音書1章はクリスマス物語。他の福 音書がことがらで語るのに対し、抽象的に語って いて、良くも悪くも「観念的」です。「言葉 (ロゴス)」と「肉(サルクス)」との関係が 描かれます。ここでの「言葉」は、「観念」と 言っても「神」と言っても良いと思います。一 方「肉」は、肉体的存在である人間を象徴します。 言葉が最初であることが前提で、ここが大切です。 施設職員の言語環境を考えるとよく分かります。 職員の集まりのような集団を、組織開発の世界 では「課題達成集団」と言います。この集団に 於いて、自分を正当化するための言葉が飛び交 うとき、課題は達成されないばかりか傷つけ合 いが横行します。肉が先で言葉が後だからです。 施設で最新情報を集め、課題達成にふさわしい 言葉を交わすように心がけると、皆が納得して 動機付けが明確になり、課題に向けた集団に変 わってくるのです。ここでは、神の言葉を語る というほど大げさなことではなく、せいぜい、 集団の外で語られる言葉を外部から内部に持ち 込むという程度ですが、それでも、言葉が先で 肉が後であることで、集団本来の機能が働き始 めるのです。例を挙げると、身体拘束廃止につ いてマニュアルを聞いてきて職員に伝えると、 実際に廃止への動きが始まります。「廃止しま しょう」などとスローガンだけではダメで、肉 の思い、つまり「それはたいへんです」・・な どが出てきてしまいます  ヨハネは、すべての人間にとって外部からの 言葉であり得るような言葉があることを信じて います。そして、その言葉は世が生まれるより も先にあったというのです。つまり、世界より も本質的であると指摘しています。ドイツの近 代哲学者ヘーゲルは、絶対他者と表現しました。  本当のコミュニケーションは、そうした外部 (他者)との言葉のやりとりです。日常的な会 話は、もちろん人間同士で交わしているのですが、 案外同質性の中に埋没してしまっているか、あ るいは、お金に守られて、主体性を賭ける対話 をしないですませてしまっています。  もう時効でしょうから申しますが、施設にも とお金持ちで、破産して生活保護で入所された 方がありました。金持ちは天国に入れないとい うのは本当で、入所当初、威張り散らして、職 員に心からいやがられる方でした。2年が過ぎ た頃、その方が「ありがとう」を言えるように なったのです。  昔、コップ半分の水の話を聞いたことがあり ます。コップに半分入った水を見て、半分しか ないと言う人、まだ半分あるという人がいると いうのです。特養の介護サービスも所詮半分の 水です。いくらやっても足りないし、逆にやら なくてもこんなものと言えば、それで済んでし まいます。この、半分の水に「ありがとう」が 言えたら、その人自身のメンタルヘルスにも効 果があるというものです。  「ありがとう」から、心の通う対話ができる ようになり、他の人の気持ちが分かるようにな りました。他者の言葉を聴くことができるよう になったのです。あとは、絶対他者の言葉を聴 けるようになっていたら、・・は、欲張りでしょうか。  神の言葉に聴くことを始めるとき、クリスマ スは単にうれしい楽しいものから、恵みと真理 のクリスマスへと変わります。


12月24日の賛美礼拝から   ルカ福音書2章1〜21節 久保田文貞  キリスト教は、イエスがキリスト=メシアで あると告白することから始まりました。イエス の福音の出来事は、それまでのメシア運動のよ うな宗教的民族運動や軍事的解放運動と違って いました。福音書によればイエスは辺境のガリ ラヤに活動の拠点を置きました。それは彼が、 人々が生活する身近な場にとどまろうとしたこ とを意味します。また福音書によれば彼は「罪 は赦される」と宣言しました。彼が、「罪人」 という烙印を張られた人々を招いて食事をし彼 らの仲間になりました。また、彼は、なんらか のハンディキャップやスティグマ(キズ)の故に、 聖なる者と持ち上げられたり、蔑まれたりする ことに反対し、彼らを自分たちと同じ地平に生 きるように促しました。 強い父権社会の中で、 男の後ろ盾を失った女性の多くは春をひさぐよ りなかった。彼は、その女性たちを父権社会の 拘束から解き放って自立して生きる地平・場所 を用意した。  その彼が、結果的にその運動の締めくくりの ような形なったのですが、最後にエルサレムの 都、当時のユダヤ教支配体制の中央に何人かの 仲間と出向いていく。そして、そこで、中央の 為政者と対決してしまうのです。彼は、最低身 分の反乱者扱いで、最悪の処刑法・十字架刑で 殺されてしまいました。最悪の結果を覚悟して 中央に殴り込みをかけたこの路線変更はなんだった でしょうか。  彼がガリラヤ地方で活動したエネルギー源は 「神の国が近づいた」という強い信念でした。 「神の国」が、世界が見捨てていた辺境の地を 選ぶようにして、これまで社会から抹殺されて いた人々の間で、そしてそのことを当然のよう に受け入れて失望していた人々の中に実現して いると、イエスとその仲間はその中に自身を投 げ込むようにして運動したのです。それに対し て、人間社会を支えてきた権威・権力の仕組み は、彼の運動が人々から注目されればされるほど、 断じてそのままにはしなかった。 イエスはそれとの対決を負けと分かっていても 避けなかった。それがエルサレム行きの理由 だったと思います。  イエスの死後、彼の仲間であった人々、彼か ら引き上げられて新しい生活へと歩み出してい た人々の間で、彼こそメシア=キリストではな いかという声が起こりました。また、処刑され た彼に出会った、彼はまだ生きていると言い出 す人が出てきました。そんな風説が人々の心を つかんで、イエスをキリストと告白する人々が 教会=集会を始めました。これがキリスト教の ひとつの初めの一歩です。 クリスマスの物語は、ずっと後になってそのよ うなイエスの誕生を放置しておけなかった人々 の過剰な熱意の中から生まれた物語です。「過 剰な」と言ったのは、その演出が過剰だと言う のではありません。イエスにおいて起こった出 来事が、神から派遣されたメシアのことであり、 その意味で彼を神の子だと告白する気持ちはよ く分かります。けれどもそれと彼を神に祭り上 げてしまうことは別のことです。祭り上げるこ とによって、彼を私たちの間から取り除いてし まい、聖なる者として安置してしまい、イエス の福音を窒息させ、隠蔽してしまうことになる でしょう。  このような神格化、タブー化はキリスト教や 宗教だけの問題ではありません。宗教とは縁を 切ったような現代社会でも共通している問題が あります。聖なる領域を設けて、問題の本質を 隠そうとすることからまだすこしも自由になって いません。イエスが取り組んだことと、しかし それを祭り上げることによってかえって覆い隠 してしまうこととは、私たち現代を生きるもの の振幅と変わりありません。
