ロードアイランド州は、どうしてあんなに小さいのに州なのか?


 アメリカ一面積の小さい州、ロードアイランド州は、アメリカ全体の地図をみると、小さすぎてよく分かりません。大きい州なら日本全体の面積より大きい(テキサスやカリフォルニア)というアメリカの「州」ですが、ロードアイランド州のの人口や面積は佐賀県並みです。この州に対する私の関心は、「なんでこんな小さいのに1つの州なの?」という点にありました。というのも、50州中、面積48位のコネチカット州でも新潟県程度の大きさはあり、49位のデラウエア州の、そのまた半分の面積しかないロードアイランドが、何故単独の州になったのか、不思議に思うところで、調べてみました。

 1630年代、ひとあし早く入植がはじまったマサチューセッツ州では、清教徒(ピューリタン)による厳格な政治が行われていました。これに対して、ロジャー・ウィリアムスという牧師が、信教の自由と、土地の本来の所有権は(イギリス王の特許に反して)ネイティブインディアンにあるという旨主張し、ボストンの植民地政府からにらまれて追放されました。彼は支持者とともに南下し、苦労の末、インディアンから土地を購入して定住します。現在は州都となっているこの地への到達は神の導きによるものであるとして、"Providence"(神の導き)と名付けられました。1643年には本国(イギリス)の議会から、単独の植民地としての認定を受けます。

 植民地の成り立ちから分かるように、ロードアイランドではイギリス植民地の中で最も自由が認められており、選挙に基づいた政府や、信教の自由が認められていました。結果として、プロテスタントやユダヤ教徒、ユグノーといった、当時「異端」とされた人々が多く移住してきました。

 当然のごとく、隣のマサチューセッツからは、「信心深くない異端者」と批判され、対インディアン防衛のために(1643年)結成されたニューイングランド植民地連盟からも、ロードアイランド州はメンバーから締め出されます。両者の関係が一応正常化するのは、1663年、イギリス国王チャールズ2世からロードアイランド現地政府に、領域と自治政府を認める信任状が出てからのことです。

 この辺の力関係の変化は、おそらく、イギリス本国におけるピューリタン革命(1642年内乱勃発→1649年国王チャールズ1世処刑)と、クロムウェル死後の王政復古(1860年チャールズ2世即位)という動きにも関係しているかと思います。

 そんなわけで、アメリカ一小さな州・ロードアイランドは、もともと、「親元」のマサチューセッツからの離脱と対立、さらには共存という過程を経た植民地政府が、独立13州のひとつとなった、という理解ができると思います。

 また、ロードアイランドにおける自由主義的な考え方は、その後のアメリカ全体の制度にも大きな影響を与えました。トーマスジェファーソン(第3代大統領、憲法起草者)やジョン・クインシーアダムス(第4代大統領)は、憲法の修正第1条(信教の自由や言論の自由、集会の自由)のコンセプトは、ロードアイランドの制度がモデルとなったと公式に認めています。

(参考)http:// colonialan cestors.co m/ ri/ rihistory. htm

 

   
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