12月12日の説教より ルカ福音書1章21〜25節 「創りすぎの降誕物語」   久保田文貞  クリスマス物語は、イエスが刑死した後50年 以上経ってから書かれた二つの福音書マタイと ルカに記録されていますが、偉人や英雄の誕生 物語と同じく、ほとんどが後世の創作によると 考えられています。ルカ福音書の場合、洗礼者 ヨハネの誕生物語がイエス誕生の物語に先行し て語られます。洗礼者ヨハネの高齢の父ザカリ ヤに天使が現れ、高齢の妻エリサベトに子が授 けられると予告します。この予告の中に、その 子ヨハネがメシア・イエスに先だって準備をす る者になるという4つの福音書に共通する洗礼 者ヨハネの使命が語られています。天使のお告 げに対して、ザカリヤは「まさか高齢の妻に子 ができるはずはない」と疑います(18節)。す ると天使は不信のザカリヤの口から言葉を取って しまいます。これがこの不思議な出来事の 〈しるし〉になっています。  このような誕生物語は古くから類型化されて いました。たとえば、創世記17、18章の父アブ ラハムと妻サラとの間に生まれる子イサク誕生 の物語や、申命記13章のサムソンの誕生など、 同じ類型の物語です。まず、天的な者が子のな い者へ呼びかけ、天的な者への畏怖、彼からの 慰めと喜びの授与、子の誕生の予告、その子の 使命と名が告げられる。そして告知された者の 反問へと展開していくという形を取ります。古 代ユダヤ教父権社会では、子のない女は妻とし ての座が脅かされ差別されました。人間社会か ら捨てられ抹殺されそうになっている女性を、 神は選びだし、祝福する−これこそのイスラエ ルの存在根拠でした。  しかし、このような物語は、誰が語り、誰が 聞くかによってだんだん横にズレていってしま います。つまり、それが女性たちを長く差別し ていった父権社会の男たちから公認された〈物語〉 になってしまうと、女性が蔑まれていること自 体が〈父権社会の神〉の哀れみや恵みを表現す るための小道具にされかねない。そうして女性 たちはいつまでも神の哀れみの対象になるよう にスタンバイさせられかねない。  クリスマス物語の作者(男)が、蔑まれた女 性たちを引き上げようとする神の恵みの代弁者 たろうとしている…その好意と心意気はよく分 かるのですが、だからといってそれで女性が父 権社会から自立するかというとそうはならない。 男性の物語の中に抱え込まれてしまうと、この ような好意的な物語にもかかわらず、かえって 逆に作用することになるでしょう。  この問題から脱却するためには、物語を語る 位置をひっくり返さなければならない。蔑まれ た者、差別された者、抹消されている者、職に ありつけない者、言葉を持たない者、物語をい つも押しつけられた者、…それらの人々が物語 を語る側に回り、それまで饒舌に語ってきた者 が聞く側に回るという事態が起こるべきです。  けれども、そう語る〈わたし〉自体がすでに 論理矛盾に陥っていると言われるかもしれません。 「語る位置をひっくり返すために、まずお前が 黙って聞く側に回れ。そうしない限り、クリス マス物語を創作したであろうルカを批判がまし く語れないだろう」と。確かにそうなのです。
11月28日の説教から       マルコ8章27−30節   「メシアなのか」      久保田 文貞  クリスマスは、処刑された、ナザレ出身のイ エスが、神の子であり、キリスト=メシアだった という信仰を補強するためのキリスト誕生物語 です。原始キリスト教において、イエスがメシ アだとした判断は、何だったかの考えてみたい と思います。  メシア(油注がれた者)とは、この世界がや がて神の審判のもとに服すべき時が来るという、 前2世紀頃から広まった終末信仰の中で、神の 意思を代行し、神から認証を受けた者を演ずる 重要なキャラクターのことです。これは、古き イスラエルの中で、神からの認証として預言者 や王の頭に香油を注いだ故事からきたものです。 原始キリスト教は、終末を描く黙示文学のいろ いろな装置を自分のものにしながら、処刑され たイエスを、神の子、メシアとする新しいタイ プの救済論を打ち立てたと言えます。  けれども、原始キリスト教が敷いた救済ドラ マの路線に、ナザレ人イエスが実際に行動し語った 言葉群は、どうやってもしっくりとしない。そ こには重要な違いがあると言わざるをえません。 確かに、イエスも黙示文学的な世界観に影響さ れていた。特に神の直接の支配がこの地上に及 び始めているという実感の中に生きていた。し かし、彼がそこで向かったのは、ユダヤ教神観 とその現実の秩序が放棄した人間たちだったの です。この世界に突きつけられた最期的な神の 審判という終末論的な図式に乗っかっているわ けですが、その効果は、そのような終末論を生 み出してきた主たる宗教の伝統を根源からひっく り返してしまうような内容を持っていたのです。 終末論を作りだしていた宗教そのものを無効に してしまうような終末論、そこに登場するメシ アそのものの役割を破壊してしまうようなメシ アというべきようなものでした。  そもそも、終末論というのは、この世界への 何らかの絶望の先に出てくるものです。つまり、 もうこの世界の延長線上に意味あるものは出て こないという判断が横た わっています。その限り、 ものすごく悲観主義的です。あるいは、この世 界を全取っ替えしてしまえという短絡的で、 「切れてしまった」先の思想です。ということは、 この思想の根っこに世界を支配しようと言う欲 望が潜んでいると言わざるをえない思想です。 この問題は、メシア=キリストを、「救世主」 と意訳する時にも忍び込んで きます。キリスト は世界を救うと平然と言ってしまう思想は、新 約書の中にもありますが、それがどんなにこの 世界を逆に混乱させ、迷惑を与えたか、現在で もキリスト教好きなブッシュ政権が犯している 妄想の元になっているものです。  イエスは、そのような終末論ドラマの主役キ リストの役回りに絶対に就くような人ではないと、 はっきりと言っておかなければなりません。マ ルコ福音書は、弟子筆頭のペテロがイエスに 「あなたこそキリストです」という告白に対し てイエスは否定的な応えをしてると記します。 伝統的な終末論の中でイエスをキリストとして いる原始 キリスト教の中でこのマルコの記述は 特異なものです。しかし逆に言えばそれだけに、 この対応がイエス本人に近いものだったと言う ことができます。前述したように、イエスがメ シアであろうとなかろうと、そのメシア性、宗 教性は転倒されてしまっていることを忘れては なりません。
11月21日の説教より マルコ福音書8章11−13節 「空について」    久保田文貞  近代的な宇宙観に依拠すれば、「空」は自然 科学的な表象であり、「天」は神話的な表象と いうことになるかもしれない。しかし、聖書の 世界観では、「空」と「天」を使い分けない。 旧約ではシャーマイム、新約ではウーラノス、 であって、使い分けしていない。ここでは「空 について」としたが、聖書の話をする限り「天 について」でもよかった。  創世記の天地創造物語では、この語の示すよ うに、「天」もまた神の創造物としている。理 屈から言えば、多くの神話のように、天空に住 まう神は、地とその上に生きる者だけを創造す ればよかったはずだ。しかし、古代ユダヤ教は 天界に雑居する他の神々や神話的な存在を、そ うやって大掃除をしてしまったと言える。そう は言っても、やはり「天」は神の居られる所と してイメジされ、神話的な観念が張り付いてい る。殊に、イスラエルがダビデ、ソロモン王国 の栄光の歴史を破綻させ、地上の歴史を汚点だ らけにしてしまった後は、地上のすべての人間 が神の審判のもとに立たなければなくなった。 前2世紀から1世紀にかけてユダヤ教思想の中 に現れた黙示思想あるいは終末思想は、この神 の審判を具体的に物語り、人々に神の怒りから どうやって免れ、救われるかに焦点を当てる。 これは、仏教の末法思想と似て、この地上の存 在を基本的に否定する。善いものがあるとすれば、 それはあちら側からやってくると考える。  福音書の中にたびたび登場してくるパリサイ 派ユダヤ人たちも、基本的に地上否定の立場を取る。 マルコ8:11-13で、パリサイ人は「天からのしる し」をイエスが目前に出して見せられるかどう か試そうとした。が、イエスは「今の時代の者 たちには決してしるしは与えられない」と言って、 その場を退く。この小さな物語に象徴される対 立点は何か。私はこう考える。神聖な神を崇拝し、 この地上を否定する信仰的な常識の上に立つパ リサイ人は、イエスが神から使わされた者であ るなら、それを証明する「天からのしるし」を 示してみよ、というわけだ。これに対して、マ ルコ伝が描くイエスは、パリサイ人と分かれた後、 弟子たちに「5千人の供食」のしるしのことを 想起させる。あれっと思うかもしれないが、そ うではない。脈絡から言うと、この「しるし」 はパリサイ人が求めた「天からのしるし」の範 疇に入らないのである。その後の22節以下の ベッサイダで盲人の癒しも同じと考えてよい。 つまり、イエスが地上で起こす事柄はこの地上 とそこに住む者を当然のように否定した上での、 「天からのしるし」ではない。むしろ、そこで 飢える者、障害と判定されて除外されている者、 法の違反者と認定され脱落者等々、このような 生きる権利を剥奪された者に、福音を惜しげも なく配給する。彼はこの地上での人間の困難を ゴミのように吐き捨てるのではなく、困難を抱 えている人間をその地上にあって生きる喜びの 中に引き入れていく。  それは、「天」と「地」の境界線を取り払って しまうことを意味する。この地上に「天」のこ とがまだら模様のようにちりばめられる。「天に まします我らの父よ、御名を崇めさせたまえ、 御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」という主の祈りは、この ことを祈っているように思う。
11月14日の説教から マルコ福音書2章10節 「大地について」 久保田文貞  生活の基盤となる大地は誰でも普段は気にも とめず、その上で生きる。それが、なんらかの 理由で、毎日踏みしめている大地が意識の上る。  イスラエルの歴史の中で最初に大地が意識さ れるのは、創世記12章に始まるアブラハム物語 である。彼は「あなたは生まれ故郷の父の家を 離れて私が示す地に行きなさい。」という神の 言葉によって引き出される。ここに出てくる 「故郷」も「地」も言語はエレツである。こう して彼はカナン=現在のパレスチナ地方に来る。 「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東 西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をす べて、私は永久にあなたとあなたの子孫に与える。 大地の砂粒が数えきれないそうに、あなたの子 孫も数え切れないであろう。さあ、この土地を 縦横に歩き回るがよい。私はそれをあなたに与 えるから。」  こんな言葉がその後の、そして2000年以上の 空白を経て現在のイスラエル土地神話の核にな るからおそろしい。しかし、族長アブラハムに 約束されている土地は、都市定住民が占有する 都市と周辺農地以外の、半遊牧民が家畜を追って 住み分けている地を意味していると考えるべきだ。 少なくとも近代国家の排他的な主権の及ぶ領土 とは別物である。イスラエル揺籃期の部族は、 小家畜の餌となる草地や水場、天幕地を求めて 移動する。当然他の部族との分かち合い、都市 農耕地周辺の草地・水場の使用権にも常に気遣って の移動である。神がアブラハムに約束したのは、 半遊牧民として「その土地を縦横に歩き回る」 自由な権利を保証した土地のことである。  しかし、この半遊牧的な、社会的底辺層を 担っていたイスラエルの連合体が、やがて力を つけて、少しずつ都市国家を攻略し自身が都市 農耕定住民に変質していく。さらに定住民となった イスラエルは確保した土地を守り、拡張するた めに、王権制度を取り入れ、他者を支配する国 家になっていく。カナンの約束の地は、王国と して支配する土地、領土になる。 その王国が前6世紀に完全に潰える。民の有 力な者たちがバビロニアに強制移住させられ、 遠くバビロニアから、彼らの失われたエレツへ の望郷の念に駆られる。ペルシャ時代になって 彼らは帰郷を許されるが、以後、帝国の公認宗 教、ユダヤ教として生き延びていく。エルサレ ムに神殿はあっても、彼らに土地を支配する権 限はない。 土地としての関心は神殿の建つシオンだけである。 ヘレニズム時代に突入しても基本的な事態は変 わらない。ただ、例外的にイスラエル王国再興 を夢見る運動があり、一時期成功したかに見え るが、全体としてはそのままローマ時代に突入 する。帝国のもと公認宗教として宗教貴族が民 を実質的に支配する。もはや土地は神の約束、 祝福の道具たり得ない。むしろ土地は神の裁き が展開する否定的な意味の地平でしかなくなる。  イエスの時代にかけて、ユダヤ教の通念のよ うに拡がった黙示文学的な世界観は、一種の末 法思想である。この大地は滅びの舞台でしかな い。神の救済はこの大地から人間を救出するこ とになる。  イエスは、このような大地否定に与しない。 この地上になんにも善いものはないという通念 に乗っかっているユダヤ教に対抗して、「この 地上で罪を赦す」(マルコ2:10)ことに躊躇 しない。イエスはこの大地を、神の恵みのフロ アにする。この地上で汚れにまみれた人間の生 活をむしろ神の恵みの貫徹する場所にしてしまう。
11月7日 永眠者記念礼拝で      ヨハネ福音書3章7,8節    「風について」         久保田文貞 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞 いても、それがどこから来て、どこへ行くかを 知らない。霊から生まれたものも皆その通りで ある。」(ヨハネ3:8)  この言葉は、「人は、新たに生まれなければ、 神の国を見ることはできない。」というキリス トの言葉を聞いて、「年をとった者がどうして 生まれることができましょうか。もう一度母親 の胎内に入って生まれることができるでしょう か。」という、陳腐ではあるが、一応知性を象 徴するようなニコデモに向けた言葉である。  確かに「肉から生まれた者は肉」でしかない。 つまり人間には人間のできることしかできない。 人間は一度死んで、もう一度人生をやり直すこ とはできない。生まれ変わることはできない。 にもかかわらず、敢えて言おうというわけだ。 「人は、新たに生まれねばならない」とヨハネ 福音書のキリストは言う。  そんなことは無理なことだという知性からの 反論に答えようというのか、「風は、思いのま まに吹く」と言う。  確かに風の吹く向きをすべて計ることはでき ない。現在の流体力学は、風の流れを把握する ための方程式を作ろうとするが、それはあくま でとても条件・変数をできるだけ制御してつか みだしたモデルにすぎない。科学者はけっこう 謙虚にそのことを承認する。人間の知性をもって すべてを知り尽くすことはできない、限界があ ると。賢い知性は、追求を止めて立ち止まる。 その向こう側について口を閉ざす。  これに対して、「風は思いのままに吹く」と いう言葉は、人間の力の及ばない、向こう側か ら他者が、人間の意思に似て主体的に「吹いて くる」ことを意味する。つまり、未知の他者が 向こう側に存在していて、その他者が人間に向 き合っているという わけだ。  しかし、このような事態は、なにも秘密めい た聖なる他者の問題かのように、かまえて言う 必要はない。〈私〉と〈他者〉の出会いは、予 測しがたい〈事件〉〈出来事〉として起こる。 そして〈私〉は〈他者〉と一緒に取り組もう、 一緒に生きよう、などと〈約束する〉。この約 束は、信頼するよりない、その意味で賭けである。 先月(10月8日)パリでなくなったフランスの 思想家ジャック・デリダは次のようなことを書 いている。−−−約束と呼ぶに足るようなもの はあるだろうか。約束が約束であるためには、 それが破られるものでなければならない。もし 破ることが許されない約束は機械的に生じる帰 結にすぎないから、約束の意味がない。逆に、 守られなくてよいような約束も意味がない。守 られないものとして結ばれた約束など約束と呼 べないから。それゆえ、約束とは、基本的に脅 迫であり、約束は約束した者になにがしかの変 更をせまる。−−−  〈私〉と〈他者〉の出会いは向こう側から やってきて、未来に向かって開かれている、そ ういう構造をもっている。このことが出来事を 作りだし、〈私〉を約束、信頼、信仰へと引き 出す。それは、生きた人間のことだけではない。 死者は確かに新しい約束の場へと出てこないと 思われる。しかし、死者と約束したことはまだ 生きているものの中に生きている。死者は生理 的に生きているわけではないが、彼が参画した 出来事は、〈私〉が参画する程度に確かに生きている。
10月31日の説教から   マルコ14章53〜65節  「イエス裁判の謎」    関 秀房  現在の日本で冤罪を訴えている無実の死刑囚 が7人いる。他にも有実の事件に無実の事件を押 しつけられるもの、殺意がないのに計画殺人と して死刑を宣告されるものなど死刑制度にはこ の面からしても大きな問題がある。9月14日には 野沢太三法相は1審無期の嶋崎末男さん、確定し て間もない宅間守さんを死刑執行した。あのア メリカでも検察の控訴権はないし、1審で確定し 処刑することはない。私にとって死刑廃止は大 きな関心事である。イエス裁判の記事にはいく つかの疑問点がある。逮捕されてすぐ、夜中に 最高法院が開かれているが、ラビ文献の法廷手 続きに合わない(ルカは翌朝に設定)。当時ユダヤ 最高法院には死刑執行権がなかった(ヨハネ18:31)。 イエスに不利な証言を求めたり、偽証があった。 そして肝心のイエスは罪を認めていない。  最後の点については少し説明がいるだろう。 61、62節では、大祭司が尋ねて「お前はほむべ き方の子、メシアなのか」それに対し、イエス は言った「そうです。」このように新共同訳に よればイエスは罪を認めているではないかと。 確かに他にも、協会訳、荒井献訳(講談社 イエス・キリスト)佐藤研訳(岩波)も同じ訳である。 しかし田川健三訳(講談社聖書の世界)は「そう 言いたければ言え」(「私がそうだというのは お前が言うことだ」の意訳)と訳している。 共観福音書の平行記事ではマタイ「それはあなた が言ったことです」も、ルカ「わたしがそうだ とは、あなたたちが言っている」も、イエスは 罪を認めていない。なぜ田川訳だけマタイ、ル カと同じなのか。これはマルコのどの写本が本 来のマルコ福音書(原本)に近いかという問題で ある。現にマルコの写本は2つに分かれていて どちらをとるかは五分五分。私としては田川訳 の写本(カイサリア系)の方がイエスらしいと 思っている。  「イエス裁判の謎」としたのは、以上の事柄 を指しているのではない。権力あるものが反対 勢力なり、じゃまな個人を抹殺するためには、 まっとうな理由など必要としない。イエスの時 代ならなおさらのことだ。私が謎というのは、 教祖であるイエスの不当な裁判、無惨な十字架 刑を目の当たりにし、聖書でも解き明かしてい るのに、これに怒らない無念さを表明しないク リスチャンでいられることである。大本は教祖を 獄中死させられ死刑反対に熱心に取り組んでいる。 キリスト教もこの事実を直視し、このような悲 劇をなくすために取り組んでいれば、裁判の公 正さや死刑制度の残酷さを認識し、歴史上の汚 点を少なくできたかもしれない。「イエスの十 字架の死は我々の罪が赦されるため」「神の子 イエスの苦しみは我々罪人を救うため」などと、 まるでこの裁判、死刑執行(十字架刑)は必要 であると言わんばかりである。または勘違いし てユダヤ人迫害を正当化したり、ブッシュのよ うに知事時代一番多く死刑執行して自分は敬虔 なクリスチャンだとうそぶく。死刑がなければ イエスはあのような無惨な死に方をしなかった、 その一念だけでクリスチャンなら死刑制度に反 対できる。死刑制度を存続させていることは今 もイエス(イエスのような人)を処刑させてい ることだとさえ思う。  最初に紹介した無実を訴えている死刑囚の一 人に千葉県市原市でおきた両親殺害容疑の佐々木 哲也さんがいる。当時の新聞記事を国会図書館 でコピーし事件がどのように報道されたか調べた。 大量の血が残されて行方不明の段階で息子の哲 也さんが両親殺しで逮捕されている。見込み捜 査が先行し、後から出てくる矛盾点は無視して 起訴される。犯行があった時間よりあとに母親 が近所の人に目撃されている。殺害現場に残さ れた血液型はO型(父親)のみ、そのほかにも 「同時、同所」殺害の矛盾点がいくつもある。 なぜ裁判所は検察よりの判決しか出せないのか。 先日も長野で親を殺したとして厳しい取り調べ を受けていたが、幸いにも犯人が自供し冤罪が 防げた。本来なら被害者の遺族であるものが殺 人犯にされ自分も国家によって殺されようとし ている。こんな事が許されて良いのか。
10月24日の説教より マタイ福音書10章40〜42節 「水について」    久保田文貞  聖書世界の舞台となっている地域の気候は、 基本的に乾燥帯に属する。パレスチナを流れる 主たる川のヨルダン川は、ガリラヤで海水面か ら−209m、最終の死海で− 417mという低地帯 を流れるだけ、現在はその水をくみ上げ灌漑に も使っているが、昔は山間部でその水を利用す ることはできない。雨水はというと雨期以外に 頼れない。季節によって露が豊富に降りるらし いが、作物にはよいとしても、人間の生活水に はならない。結局、井戸、オアシス(泉)から 生活水を確保できる場所で、町ができ、農業が 行われた。ただし、城壁を巡らした町は防衛上 小高い場所に建てられたから、井戸は町の外に なることが多い。井戸べに水をくみに来るのは 女たちの仕事であった。創世記24章10-14、 ヨハネ4章4-7など、井戸べでの美しい出会いの 物語が聖にたびたび出てくる。  雨期に雨が降らなければ、農耕地周辺の草地 に暮らしていた半遊牧民たちは途端に活ができ なくなる。食糧難民としてエジプト等に行く。 伝承によると、そこで彼らは強制労働させられ ることになり、モーセの誘導によりそこを脱出 し、水のない荒野(ミッドバール)を40年間さ まよったという。(出エジプト〜申命記)  このグループや、パレスチナで半遊牧的な生 活をしていた下層民たちが最初期のイスラエル 部族連合を作って、都市に対抗していくわけだ が、彼らの生活空間は都市とその農耕地の外側 の「荒れ野」であって、水の確保が難しいとこ ろである。雨期に期待された雨が少なければ、 途端に死活問題となる。パレスチナに残ってい た者も、民数記21章16節以下のような、出エジ プト後の放浪生活の中で神の恵みによって泉が 発見されたという物語を、十分にリアリティを もって受け入れることができたわけだ。  イスラエル部族連合が都市を攻略しはじめ、 ダビデ以後、国家を形成した後は当然、水の事 情が変わる。「あなたが入っていって得ようと している土地は、あなた達が出てきたエジプト の土地とは違う。そこでは種をまくと、野菜畑 のように、自分の足で水をやる必要があった。 あなたたちが渡っていってえようとする土地は、 山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されて いる。」(申命記11:10-11)ほんとうは私たち の住む列島のように雨がたくさん降るわけでは ない。ただ水だけでいうと、水利のよい場所を 獲ったということだ。水の不足する地域で、水 を管理する側になったということだ。水の権利 を持たない貧しい者たちに水を分けてやるかど うか、それが試される。 イスラエル、ユダが 国家を喪失して一つの宗教団体となる。水に関 する物語はなくなり、ただ清めの儀礼の中で意 味を帯びて現れてくる。後のキリスト教も洗礼 として、これを引き継いでいる。  イエスは、洗礼という儀礼をヨハネから受け たようだが、それにこだわらない。むしろそれ を捨てた。現実の人間が人間として生きる−−− 閉ざされ、隠され、無視されていた「神の国」 において。彼の言動は特異なものだった。水の ことでいえば、「乾いた者に一杯の水を飲ませ てやる」かどうかに目を向ける。それは、自分 は何をすべきかと迷ったりする者の「倫理」問 題ではない。喰って生きることに四苦八苦しな ければならない者たちの間での「水を飲ます」 ということなのだ。
10月17日の説教から    ルカ福音書16章9−13節  「マモン(富)について」    久保田文貞  ルカ16章8b〜13節は、その前の「不正な管理 人の譬え」の理解に助けとなるような、イエス の言葉伝承を並べたもの考えられる。なぜそんな ことをするかといえば、本題となる譬えがおそろ しく危なっかしいからだ。  その譬えは、主人の財産を横領していると訴え られた管理人が、免職された後のことを心配し、 債務者一人一人を呼び寄せて、債務を軽減してや ることにする。そうやって恩を売っておけば、離 職後彼らから迎えられるだろうと計算してのことだ。 とにかくこの管理人は、近代刑法的な意味での横 領罪に加えて、背任罪、管理人という役職につい ていたことからすれば特別背任罪を犯している。 これに対して、イエスは管理人の賢いやり方を褒 めたというのである。  この伝承を受け止めた後の教会としては、処理 に困る。廃棄するには、あまりに真性なイエスの 譬えとして保証されている。そこで何とか、解釈 しなければならない。 そこにイエスの言葉として伝承されたものをもって きたというわけだ。しかし、この4つにはそれとし てあまり信用できない。10、11節などは、別の所か らもってこられたただの格言だろう。インパクトが あるのは、9節「不正にまみれた富で友達を作りなさ い」である。だが、もとの譬えは、この世で不正と されることをもちいても、危機的な状況を乗り越え よと決断を迫るのだろう。ここで危機的な状況とは、 「神の国」のことだ。ただし、イエスにとって神の 国=支配とは宗教的な理念ではない、現実に起こって いるこの世の、善−悪、正−不正、支配−被支配など の秩序の攪乱のことであり、その攪乱の中で、それま で縛られ、閉じこめられていた人間たちの解放、再生、 燃焼のことである。しかし、正・不正、善・悪、 支配・被支配を攪乱すること自体を、不正とするのが 「この世」に他ならない。「この世」はイエスを悪人 として処刑した。そのイエスが復活して再びこの世界 に臨むというのだから、キリスト教はものすごく危険なわけだ。 10月10日の説教より ヨハネ福音書13章1〜11節      「足」 久保田 文貞  「足」が象徴するものは、まず支配者が被支 配者を治めるということだ。すぐ思い出すのは、 東大寺戒壇院の四天王像、多聞天・増長天・広 目天・持国天である。これら仏の守護神はいず れも鎧を身につけた筋骨隆々の闘士で、足下に 邪鬼を踏みつけている。踏みつけられた鬼が何 を意味しているか公式の解釈は知らないが、い ずれ仏の支配を阻止する者、それに逆らう者た ちを表しているのだろう。 私はこれらの像がものすごく気になるのだが、 好きではない。いつもむらむらとわき起こって くる邪鬼を、必死に押さえつけ勝ち誇ったよう に立ち上がってみせる〈自我〉を見せつけられ ているように思うだけではない、人間社会のこ とを思えば、支配者の言うとおりにしない者た ち=邪鬼を、過剰に力で抑え法で縛ろうとする 支配の現実を思い出すからだ。  そして宗教は、それだけではない。自ら進ん で治める者の足下にひざまずき、捧げ物を足下 に供えようとする…そういう人間作りをせっせ と生み出す。為政者から見れば、もしそれを横 滑りさせられるなら、この上ない人間を作りだ してくれるというわけだ。  古代イスラエルの宗教も、そこから生まれた キリスト教も、足という象徴語をふんだんに使って、 神への服従というモチーフを表現する。「神は、 すべてをその足下に服従させた。」 (�コリント15:17)、「神に僅かに劣るものと して人を造り、なお、栄光と威光を冠としてい ただかせ、御手によって作られた物をすべて治 めるように、その足下に置かれました。」 (詩篇8:6-7)、後者は神が万物の支配権を、 人間に委譲する、つまり人間が、あるいはその 一部が、神から委託を受けて万物を支配すると いうことが権威づけられている。さらに言えば、 このことがそのまま教会の権威に滑り込んでい くのを目にすることさえできる。 「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。 土地や家を持っている人が皆、それを売っては 代金を持ち寄り、使徒たちの足下に置き、その 金を必要に応じて、おのおのに分配されたから である。」(使徒4:34以下) これらすべて〈支配−被支配〉の縦構造を前 提にした言葉である。その善し悪し、 好き嫌いを別にして、支配の構造から逃れよう にも逃れがたく「現実」として目の中に入って くるのは確かだ。そこに上手に入り込めれば、 なんとかやれる、それに入り込めないとてきめん に懲らしめられる。そこで一般に教育も宗教も、 支配するにしてもうまく、支配される側にして も上手に入り込める人間を生産するというわけだ。  しかし、イエスはどうひいき目に見ても、そ の反対のことをする。支配する者は支配される 者になれと言う。(マルコ10:42以下)  弟子の足下に膝をついて、彼らの 足を洗ってみせる。(ヨハネ13:1以下)  これを、支配しようと思う者は、支配される 者の気持ちを理解せよなどと言い換えてはなら ない。イエスの言葉とされているものの意味は 明解である。われわれが疑わない〈支配−被支配〉 関係を180度逆転させようという。そうやって攪 乱を起こし、そこら中にトラブルを起こせ、と いうわけだ。無責任だと言われるかもしれない。 確かに、〈支配〉と〈秩序〉を第一に考える人 にはそう言える。でも、イエスは、この攪乱の 向こう側にあるものを信頼して踏み込んで行った のである。
10月3日の説教より マルコ6章53−56節  「手」というテーマの説教をして       久保田文貞  目、耳、鼻、口とテーマを決めてから、聖書 に当たるという、これまであまりやったことの ない方法を採ってきて、いろいろ考えさせられた。 今回は〈手〉だけれども、聖書にその切り口を 探せば、溢れかえっているはずだ。人間のほ とんどの行動において、何らかの仕方で手が関与 しているから。だが、そうして、摘み出したも のから何を読むか、たぶん〈読む〉というよりは 〈読み込む〉ということになるだろう。  テーマ説教に限ったことではないが、「教会で 説教をする」という構えが、何を読み込むかを決 めてしまう。はじめから答えは決まっている。こ のことは、語る側のことだけではない。聞く側に おいても、「礼拝の説教を聞く」という構えが、 何を聞くか決めてしまう。こうしたことが、テーマ 説教の場合、いっそう見えてしまって、つまらな さを増す。  答えがはじめから出ていることを、あたかもあ らためて調べて発見したとか、聞いて初めて気が ついたかのように振る舞うことは、あまりよくな いことだ。ほとんど無効になりかかっているヴィジ ョンを「繰り返し」、「同語反復」して何とかリ アリティを掻き出そうとするわけだが、そういう 集団を続けているという以上の意味はな い。皮肉に言うとそういうことになる。  それでも、自分は今もなお、分かり切った答え を超えた、自分の期待を根本から覆すものが、こ の中から出てくる、あるいはこの中にあるという 期待を持っているらしい。これは〈期待を覆して くれる期待〉という意味でひとつの形容矛盾だろう。  私は、「誘惑し悪を犯す手」として創世記3章の イヴとアダムの手、その子のカインとアベルの手 を読んだ。また「懐疑する手」としてヨハネ20:24-29 を読み上げた。 その延長線上にある、信仰を「実証する手」とし て第1ヨハネ1:1以下を呼んだ。想像力は際限なく 続く。神を求めて、祭儀を繰り返す手、偶像を彫 る手、神の支配を代理し杖=権威をふるう手。飢 えと渇きの中で食物と水を求める手、救いを求め る手。求道する手…。  これらの人間の手の動きに対する答えには次の ような期待が張り付いている。神は、そのように、 誘惑に負け、反逆し、失敗していく人間に、何ら かの仕方で〈善いもの〉を下さると。これが、初 めから設定されている結論であり、神はこのよう な答えをしてくれる神であるというのが最初から 決定されているのである。  そういうことなのだろうか。礼拝とはそういう 反復の仕方に荷担し加入することなのか。初めか ら答えが分かっている集まりなのか。確かにそう かもしれない。礼拝順序の最後にある「祝祷」が 初めから予定されているように。ということは、 それ以上のものをここに期待してはいけないのか。 〈期待を覆してくれる期待〉を待つことは不信・ 背理・反逆なのだろうか。神は最後に〈祝福〉で 終わろうとしないかもしれない。さらに言えば、 神は終わらせるという仕方を取らないかもしれない。 同語反復させる、ということは縁取っているよう でいて縁取らないということかもしれない。  いずれにせよ、「説教」などというい有り様は もう不可能なのだ。
9月26日の説教より ロマ書3章10-18節    「口」  久保田 文貞  〈口〉という語を、聖書がもっとも印象的に 書きたてる箇所は、〈耳〉のところでも引用し たロマ書10章のパウロの手紙の言葉だろう。 自己の功績を積むことによって神からの褒美を 我がものにする「律法による義」に対して 「信仰による義」がどのように人に及ぶかが書 かれる。そこで旧約(申命記30章)の引用が為 されるが、そこに書かれていることは、律法は 「難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬもので もない。」わざわざ誰かを天に昇らせて聞いて きてもらう必要もなければ、海の彼方まで行って 取って聞かせてもらう必要もない。「「御言葉は あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心 にある。」というのである。  パウロは申命記の言葉を強引にねじ伏せて 「誰かが天に上るか」など仮にも言ってはな らない、「誰が底なしの縁に下るか」と言って もならないと書く。ことに後半は解釈の域を超 えている。もとは律法はすぐ手元に、あなた自 身の心の中に書かれているということを際だた せるために使われた単なる修辞的な言葉が、 キリストを持ち出して否定する。ちょっとやり すぎだと思います。旧約に限らずユダヤ教文書 の中にあるときどきほっとするような言葉なのに、 なんでもかんでもキリスト論的にねじを巻いて いくやり方は好きではありません。  もちろんパウロにそんなことを言っても始まり ません。彼は申命記の文言と、彼が打ち出してき た「信仰による義」とは通じるものがあると主張 する。 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神 がイエスを死者の中から復活させられたと信じる なら、あなたは救われるからです。実に、人は心 で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる のです。」  10節は直訳すれば「心に信じて義へ、口で告白 して救いへ」となる。「口で公にして」と日本語 に転写すると意味がずっと狭まるが、翻訳者は文 章脈絡を察知して敢えて「公にする」と訳したの だろう。「言葉(logos)を一つ(homo)にする」 というニュアンスが一目でわかる告白(homo-logeo) という行為は、すでにパウロの時代、クリスチャン の間で特別な教会用語になっていた。告白とは、 それ自体優れて教会の枠組みの特別な行為になって いる。だから「口で告白する」ということは外部 に向かって発言するという意味ではなく、教会の 信仰に一致するという意味の強い表現だ。人間の 器官の一つである口から音声を使って信号を発す るわけだが、告白は単に外部への発信ではなく、 教会という仕切られた制限つきの外部への発信と いうことになってしまう。  パウロはここで神の言葉がイスラエルから教会へ、 教会から外部へと発信されていく流れ図を描いて いる。そこに口と耳が象徴的に機能していく。 けれども、実際にはそういう流れになかなかなら ない。告白は外部に出なく、内部に向かってしま うから。とすれば、言葉も内部に滞留してしまう ことになる。彼は一人気を吐いて、外部を求めて いわゆる〈伝道〉するが、「主イエスを信じます」 という「告白」を救われるための条件にする限り、 内部に神の言葉を滞留させてしまう構造を作るこ とになる。3章10節以下の「呪いと苦みで満ちた」 口の深刻さは、クリアされていないと思う。
9月19日の説教より  創世記2章7節 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)  を形作り、その鼻に命の息を吹き入  れられた。」 −−−鼻について−−−     久保田文貞  創世記では「鼻」は、神が人に命を与えるため に息を吹き入れた大切な器官でした。  申命記4/28では、偶像礼拝を批判して、 「あなたたちはそこで、人間の手の業である、 見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐ こともできない木や石の神々に仕えるであろう。」 と言います。つまり手・目・耳・口・鼻をもった 偶像が作られる、しかしその目は見ていない、 耳は聞いていない、口は食べない、鼻は臭いを 嗅がない、つまり生きていない。そういう批判 の仕方です。これは本来、宗教相互の教理上の 争いといった性格のものではありません。そう いうことが成り立つのは、宗教を特化して取り 出した近代的な地平でのことです。  偶像礼拝批判は、人間・社会の有り様、生き 方に対する全体的な問いというべきものです。  古代のイスラエルの出自は、エジプトやアッシ リアの勢力争いと、そこで右往左往する都市国 家群の争いの間で、定住できない放浪の民であり、 寄留の民でした。彼らが身を添い寄せざるをえな い都市国家には、きらびやかに飾り立てられた祭 壇に、かぐわしい香の立ち上る中、手、目、口、 耳、鼻を造形された神々の像がありました。 それに対して、放浪民・寄留民の神は、神殿もな く像もなく、ただ彼らとともに生きている神。 民と共に生きているという実感と日常に存在根 拠を持つ神でしかなかった。見る・聞く・語る・ 食べる・嗅ぐ・・・これらは、彼ら寄留民が、 困難な条件の中で、神と共に生きていくときに、 実感して手にするものなのです。偶像批判とはそ ういうところから生まれてきた批判精神のように 思えてなりません。  しかし、このような出発の仕方をしたイスラ エルは、やがて寄留民から定住民へ、半遊牧民 的な牧畜業から都市定住型農耕民へ移行してい きます。それに伴って、宗教文化的にはそれま で彼らが忌避していた文化を摂取することになる。 このような都市・農耕型文化の受容は、ダビデ が王国を建設しソロモンがそれを引き継いで、 決定的になりました。ソロモンが建てた神殿は、 神ヤハウェの像こそ露出していなかったけれども、 それを取り巻く像や器具、建築様式は当時の周 辺国家のパンテノンそのままでした。そこで国 家に雇われた祭司が礼拝行為をする。もはや外 見的には、ダビデ王朝の国家宗教と周辺国のそ れとの差はほとんどありませんでした。では、 何が違っていたか。ダビデは被征服民を自己の 国家形成の中に取り込みながら、異文化を統合し ていくわけですが、その一方で、イスラエルの 長老たちの席を用意し、独自の伝統も守ろうと しました。その結果、かつての寄留民時代、半 遊牧的砂漠生活の時代の信仰とその批判精神が、 生き残ったのです。ことにそれらは中央ではなく、 地方に。  8世前半の最初の記述預言者アモスは、その ような中から出てきた人です。彼の時代は、弱 体化した北王国を復興させたヤラベアム2世の 時代。しかし、国が興隆するとは、周辺国家と の交流が盛んになることであり、社会経済文化 宗教の面で大きな妥協を図ることであり、イス ラレルの伝統から見れば堕落以外のものではない。 アモス5/21「わたしはおまえたちの祭りを憎み、 退ける。祭りの捧げ物の香りも喜ばない。」  彼の原点は、「かつて40年の間、荒れ野に いたとき」(25)、それは遊牧生活を送ってい た時、寄留者としてしか認められなかった時の 信仰であり、社会の階級分化がほとんど進んで いなかった時代、イスラエルが少数者として連 帯していた時代のものでした。地方の下級祭司 や予言者らは民に支援を受け、古きイスラエル の批判精神を保存していったのです。 この批判精神が、紆余曲折を経て、ナザレ人 イエスに受け継がれているのは確かです。イエ スは、神殿のかぐわしい香に何の価値を認めず、 自己を不浄なものから遠ざけた日常を求めず、 民衆たちの生の臭いが芬々とする中へ歩み入り、 彼らの声を聞き、彼らに語り、彼らと食事をし、 彼らの病を癒す。そこで見ること、聞くこと、語 ること、食べ味わうこと、生活の香りを嗅ぐこと、 あらゆる感性が行き交うのです。
9月12日の説教より ロマ書10章14〜18節    「耳」 久保田文貞  前回述べたように、基本的に聖書では「目で 見る」こと以上に、「耳で聞く」ことを重要視 しています。目には偶像が飛び込んできて迷わ すが、耳には神の言葉が響き渡ってくるからです。 目は誘惑を引き起こし神からの離反の元になり、 耳は神への服従の道を用意するというわけです。 今回はこのことを検討したいと思います。  パウロはロマ書10章で、「信仰は聞くことに より、しかも、キリストの言葉を聞くことによって 始まるのです」と書いてキリスト教信仰にとって 「聞く」ことの重要性を説いています。けれども、 その場合(ここがパウロのテーマなのですが)神 の民ユダヤ人のように優先的に「聞いた→従った」 だけではだめだというのです。彼は「私(神)を 探さなかった者たちに見いだされ、私を尋ねな かった者たちに自分を現した」とイザヤの言葉を 引いて、「聞かなかった」ユダヤ人の外部=異邦 の人々に神の目に留まり、彼らに神はご自分を現 わされたのだと言っていることになります。  ここには「聞いた」「信じた」「従った」とい うことが何か特権のように一人歩きできないと釘 が刺されている。つまり、キリスト教信仰がまる でユダヤ教に取って代わって新しい世界的に宗教 になり、新しい〈内部〉を作る力を秘めているか のように錯覚してはならないと釘刺されていると 捉えるべきです。  「信仰は〈キリストの言葉〉を聞くことによって 始まる」と言っているからと言って、「聞いて、 信じて、従って」終わりというわけではないので す。〈キリストの言葉〉とは、彼もこの脈絡では、 ほとんど口をつむいだままですが、ほんとうは 「十字架につけられた」〈キリストの言葉〉と明 記すべきです。  「十字架につけられたキリスト」とは、このよ うなことを語りかけてきます。宗教が神の救いの 内部にあると保証していた人間をむしろ放棄して、 イエスはその外部にいる人間こそ神の国の住民だ と宣言しました。これは内部にいる人間からはも のすごく危険な思想だみなされるでしょう。既成 の社会システムの基底部を攪乱するからです。そ のとおりイエスは攪乱者として、不名誉にして最 悪の処刑で殺されました。「十字架につけられた キリストの言葉」とはそのことです。  ですから、その「知らせを伝える者の足は、な んと美しいことか」というイザヤの言葉が引用さ れていますが、もともとこの預言もある種のアイ ロニーであり、敗北の美学と言ってもいい。とに かく「信仰は聞くことにより、しかも、キリスト の言葉を聞くことによって始まる」とは、実は、 同じように〈語る−聞く〉の基本単位の上に乗っか っている既成の社会システムを根本からひっくり 返しかねないものを秘めているのです。  「聞く・信じる・従う」の回路をどんなに研ぎ すましていっても、鼻持ちならぬ内部が強化され るだけです。「よい知らせを伝える者の足」がす ばらしいと言えるのは、彼らが内部を超えて周縁 に足を運び、外部に踏み出す軽妙な足運びをする からでしょう。その〈言葉〉を聞くのが楽しいの ではないでしょうか。
9月5日の説教から ルカ福音書11章34-36   「目」 久保田文貞 旧約宗教は、基本的にr見る」というこ とを「聴く」ということの下位におく。こ とに預言者たちは、都市文化の堕落を糾弾 し、ディオニソス的な夢幻を避け、華美絢 燗を嫌う(アモス書3章9-15)。総じて 彼らは、族長達に見られるような半遊牧民 的で質素な生活をイスラエルの伝統と捉え ている。視覚を襲うものは、例えば鋳物や 木彫の偶像(第2イザヤ46など)であり、 それは誘惑に満ちていると考える。目とは、 キリリと前を向いて、神の方に歩むための もの(歳言4:25-27)というわけだ。 もちろんキリスト教以前だけでも千年以 上の歴史を持つ古代イスラエルをこんな簡 単に裁断できるはずはないと恩う。ただ、 質素を尊び、何事につけ倫理的であろうと する生活態度が、ユダヤ教の中を流れてい る一つの理念的な傾向として存在している のは確かだと思う。 イエスの時代のことで言うと、福音書の 中でイエスの敵対者として現れる“パリサ イ派"の人々もむしろこの部類に入るとい ってよいだろう。彼らは何を憂い何を見た か。彼らが見たものはヘレニズム時代に入 ってずっとたががゆるんでしまったユダヤ 教である。これをなんとか締め直そうとそ の掟でもって縛ろうとした。しかし、彼ら は人々の生活の現実から遊離し、いたずら に「罪人」を作りだし排除・差別したのだ。 福音書では「ものの見えない案内人、あな たたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、ら くだは飲み込んでいる。」「杯や皿の外側は きれいにするが、内側は強欲と放縦で満ち ている」(マタイ23:24,25)と指弾されるけれ ども、彼らの視線が「うわべ」を見れぱ見 るほど、実は同時に無意識のうちに内面を 掘り進んでいたことを忘れてはならない。 マタイが描く偽善への糾弾の図は当の彼ら 自身が創造していたものだ。 イエスは、何を憂い、何を見たか。彼が 見るものは、パリサイ派の人々が「罪人」 というラベリングをして「見る人々に違 いないのだけれども、イエスは彼らを神の 哀れみのまなざしと同じまなざしで見る。 例えぱ、彼のもとに運ばれてきた病人と向 き合う。その人がどの律法に違反したかど うかなどは論外なわけだ。神がその人を哀 れもうとするその期待される出来事の中に 自分自身をすべて投げ込む。イエスはその ようにして、相手を見る。 イエスの「見る」について言わなければ ならないことはこれ以上でも以下でもない。 ルカH章34-36のような言葉は、純真な信 仰心を求める共同体や後の教会のような場 でこそ意味を持つ言葉だ。イエスは、その 人の目が澄んでいようと曇っていようと、 あの神が哀れもうとする人間にとってどう でもいいことのはずだから。